8-8.既視
「っ」
アレックスの右袖にグリフィスの吐き出した毒液がかかった。
嫌な音と臭いを立てて、布が焼け始める。毒が沁みて肌を蝕む前に、彼は自らの袖を引き千切って投げ捨てた。
「こっちだ」
その間、注意を自分に引きつけるべく、フィルはその個体の背後に回り込み、切りかかる。だが、別の個体から振り下ろされた尾によって目的を阻まれ、受身を取りながら地面へと体を投げ出した。
川のそばの湿った落ち葉にまみれつつ、体勢を立て直し、左横となったアレックスに視線を向ける。彼は彼で、忌々しいものを見るように目を細め、剣を二体へと構え直した。
水棲以外の魔物は、基本川や湖沼に近づかない。フェルドリックらが谷川まで辿り着くだけの時間を、残る二体のグリフィスを惑乱することで稼いだ後、フィルとアレックスはそれらを同じ川の際まで追い込んでいる。
炎が通用しないグリフィス、『ザルアの悪魔』の動きを制限するのに、水を嫌う習性を利用しようとしてのことだったのだが……。
「学習してる……?」
「多分な」
警戒しながら、アレックスの横にじりじりと移動していけば、二体もそれに合わせるかのように、位置を変えた。疑念と驚きを零したフィルに、アレックスが苦々しく応じる。
「まさに悪魔だな」
左目を失った雌一体と、口内に傷を作りはしたものの、脳髄を傷つけて動きを止めることには至らなかった雄一体は、こちらの動きを見て警戒しているとしか思えない動きをしている。
まず毒液を小刻みにしか噴射しなくなった。まるで口を開ける時間を少なくするかのように。
その上、こちらが連携して背後の弱点を突こうとすると、今のように補い合って妨害してくる。
最初の一体を仕留めてから既に二時間は経過した。二人と二体の応酬は消耗戦の様相を呈し始めていた。双方共に限界に近づきつつある。
「アレックスっ」
雌に二人で対峙していた隙に、先ほど与えたダメージのせいで活動を落としていたはずの雄が急激な動きを見せた。スパイクのついた尾がアレックスの背に迫っているのを見、フィルは彼の体を引き倒しながら共にそれをかわした。
「ぅ、わ……」
(冗談じゃない、あんなのが当たったら一瞬で動けなくなる……)
自分たちの背後にあった岩が砕け散ったのを見て、フィルは顔をこわばらせる。
「……助かった、フィル」
ちらりと岩を見ただけで表情一つ変えないアレックスの様子に、『これをさすがって言っていいのかはちょっと微妙かも……』と、今度は顔を引き攣らせた。
「っ」
雌から吐き出された毒液を慌てて避ける。考え事をしていていい相手じゃなかった、と反省した。何とかしないと、このままでは最初に体力が尽きるだろう自分が一番危ない。
「ええと、こういう時は……」
『知らない生き物に出会った時はよく観察することじゃ。必ずその体にヒントが隠されておる』
「ロギア爺はよく観察しろって言ってたっけ」
(体の特徴は何かある……?)
振り下ろされた前足の鉤爪をひょいっと避けると、頭上を覆う木々の合間から漏れる日の光にその鱗が反射した。
(……? 鱗の艶が妙にいい。普通ならこの時期は栄養状態があまり良くないはずなんだけど……)
間合いをとって、さらにじっくり雄の様子を見つめる。
腹も少しだけど膨らんでいるように見える。そういえば吹きかけてくる毒液の量も、体格に比べたら少ない気がする。
(ということは、)
次の瞬間、振り下ろされる雄の右前足の一撃をかいくぐり、フィルは叫び声と共にその正面へと突っ込んだ。そして勢いのままに、グリフィスの膨れた腹の蛇腹の隙間を狙って剣をねじり込んだ。
(硬、い……っ)
左前足が自分の右半身に迫りくる。風圧を感じる。
「フィルっ、退けっ」
(間に合うはず……ままよっ)
アレックスの叫びに内心で否と答えると、フィルは力の限りそれを押し上げた。
ぶつり、という音が空気と剣を同時に震わせる。
次いでギャアアア、という魔物の叫び声が森に轟いた。
飛びのこうと剣を引き抜いた場所から、赤黒い液体が噴出してフィルの上着にかかった。その部分が煙を上げて溶け出す。目の前ではグリフィスの腹が、おぞましい臭いを漂わせながら焼け爛れていく。
フィルは上着を脱ぎ捨てながら、安堵の息を吐き出すアレックスへと駆け寄った。
「無謀すぎる」
「一応勝算はありました。ここ最近に食べた物を腹の中にまだ入れているようだったので」
膨らんだ腹は貯蔵と消化の役割をはたす第二胃に、捕えた獲物が入っている証拠だ。だから、彼らは栄養状態がよく、消化液を兼ねる毒液の量も少なかった。そしてそのお陰で盛り上がった蛇腹の隙間から剣を差し込むことが出来た。
警戒を怠らないよう二体に注意を向けながら、フィルはアレックスにそう説明する。
「あと一体……」
それから剣の切っ先を残る雌に向けた。距離を詰めていく。
(飢餓ゆえではない……?)
フィルの説明にアレックスはしばし考える。
では、なぜ彼らはここまで自分たちに執着するのだろう? 決して効率のいい獲物でないことは、知能の高いらしい彼らなら、わかりそうなものだが。
土煙と唸り声を上げながら転がっている雄と、横でその様子をうかがっている雌の姿に目を遣ると自然に眉根が寄った。
あの夏にウィル・ロギアがしてくれた話を具に思い返してみても、そんな特性について彼は一言も語っていなかった。
「……」
(何か、どこかが不自然な気がする――)
だが、アレックスの思考は、残る一頭が眼前のフィルへと殺気を向けてきたことで遮られた。
異臭を放ちつつ、のた打ち回っていた雄の動きが徐々に鈍り、最後に停止した。
傍らに佇んでいた最後の1体がこちらへと顔をあげる。失われた片方の目から緑の液体を流している姿が、まるで死んだ仲間を悼んででもいるかのような印象を与えてくる。
「……」
その光景に、魔物の隙をうかがっていたフィルは眉を顰めた。無意識にふっと気が抜ける。
(学習するだけの知能のある生き物なら、もしかしたら仲間が死んだことを悲しんだりするのかも……)
「っ」
前触れなく、雌の口から吐き出された毒液を、フィルはぎりぎりで避ける。だが、油断の代償は顕著に生じた。自分の右顔面に迫ってきたグリフィスの尾、それへの反応に遅れをとる。
「く……っ」
(直撃だけは避けなくては――)
失態に舌打ちしながら、咄嗟に前腕とひじで頭をガードしつつ、右足で地面を蹴った。
だが、減殺仕切れなかった衝撃が過たずフィルの頭を襲う。
「!!」
身体が宙に浮いたと思った次の瞬間、全身が雪解けに増水した谷川の急流へと飲み込まれる。
(ま、ずい……)
「フィルっ!!」
「……アレッ、ス」
衝撃にゆえに霞みつつある意識の中で水音に混じって聞こえたのは、自分を呼ぶ彼の悲愴な声だった。
(心配かけたくな、いのに……優しい人だ、から、余計……)
何度も繰り返されるその声を頼りに何とか意識を保とうとするも、音が遠くなるにつれて、どんどん薄らいでいく。四肢が先端から冷たくなっていく。
「フィルっっっ!」
(あ、れ……? これ、どこか、で……聞い、た……)
そんな思考を最後に、すべての感覚は暗く閉ざされた。




