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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第8章 魔物退治
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8-9.熱

 頭が痛い。それに吐き気もするし、なんだかとても寒い。

「……ぅ」

 どこからか風が吹いてきて、一段と冷えが強まった。それで全身が濡れていると悟る。

(……ああそうか、また水に落ちたのか……婆さま、呆れるだろうな。あと、ターニャがまた怒る……)

 それから眉根を寄せた。

(あれ? でも、どこに落ちたんだっけ……湖? 川?)

「ぅ、ん……」

 不快感に思わず呻くと、高原にしか生えないルトナの木の香りが鼻腔に流れ込んできた。

(森の匂い……)

 大好きな香りだ。いつも嗅いでいるはずなのに、なぜが無性に懐かしい。それが不思議で目を開けようと思うのに、目蓋が重くて動かない。

(……眠い、し、まあ、またでいい、か……)

 意識がゆるゆるとまた眠りの淵に沈んでいく。

「っ、返事をしてくれ、フィル……っ」

(……? 心配してる……)

 大人の男の人の声だ。誰だっけ? 聞いた覚えがある。でもそんな知り合いはいないはずだ。

「頼む、フィルっ」

 その人がまた自分を呼んだ。なぜだろう、必死に聞こえる。

 知らない人がそんなふうに自分に呼びかけてくることが不思議で、でもなんでだろう、嬉しくもあった。

 そんな人に心配をかけてはいけないと、フィルは眠気に抗って、何とか薄目を開く。


「……」

 目に入ったのは森ではなかった。

 綺麗な、綺麗な青の双瞳が見えて、今にも泣き出しそうな形に歪む。直後にそこから透明な滴がぽたぽたと零れて、フィルの冷え切った頬を温かく濡らした。

(ああ、そうだ、前も魔物に襲われて……)

「アレク、は平気?」

 その顔がくしゃりと歪む。それでもやっぱり美人だ。

「アレ……クが……助、けてくれた……の」

 寒気でこわばっていたはずの顔の筋肉が自然に緩んだ。

(また会えた、また助けてくれた……)

 ありがとう、って言いたいのに、すごく眠い。大丈夫だよって言いたいのに。

 でないとまた心配するのに。でないとまたいなくなってしまうかもしれないのに。



 * * *



 すぐ側で薪の爆ぜる音がした。意識が浮上してくる。

 同じ方向に明るい、炎の気配がある。その逆側は対照的に暗いのに、やっぱり温かくて心地いい。

 フィルは誘われるようにそちらへと擦り寄って、そのまま夢と半覚醒の間を行き来する。

 そうして甘やかな空気に包まれているうちに知らず顔が綻んできた。

 久しぶりに夢にアレクが出てきた。泣いていたのがちょっと残念だったけど、相変わらず美人で、自分を見て名を呼んでくれた。

「フィル」

 ――そう、こんなふうに大事そうに。

「起きたのか?」

『起きたの? おはよう』

 お泊りの次の朝の光景を思い出して、フィルは微笑む。

 夢うつつにいる自覚は出てきたが、久しぶりのアレクだ。もう少しだけ彼女を感じていたくて、甘えるように左側の温かいものにくっついて……。

「フィル?」

「っ」

 その感触やら声の低さやらに違和感を覚えた瞬間、一気に覚醒した。

「ア、アレックスっ」

 跳ね起きれば、めまいがした。

「っ、大人しくしてろ……っ」

 彼には珍しい、焦りを含んだ命令と共に、再び抱き寄せられる。

(――素肌、だ)

 そして固まった。彼だけじゃない、自分も何も着ていない……。

「……え、ええええと」

(な、ななんで、何がどうなって、ええと、ななななんだっけ、)

 半ば恐慌状態になりながら、フィルは状況を把握しようとするもまったく覚束ない。

(ああ、もう、グリフィスの尾をくらった時だって、こんな風にはならなか……)

「グリフィス!」

 思わず彼の耳元で叫んだ。

(そうだ、頭にひどい衝撃を受けて、脇の急流にふっとばされたんだ)

「始末した。頼むから、少し落ち着いてくれ」

 フィルをきつく抱きしめたまま、アレックスが長く息を吐き出した。吐息の熱が髪の合間から首と頭に伝わってくる。

「これ以上、フィルに何かあったら……」

 そう言ってアレックスは顔を見せないまま、フィルの背に回した腕に力を込めた。

「……」

 彼の全身が細かく震えていることに気付いて、拘束の中フィルは目をみひらく。

「無事で、生きていてくれてよかった、本当に……」 

 消え入りそうに掠れた声で囁かれて、心臓が跳ね上がった。

「フィル……」

 耳元でもう一度名を呼ばれ、その声音に肌があわ立つ。密着した部分から体が溶けていくような感覚が、全身に広がった。

「……アレックス」

 身体の奥底から「応じろ」という声が聞こえた。それに従えば、呼びかけに答えるように、アレックスが顔を見せてくれて……なぜか泣きそうになった。

 長いのに細さを感じさせない首と、引き締まった顎のライン。バランスのいい唇と、高すぎも低すぎもしない鼻梁。懐かしさを感じさせる深い青の瞳とそれの納まる切れ長の涼やかな目元。それから、今見せてくれている、少し苦しげに見えるのに優しい、不思議な表情。

(やっぱり好きだ、ものすごく……)

「……」

 引き寄せられるように、彼の頬へと両手を伸ばす。そして、自分に引き寄せると、口づけを落とした。


 長い、けれど唇を重ねるだけのキスの後、熱に浮かされたように彼の瞳を見つめていて……フィルは不意に顔を伏せた。

(……な、なんかすごいことをしてしまった気が……)

「ええと、その、ここは……?」

 羞恥を隠したくて、顔を俯けたままおずおずと問うた。

「……猟師小屋のようだ。かなり流されてしまったから、プレビカの白岩村の近くだろう」

 そう答えてくれたものの、アレックスがじっと自分を見つめ続けている気配がして、フィルは彼の腕の中で小さく身じろいだ。なんだかとても居心地が悪い。

「明日村を訪ねよう。そうすればタンタール国境警備隊の要塞に連絡が出来るはずだ」

 そう続けたアレックスが、額に口付けを落としてくれる。

(よかった、嫌われたり不審がられたりとかじゃなさそう……)

 そのまま彼は黙ってしまったけれど、いつもと同じ優しい仕草にようやく安堵することが出来た。


 沈黙の中、薪の爆ぜる音が大きく響いた。それを合図にしたかのように、頭上のアレックスから再び声が落ちる。

「フィル、具合はどうだ。気分は悪くないか」

 言われて全身へと神経を回してから頷いた。

「脳震盪だったと思います。だからもう大丈夫かと。その、助けていただいて、ありがとうございました……」

 自分の体の状態に意識を向けるうちに声が小さくなっていった。

 川に落ちた時は当然服を着ていたわけだから、つまりはアレックスが、と顔を赤らめる。

(いや、雪解け水に浸かったわけだし、そのまま北の高原の、日も射さない中に濡れた服のまま放置されてたら低体温で死んでただろうし、アレックスのしたことは適切なんだけど……)

 なんというかやっぱり恥ずかしい。今更といえば今更なんだけど、恥ずかしいと思うと更に恥ずかしくなるから不思議だ。

「……」

 アレックスの顔を見られなくなって再び俯けば、当の彼が声を立てずに笑った気配がした。少しむっとして彼を見上げて、息を止める。

「フィル……」

 熱を含んだ目と声で名を呼ばれて、身体がまた麻痺した。


 ゆっくりと青の瞳が近づいてくる。

 無言のまま唇が重なった。一回、二回、三回……啄ばまれるように口付けが繰り返される。わずかに顔が離れ、少しだけ目線が絡んで、また見えなくなる。

 彼の意図がなんとなくわかって、フィルは知らず唇を緩めた。触れたその場所の結合が深まる。そして、開いた場所から彼の熱を受け入れた。

 歯列、口蓋、内頬、歯の根、口内のすべてを確かめでもしているかのように、緩やかに彼が動く。その動きに応じて勝手に体が震えた。

 自分の頭の下にあったはずの腕は引き抜かれ、横にいたはずのアレックスがいつの間にか覆い被さるように自分の上になっている。

 自分のもののはずの舌が絡め取られて自由を失い、それを合図にすべてを奪われるような激しい動きに変わった。舌の交わる、湿った水音が小屋の中に響いて、それに羞恥を覚えるのに、すぐに快感に支配されて消えてしまう。

 体の芯から生み出される、何度か経験した感覚に徐々に肌が紅潮していく。強烈な甘さに似た痺れに呼吸が苦しくなるのに、逃げようとは思えない。


「……っ、はぁ」

 呼吸さえままならないその状態からやっと解放された唇が、空気を求めて乱れた音を立てた。

 アレックスが離れ、冷たい空気が間に入ってくる。

「……?」

 寂しさと不安が入り混じって、彼の姿を確認しようと薄目を開けた。

 視界に入ったのは、炉で燃える炎に赤く染まった山小屋の天井と、そこに映る大きな黒い影。その影の主が自分の上に乗ったまま、まっすぐこちらを見据えている。

「フィルが欲しい」

 開いた唇の合間から出た音の真剣さに、思わず息をのんだ。

「いいか?」

 再び自分の体を覆う体温と、地肌に弱く落ちる熱く湿った感触。

 それらに飲み込まれそうになりながらも、鼓膜に直接囁かれた言葉の意味を考えて……

 結局――抗う必要があるとはどうしても思えなくて、小さく彼へと頷いた。



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