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廿八災を忘るる毋

作者: 西園寺琴音

発達した寒冷前線が日本海を南下し、南洋からは恐るべし颱風(たいふう)が湿潤たる大気を帯びて列島に近づきつつある折、(すなわ)ち昭和28年の8月14日夕刻のことであるが、少年はただ裸電球のみで照らされた仄暗い室内で安楽椅子に身を(もた)せ、ほとほと(ものう)げな顔で遠雷と雨音を聞いていた。


彼に身寄りはなく、彼自身が人目を()じて敢えて関わることを避けていたために、近隣からの評判は芳しくなかった。

それでも好事家な破瓜(はか)の鄙びた老人は去る菊月の頃まで、老婆心からか時折芋蔓などを持ってはやってきていたが、

労咳で床に就き、街に出ることも叶わなくなる。

少年はその時一度だけ老人の許を見舞ったが、春秋に富むものが鬼籍を覗くでないと追い返されてしまう。

 彼にとってはそれが拒絶と受け取れたらしく、以降ますます外へ姿を見せることは少なくなった。

元来、明治の維新まで皇室の膝下であり続けた雍州(ようしゅう)の地は、帝都出身の少年が馴染むには2年少々ではあまりに短すぎたのだ。


 彼は帝都出身といえど、先の大戦で戦禍が広がり東亰の空襲が激しくなると、母や弟と共に内陸の熊谷郊外に移り住んだという。

 されど玉音を聞くに母も弟も放送に先立つ未明の空襲で既に亡く、三重の庄屋であった叔父が事情を知るや否や彼を引き取って阿濃津(あのつ)へ移る。

 叔父の許で齢十五にして人となり、現在の住み家である山城に一人家を宛がわれた。

時を同じくして、叔父は自分の家さえも全て売り払い身を隠してしまったので爾来(じらい)、困窮こそしないものの身内は彼の知るところでは無くなった。


 身の上もあってか、少年は日が改まっても一睡もすることなく一段と強まっていく雨の中、亡き人へ追慕の念を募らせる。

 彼の追慕の強さに呼応するかのように、一層雨は激しさを増し丑の刻には階下はすっかり泥濘と化した。しかし少年は家の仏間からどうしても離れようとはしなかったのだった。


 やがて明け方になって、悍ましい山鳴りを聞き及んでやっと少年は己が軽薄さを悟り、また彼の(ほだ)しが解ける音を聴いた。

彼は雨の中身一つで助かろうと屋根に上ったけれども、数瞬(しばたた)きする間に奔流の為すが儘となり深きに身を委ねる。


 次に彼に光明が差したのは泥海の中、雨樋に挟まった襤褸(ぼろ)切れのような自らの姿であった。

未だ命があることに驚嘆した少年は、矢庭に屋根瓦の縁に攀じらせ身を(もた)げ、延髄を抉る鋭い痛覚に顔を歪めながらも半ば本能的に生に縋った。

 屋根上には既に隣家の住人であった初老の女性がおり、この期に及んで滅相もない言葉を投げかける。

憤慨するような精力も残っていない少年は、ただ鼻摘みにされるのを生気の失せた瞳で一瞥するのみであった。


 陽を拝む頃には雨も断続的になり、内海の様相を呈した街を少年は傷んだ小舟に乗って老人の家へと向かった。

果たして彼は全く以て老人が存命であると考えてはいなかったが、老人は存命であった。

「なして来たのか」

そう問う老人に彼は、「もう私も先は長うございませんので。」

と毅然と言い放つ。

 老人は暫時たじろいだが、少年が深手を負っていることに気付くと「それが君の本懐なのかね」

と今一度問うた。

「それ以外にここに来る理由がありましょうか」

少年の瞳には黄昏時の如し残光、しかし凛とした生が老人にはひしと感じられた。

 老人はその後終ぞ声を発さず、彼を連れて深山へと入っていったのだった。



 以来彼らを知るものは一人としておらず、無事であった住民らも9月に再び当地を襲った水害で損害を被ることとなった。

 そして、老人の家には確かに『此度の禍、忘るる勿れ』と一筆遺されていたそうな。

跋しるす


 先ずは、28災と呼ばれる一連の災害の犠牲者の方々に謹んでご冥福を祈念いたします。


 私は初め、地域の水害経験者の方々や亡き祖父などから水害の話をしていただいたとき、半信半疑でありました。

 しかしながら、府下では両丹地方に甚大な被害をもたらしました昨年の平成30年7月豪雨や、台風21号の惨状を肌で感じたことにより実感を持つに至りました。

 現在でも昨年の災害の爪痕は各地に点在しており、一抹の恐怖を抱えながらも日々暮らしております。

 そんな中去る9月上旬には台風15号が関東に上陸し、多大なる被害を及ぼしました。私にできることは多くはありませんが、一日も早い復旧を願ってやみません。


 最後になりましたが、水害についてご教授いただいた地域住民の方々、そして疎遠になっていたにもかかわらず、熊谷空襲についてご教示くださいました父方の宗家の皆様に深謝いたしまして跋文とさせていただきます。


2019/9/20

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