8-6.不調和
高原の薄暗い森の中、アレックスは馬に揺られながら静かに息を吐き出した。頬を撫でていく湿り気を帯びた冷涼な空気に、なんとなくザルアを思い出す。
斜め後ろで、同じく馬に乗っているフィルをちらりと見れば、自然と眉根が寄った。
(昨日も拷問のような一夜だった。あれで酒でも入っていれば、間違いなく最後まで……)
――むしろ酒が入っていたほうがよかったのでは?
アレックスは昨夜の彼女を思って、またため息を吐く。
背中に感じる柔らかな体の感触と湯上りの石鹸の匂い、アレックスの名を呼ぶ小声と口づけに陶酔していく瞳、上気した頬と直接触れた胸の柔らかさ、それからそこへの刺激に上がった微かな甘い声と、乱れていく息遣い――あれでなお、途中で止めることが出来た自分を褒めるべきなのか嘆くべきなのか、それが本気でわからない。
「……」
顔にあたった木漏れ日につい顔をしかめる。睡眠不足の目にはささやかな光も耐えがたい。
夕べ、呼び出されて訪れたフェルドリックの部屋で、アレックスは窓越しにロンデールを見つけ、彼がフィルに興味を持ち始めたと確信した。
フィル――フィリシア・フェーナ・ザルアナックと婚約するという噂が出ている彼の動きに焦りながら中庭に出れば、フィルはロンデールを前に月光の中でそうとわかるほどに蒼褪めていた。そしてアレックスを見るなり泣きそうな顔をする。その場から連れ出した後も明らかに様子がおかしい。
気になるのは当然で、今度こそ何があったか聞き出そうと思っていたのに、風呂から上がってすぐのフィルにまたペースを乱された。
背後から手、そして額と身を寄せられて、心臓が跳ね上がる。そうと悟られないように冷静を装って彼女を振り返り、表情を確かめようと顎に手をかけ、顔を上げさせた。
ほのかに上気した頬、潤んだ瞳、物言いたげにかすかに開かれた唇――頭の片隅が冷静に「フィルが欲しているのは自分だ」と告げる。ロンデールじゃない、と。
その他の部分が誘惑を囁いた。ならばもう遠慮する必要はないだろう、と。
「フィル……」
誘惑に抗うことが出来なくて、本能のままフィルに口づけた。首へ舌を、胸へ手を、唇を這わせる。肌に落とした指に返ってくる、吸い付くような滑らかさに、初めて直接触れた胸の豊かな柔らかさに、舌を這わせた肌の甘さに酔いしれる。
「アレ、ク……ス……」
戸惑いながらも、自分の指と唇に応じて声を漏らし、刺激の都度体を震わせて縋ってくるフィルの様子に我を忘れた――彼女が立っていられなくなるまで。
湯あたりか、彼女には刺激が強かったせいか、その両方か――意識が朦朧となったフィルになんとか我に返ると、彼女をベッドまで運んで……その後は不幸にもしっかり理性が働いた。
まだフィルを守れるほどになっていない上、話すべきことも話していないのに、勢いに任せてフィルを抱くことは、卑怯ではないのか? 大体その手のことを何も知らなさそうなフィルを、同意もないまま雰囲気で流して抱いてしまっていいのか、その場合、後で彼女は傷つかないか?
――そんなことを考え付いた自分の頭をあれほど呪った瞬間はないと思う。
一方で、フィルをすべて自分のものにしてしまいたいという切実な衝動は確かに存在している。
アレックスは昨日からずっとその狭間で燻っているわけだが……。
「あのぅ、やっぱり怒ってません……?」
「……いや」
フィルの馬が横に並んだ。困ったような顔をして、朝から何度目か知れない問いを投げてくる。
戸惑いはしていても、警戒も恥ずかしがることもないその様子に、やっぱり何も理解していなかった、と再確認する。
そんな人間になんてことを、という罪悪感と、あんなことがあってなお意識もされないのか、という嘆きでさらに情けなくなる。
「じゃあ、体調、悪いとか……」
それでもアレックスの様子が違うと感じ取ってくれていることは確かなようで、精いっぱい気を使ってくれる彼女の姿に少しずつイライラが消えていってしまう。
「……ありがとう、大丈夫だ」
ついそう返してしまえば、フィルがほっとしたように笑った。その顔に結局苦笑を返してしまって思う。
(弱いにもほどがある。結局ロンデールとのことだって訊けていないままじゃないか……)
いつだって彼女は思い通りにならない。
昔も今もそうだ。……が、未来もこのまま、というのだけは、本当に心底勘弁してほしい。
(……って、それこそ無理か)
微妙な諦めと共に仰いだ空は、背の高い木々の樹冠に鬱蒼と覆われて薄暗い。
* * *
(アレックスがおかしい)
私には言われたくないって言うかもしれないけど、と眉根を下げて付け足しながら、横で馬を操る彼の様子をフィルは慎重にうかがう。
やっぱり原因は昨夜のことだろうか、とフィルは胃を押さえる。
昨夜、彼とキスを交わした。以前にもあったことではあるから、問題は多分その後だ。
「……」
その時の感触を思い出して、フィルは鳥肌を立てると、微妙に赤くなりながら慌てて首を振る。
さらに問題なのは、それからしばらくしてからの記憶がないこと――気付いたら朝だった。
なんだかすごいことだったような気がしなくもなくて、あれって……、と考えながら起き上がったら、珍しく先に起きていた隣のベッドのアレックスと目が合った。
「あ、おはようご……」
反射で朝の挨拶をしようとしたのに、彼に瞬時に目を逸らされて、頭が真っ白になった。
「っ」
そして、思い当たった――ひ、卑怯者だとばれた……?
事実、その通りだった。
すべきこともしないまま、隠し事をしたままアレックスの温もりに安心したがっている――昨日のあれはまさにそれだった。卑怯以外の何物でもない。
「あ、ああああの……」
真っ青になった。ちゃんといつか話をすると言ったって、その前に嫌われたら元も子もないのに、と。
「お、怒ってますか?」
「……」
慌ててそう訊いたら、アレックスは盛大に顔を引き攣らせた。直後に顔を伏せて何事かを呻く。
それから再び顔を上げ、そのまましばらくじぃっとこちらを見つめてきた。
「怒ってはいないが……フィル、は普通、か?」
「へ? ええ、と、はい……?」
フィルの答えに一瞬アレックスが形容し難い顔をした。
確かに怒っているという感じじゃなかった。けど、どこかおかしい。自分の中にも不安があって、それを彼に投影してしまっているだけかもしれないけど。
「あのぅ、やっぱり怒ってません……?」
横に馬を並べている今も、確かに何かがアレックスの中で燻っている気がする。はっきりわからないから余計不安になる。
「……いや」
「じゃあ、体調、悪いとか……」
「……ありがとう、大丈夫だ」
(あ、ちょっと笑った……)
アレクに似たその表情も声も、安心できてやっぱり好きだ。それでいつも全部忘れてへらっと笑ってしまう。
……しばらくしてそれじゃ駄目だと気付いて、情けなくなるのもいつものことなわけだが。
そう、それでフィルは、今日は朝からアレックスに確かに付きまとっていた。ら――、
「フォルデリーク殿と随分と仲がよろしいのですね」
そのアレックスがウェズ小隊長と話し始めて、付きまとえなくなった隙に問題の人、ロンデール副近衛団長に話しかけられた。
旅は七日目、既にプレビカ地方の西領域に入っていた。古く深い森で、周辺に街などが無いため、野営で遅い昼食の準備を行っている最中のことだった。
フィルの不安の原因となっている、まさにその人だったから、なるべく避けていようと思っていたのに、昨日と同じように穏やかに話しかけられて思わず困惑する。
「……」
(この人は何をどこまで知っているのだろう? 私の祖父がアル・ド・ザルアナックだと確信している? なぜアレックスの話を今持ち出す? 私のことをすべて知っていて、アレックスが私についてどこまで知っているか探りを入れている? 何を望んで?)
取り留めのない疑問だけが頭に渦巻き、その最後に下手な反応だけは見せられないとようやく思い至る。平静を装いつつ、「はい」と訊かれたことだけを短く答えた。
すると彼は苦笑した。
「フォルデリーク殿も同じことを言っていました。……妬けますね」
思わず首を傾げた。
(ヤケル? ヤケル……って妬ける?)
「……」
思わず絶句して彼を見つれば、緑灰色の瞳に真っ直ぐ射すくめられるように見つめ返された。
「あなたは……」
「――フィル」
彼が薄めの唇を開いた直後、だが背後から響いたフェルドリックの声に彼の言葉は遮られる。
(た、助かった……)
いつもなら全力で逃げたくなる、忌まわしいまでに麗しいフェルドリックの声が、こんなにありがたく聞こえることは、この先もう一生無いだろう。
「少しいいかい?」
振り返って見えた、王太子の最悪に人の悪い笑顔が、天使のそれに愚かしくも勘違いして見えるのも、今日この日この時限りだろう。
「殿下がお呼びですので失礼いたします」
あの悪魔に呼ばれるのが、こんなに嬉しいことも。
そんなことを考えつつ、フィルはロンデールに頭を下げ、フェルドリックの元へと駆け寄った。
そうして近づいた先。そこでフィルは、フェルドリックが関わる瞬間に平穏など有り得る訳がないという黄金の経験則をやっと思い出すことになる。
「フィル、幼馴染として忠告してあげるけどね、ロンデールには気をつけなよ。アレックスのこと、随分気にしているでしょう? ――盗られないようにね」
「? アレックス……? 気にして? ……っ!」
「僕の為にもせいぜい頑張ってね」
「ぼくの……って、やっやややややっぱり……」
顔を寄せてこそこそと話した後、フィルはにっこり笑う目の前の顔に、全身の毛を逆立てた。
(ああ、それより何より! か、彼もか? 彼もなのか!? だからか、だから私のことをあんなふうに確認しようとしていたのか!?)
そんなことを考えてフィルは戦慄した。
(な、なんてことだ……っ!)
その言葉が優しい天使の助言か、人の不幸を喜ぶ悪魔の詐術か――幸か不幸か、衝撃に見舞われているフィルは気付かない。ついでに自分に常識がないということにも、それをフェルドリックに知られているということにも。
* * *
曇った空の下、古い針葉樹に覆われた北の高原の森は薄暗く、夏だというのに肌寒い。
調理のために焚いていた火をそのままにして暖を取りながら、一行のそれぞれは出来上がった昼食をとっていた。
フェルドリック王太子とウェズ小隊長はかなりの面識があるようで、しかも気心が知れているようだ。彼らの周囲は賑やかで、今はロンデール副団長もその輪に加わっている。
その左方ではミレイヌが騎士団のフォトンさんとボルトさんにまたからかわれている。彼は顔を真っ赤にして何か言い返しているけど、それはそれで楽しそうだ。
フィルはというと、スープ皿を膝の上に置き、ロンデール副団長から見えないようアレックスの陰に隠れ、小さく小さくなってパンをかじっていた。
そう、ロンデール副団長に見つかるのも嫌だが、アレックスから離れることも絶対にしたくない。
「フィル……? さっきから何を……?」
アレックスが片頬を引きつらせてそんな自分を不審げに見るが、必要には敵わない。
「ええと……へへ」
パンを両手で抱えたまま、片頬だけでへらっと笑って誤魔化そうと試みたが、それもいつものように失敗に終わったらしい。アレックスは真面目な顔になり、目を細めた。
その瞳にじぃっと見つめられて、フィルは吸い寄せられるまま、ただその場所を見つめ返した。先ほどまでのドキドキが、深くて透明な青を前にして嘘のように凪いでいく。
「……」
薄暗い森の中でも輝きを失わない彼の青い瞳は、アレクのものとすごく似ていて、とても美しい。
(……うん、やっぱり落ち着く、な。アレックスに全部話せたら、アレクのことも聞けるのに……)
その瞳に魅入られたまま、そんなことをぼうっと考えていて、
「ロンデール副団長と何かあったのか?」
「う」
その言葉に一気に現実に引き戻された。
「さっき、話をしていただろう? 昨日だって」
(き、昨日は訊かなかったのに。しかもどこまでも鋭い……)
「……」
何かならありました。
ひとつ、素性がばれそう、いや既にばれているかもしれないです。
ふたつ、あの人もどうもアレックスが好きなようです。探るためにか、私のことを確認したかったようです。
みっつ、しかもアレックスを好きなフェルドリックが、彼を牽制するために私を使おうとしているようです。
――などと答えられるわけがない。
「その、アレックスは、彼をどう、思いますか?」
ずるいと思いながらも恐る恐る訊ね返してしまう。
お願いだから仲良しだとか言わないで欲しい。あの人がアレックスに何か余計なことを話すのではないかと気が気ではなくなる。お願いだから好きだとか言わないで欲しい。セルナディア王女に、街の娘から貴族の娘、覚え切れないほどの女性達……それだけでももう十分手一杯なのに、性別まで越えてフェルドリック王太子、下手をしたらフィルの同期達だって危ない。その上さらに近衛の副団長……?
(しかもあの人は私と違ってちゃんと貴族っぽいし、腕だっていいようだし、アレックスとだって私よりはずっとお似合いかも……)
そう思いついて、ますます落ち込む。
「フィル、はどう思う……?」
「え……」
自分もついしてしまったけれど、質問に質問で返すのは、特に彼らしくない。しかもその声が妙に苦しそうに聞こえて、フィルはアレックスの顔を思わず覗き込み……、
「っ」
その表情に心臓を鷲掴みにされた。
記憶のどこかにその顔が引っかかる。
なぜかはわからない。だが、彼にそんな苦しそうな顔をしてほしくないと強く思った。
「……」
深く考えたわけではなかった。
自分をじっと見つめたままのアレックスの頬へと、衝動のまま手を伸ばして――。
ギュルルルル
「っ!!」
耳慣れた音と覚えのある腐臭に、音を立てて立ち上がった。膝に抱えていた杯がひっくり返る。
同時に剣を引き抜き、音と臭いのする方へと視線と神経を凝らした。




