8-7.異変
(グリフィス……)
吐き気を催すような特有の臭気は、彼らの呼気によるものだ。湿った森の空気に混ざって漂ってくる。
彼らの習性からして薄暗い森の中、人の焚く炎に引き寄せられたのだろう。
フィルから数秒遅れ、騎士団員たちが空気を尖らせた。警戒を露に半数が焚火から即席の松明に火を移し、残りが剣を手にする。
グリフィスと人のトラブルが増えるのは、通常秋だ。
秋の実りを採りに森や山に入る人々と、冬篭りと春に生まれてくる幼生のための餌を狩るグリフィスが遭遇して悲劇が起きる。
口から吐き出される強酸の毒と強靭な尾、剣を弾く、硬い鱗に覆われた皮膚、体格からは想像できない敏捷さ――彼らと無防備に遭遇してしまえば、人が無事に逃げ延びられる可能性はまず無い。
だが、彼らを始末するつもりできっちり準備を行えば、脅威は幾分減る。
人を襲う魔物の多くがそうであるように、グリフィスは炎に引き寄せられる。同時に、その炎に気をとられて動きを鈍らせる。だから、グリフィスに対峙する際は通常、一人が松明を持ってグリフィスの注意を惹き、その隙にもう一人が首の後ろにある弱点を剣で突いて仕留めることになる。
ただ、その弱点を突くことが難しいのだ。頭から尾に至るまで、グリフィスの背部はとさか状に外側に隆起した硬質な鱗で覆われていて、その鱗と鱗のわずかな隙間を狙わなければならない。これこそがグリフィスが恐れられる理由だ。
元々魔物退治に必要なのは、剣などの腕というより、魔物に対する知識だ。だから、剣士が知らない魔物にやられることはあっても、地元の住民が彼らにやられることはあまりない。
けれどグリフィスに関して言えば、剣の素養の無い者では仕留めることが非常に難しくて、それゆえ大抵の場合は地元の警護隊か、国境警備隊がチームを組んでそれを狩ることになる。
「国境警備隊の話では、もう少し東部ということだったが」
ウェズ第一小隊長が剣を構えて、辺りを警戒する。
「……」
(やっぱり何かおかしい。季節だけじゃない、何かが……)
身の危険を前にした時特有の感覚に、フィルは目を眇める。いつでも動けるよう体を落とし、全身の神経を気配の方に向ける。
梢を薙ぎ折る音と共に、鳥たちが悲鳴のような鳴き声を上げて空へと飛び立った。
騒がしいその場所で森が動いている。
そう錯覚してしまうほどに、それは見事な保護色をしていた。立ちふさがる木々をものともせず、真っ直ぐにこちらへと向かって来る。
近づくにつれて明らかになってくるその異様さに、フィルを含めた全員が戦慄した。
「でかい……」
「一体なんなんだ、通常の倍はある……」
いつもふてぶてしいまでに自分たちのペースを崩さない騎士団員たちが、呆然としたような声を上げた。
(大きさ、だけじゃない……色、濃い黒味がかった緑……)
フィルは口内に溜まった生唾を飲み込みながら、その生き物の顔を見上げた。
『今日はグリフィスの話をしてやろう』
――アレクを連れて、ザルア山脈の山小屋にロギア爺を訪ねた時、そんなの珍しくないと言った私に、彼はなんと言った?
『今は滅んだ大きなグリフィスの話じゃ、古い森の緑のな』
――私に初めて出来た友達だからお祝いに、と彼はその物語を語ってくれた。
毒液が騎士団のボルトに浴びせかけられ、彼が舌打ちをしながら飛びのいてそれをかわす。
『やっかいな種でなあ、』
――囲炉裏の埋み火を掻き起こしながら、髭に覆われた顔を少し歪めると、何かを思い出したらしい彼は悲しそうな顔をした。
注意を惹きつけようとしているのだろう、松明を持ったフォトンが、ボルトと入れ替わるように前に進み出た。光を左右に揺らしつつ、左方向への誘導を試みる。
縦に白の裂の入った、漆黒の瞳が、彼らの目論見どおりその炎を追う。
『炎に引き寄せられるにはられるんじゃが……』
魔物の大きく裂けた口の端がわずかに上方へと持ち上がった。
『動きが炎に制限されんのだ』
(わ、らった……?)
邪悪な微笑に戦慄するフィルの目の前で、様子見をしていた対角の騎士へと、その生物は強靭な尾をしならせた――炎に目を向けたまま、けれどそれに意識を囚われることなく。
『そして、小さな村ならば一人残らず……』
「――ザルアの悪魔」
脳裏に浮かんだ言葉を言い当てられたフィルは、一瞬状況を忘れ、横のアレックスを振り仰いだ。
「っ」
その隙を見ていたのかもしれない、グリフィスが前足を打ち下ろしてくる。舌打ちすると、フィルは飛び後退ってかわした。
横では同様に襲われたフォトンが、咄嗟に身を伏せてやり過ごした。が、その顔には明らかな驚愕が浮かんでいる。
「……火が効かないのか、どうなってんだ、一体……」
ウェズにはひどく珍しい、唖然とした声だった。それを掻き消す木々の悲鳴がまた森に響いた。
強まる腐臭と頭の中で強く鳴り響く警鐘に促されて、フィルはそちらへと目を向ける。不自然に捻じ曲げられた木々の向こうに、新たな二体がのっそりと姿を現した。
(計三体、こんな至近距離に……)
その光景がもたらす違和感と圧迫感に、全身が総毛立った。周囲の空気が一層硬くなったことを肌で感じて、全員が緊張を共有していることを知る。
(――落ち着け。もし、彼らがロギア爺の言っていた「ザルアの悪魔」なら、今すべきことは……)
「……火を消してください」
唇を舌で湿らせて発した声は、自分のものとは思えないほど低かった。
さっと目線を走らせ、フェルドリックの位置を確認する――どうあってもあの人だけは逃がさなくてはならない。
「あんなんまで知ってんのか」
「さすが田舎者」
炎を前にして動きの鈍らないグリフィスの異常さに、他の騎士も既に気付いているようだ。いつものように軽口を叩きながら彼らは松明を手放し、鋭くも硬い表情で剣を抜く。そして、三体の小山へと向き直った。
人と魔物――互いの意図を測って膠着していた距離が、最初の一体の前進を機に動き出す。
「……」
(通常よりはるかに大きくて、攻撃力も高い、しかも背後の弱点をやすやすとさらしてくれないグリフィスの変種が三体。それに対して騎士団員十名と……)
フィルは騎士たちの後方にいるフェルドリックの姿をもう一度確認すると、その周囲にいる近衛騎士に目を留めて、眉を顰めた。
あとはロンデール副団長ぐらいだろう。他の四名は、腕はともかく身を竦ませてしまっていて、もうあまり期待出来ない。
「後頚部の弱点か、毒を吐く直前もしくは直後、開いた口の中から脳髄を貫いて動きを止めます」
じりじりと先頭の一頭へと距離を詰めていけば、ウェズの目がフィルに向いた。いつも余裕な感じで笑っている人なのに、今は全然だ。
「その間に殿下の周囲を固めて川辺まで後退、川沿いに国境警備隊の砦に向かってください」
アレックスが普段どおりの落ち着いた声でそう言いながら、フィルに並んだ。
「水を嫌う性質は同じなわけか?」
「おそらく」
「アレックス、フィル」
フェルドリックが緊張を帯びた声で、二人の名を呼んだ。その声の方向に、これまで自分たちの周囲にいた八人の騎士たちの足音が後退していく。
「参りましょう、殿下」
「――ウェズ」
咎めの響きを含んだフェルドリックの声に、彼の祖父との類似性を見つけて、フィルは小さく笑った。
「周囲にあと何匹いるかわかりませんから、ここに割く人数は少ない方がいいです」
(そうだ、そういう人だ。ならなおさら、私は私のすべきことをしなくては――)
「……」
アレックスと目が合った。
彼も「ザルアの悪魔」を知っている。もちろんそれでも状況は厳しいけれど、彼とならきっと何とかなる。
そう思ったら、こんな状況だというのに口角が上がった。
彼に頷くなり、フィルは一番手前のグリフィスへと正面から突っ込む。
厳つい顎がぱっくりと割れ、口内の毒々しい緑色が露わになった。直後、強烈な刺激臭をまとった黒い液体が吐き出される。
体を低めてわずかな距離でかわし、巨体の目の前で音を立てて左足を踏みしめる。右前方、魔物の脇に跳躍して、一気にかの生き物の背後に回り込んだ。
左手を添えて右手の剣を逆手に持ち換え、頭上に掲げた。
身をひねりながら、後頚部の弱点めがけて、剣の切っ先を突き降ろす。
グズリという、剣が肉に突き刺さる音が二つ響いた。
数拍後に断末魔の一つもなく、グリフィスの巨体が崩れ落ちた。
「……」
剣を引き抜けば、倒れていくグリフィスの体とその周囲に上がる土煙のすぐ向こうに、アレックスの長躯が見えた。フィル同様、緑色の液体を滴らせた剣をグリフィスの口内から引き抜き、彼はフィルへと好戦的な微笑を見せる。
もしもに備えて首を刺しにいったけれど、どうやら必要なかったようだ。
(いける、アレックスとならこの場を切り抜けられる――)
フィルも彼ににやっと笑い返し、そう確信する。
フェルドリックたちに向かって距離を詰めようとしていた残る二体が、こっちを見ている。
「お前たちの相手は私たちだ」
間合いを計りつつ、両者の間に入り込み、フィルとアレックスは剣を構え直した。
「――行け」
先頭のグリフィスが一瞬逡巡するかのように、フェルドリックたちに視線を向けた。刹那、後方のフェルドリックにそう声を掛け、今度はアレックスがそれへと身を躍らせた。




