エドワルド
外はすっかりと暗くなっていた。
私はエドワルドにエスコートされながら、馬車に乗り込む。
四人乗りの馬車だから余裕がある。私とエドワルドが、はす向かいにすわると、馬車はゆっくりと夜の道を走り始めた。
「兄が失礼なことを言ってすまなかった」
「いえ、失礼なことを言ったのは私の方ですから」
他人が立ち入ってはいけない領域に口をはさんだ自覚はある。
言われたことは悲しかったけれど、私が言ったこともかなり酷かったのかもしれない。
「私は薬師の見習いです。身の程知らずに大きな事を言いすぎたと思います」
見習いのひよっこで。
既婚ですらない。
そんな私に夫婦間のデリケートなところを指摘されれば、きっと面白くないだろう。
「いや、君の言ったことはきっと正しいと思う。俺も未婚だからよくわからないが」
エドワルドは優しい。
でも、彼は当事者ではない。だからこそ、私に優しくできるのだろう。
「望み、望まれての結婚でも、大変なのですね」
夫婦仲はたぶん悪くないはずなのに、ちょっとしたことですれ違うのだ。難しいのだなと思う。
「まあ、そうだな」
それについてはエドワルドも同意のようだった。
馬車がカタコトと音を立てて、夜の街を進む。暗い夜の道は、まるで知らない道のようだ。
アーサーもライラも、心にゆとりがあれば、私を面と向かって蔑んだりはしないひとだろうと思う。
きっと、その『外面』を作れないほど、見えない部分が疲れている。
優しくて公明正大なエドワルドも、心の片隅で私のことを蔑んだりしていたりするのだろうか。
もしそうだとしても、このままそんな姿は知らないでいたい。
辛い苦痛でしかなかった社交界で、肉親以外で初めて私を庇ってくれた人だ。
彼だけは私を『令嬢』として扱ってくれた。その思い出はきっと一生の宝物になるだろう。
薄暗い中、エドワルドの端整な顔を眺める。
この人に選ばれる女性はどんな人なのだろうか。
きっと素敵な人だろう。優しくて誰からも愛されるような女性に違いない。
そういえば、まだ婚約者がいなかったはずだ。
「エドワルドさまがご婚約されないのは、お二人に遠慮をなさってのことですか?」
もし、エドワルドが結婚して、先に子供が生まれたら公爵家としてはちょっと、複雑になるのかもしれない。爵位はアーサーが継ぐと決まってはいるけれど、エドワルドの方に子が先に生まれたら、ライラとしては複雑だろう。
「いや、そういうわけじゃない」
エドワルドは首を振った。
「単純に相手がいないんだ」
「まさか」
エドワルドは長男ではないから公爵家は継げないけれど、ハプセント銀行の頭取である。
やり手で、後々には、政治にも重要な地位を得るのではないかとも言われていて、しかも二枚目だ。
性格だって、この私に同情してくれるほど優しい。どう考えてももてないわけがない。
「銀行の頭取になって、まだ一年半くらいだから、ちょっとそれどころではなくってな」
エドワルドは苦笑する。
そうだ。この人は兄と一緒で、仕事人間なのだ。
「お仕事、たいへんそうですものね」
私は頷いた。
「エドワルドさまなら、すぐにお相手は見つかりましょう」
その相手が誰になるか、私にはわからない。
ラムル家の爵位がかろうじて守られるようなことがあれば、挨拶することもあるかもしれないけれど。
今でも遠い人だけれど、これからはもっと遠くなる。
「君は」
エドワルドが私の方を見る。
なぜか胸がドキリとした。
「君は、この先、どうする?」
「今はまだ、先のことは見えません」
私は首を振る。
「婚約解消もまだ成立しておりませんし、ラムル家そのものが残るかどうかもわかりません」
「……そうだな」
「兄は全てを売り払っても、生きていれば逆転できると考えていますけれど」
「ロバートらしい」
くすりとエドワルドが笑う。
「ロバートなら、本当に地獄の底に落ちても、這い上がってきそうだ」
「ええ」
私は頷く。
「兄がいると、前向きになれます」
私は家族には恵まれていると思う。
「ああ、だからラムル商会はつぶしたくない」
エドワルドの言葉が嬉しい。実際に商売と友情は別だから、エドワルドがこれ以上、手心を加えるのは難しいだろう。
「エドワルドさまには良くしていただいております。これ以上の無理はなさらないでくださいませ」
一つの取引先だけ、えこひいきするのは、やはりよくない。
兄とエドワルドの間に友情が存在するにせよ、商売は商売だ。
「俺は別にロバートのためだけに言っているわけではない」
エドワルドの目が私を捕らえているように見えて、思わずドキリとした。
まるで、私のためにと言われたような気がしたけれど、そんなはずはない。
ラムル商会という取引先を銀行として重要視してくれているだけだ。
「すみませんでした」
私は頭を下げる。
「せっかく、薬師としてのお仕事をご紹介いただいたのに、お役に立てなくて」
「いや。嫌な思いをさせてすまなかったな」
「いえ。私が悪いのです。私、昔から察しが悪いのですよ。たぶん、フィリップさまにもそれで嫌われたのです」
私は肩をすくめた。
「婚約して間もないころ、フィリップさまに約束のたびに仮病を使われましてね。でも、当時は仮病って気づかなくて、大量のお薬を伯爵家に送り付けたんです。それこそ何回も」
ふっと思わず乾いた笑みが漏れる。
「馬鹿ですよねえ。仮病なのに。フィリップさまとしたら、お菓子やお花でも贈られれば、楽しめたかもしれないけれど、薬ではただ邪魔になるだけ。鬱陶しさが増したでしょう」
嫌みのようにとらえられてもおかしくない。
私としては、本気で心配してのことだったのだけれど。
「それは、そもそも仮病を使ったフィリップに誠意がない。君のしたことは間違っていないのではないか?」
「私もそう思っておりました」
正しいと思っていたから、自分を曲げなかった。でも。
「私が意地を張らず、あの方を立てていたら、これほどまでに険悪な関係にはならずにすんだかもしれません。父が海を渡ることはなかったかも」
頬を涙が流れていく。
私はハンカチを取り出して顔を拭いた。
「ごめんなさい。泣いたりして」
「君は思いあがっている」
きつめの言葉にびくりとすると、コホンと、エドワルドは咳払いをした。
「君の父、マローニ殿が嵐にあったのは、偶然だ。あえていうなら神の気まぐれだ。君が何かしたからじゃない」
エドワルドは優しい笑みを浮かべる。
「たとえマローニ殿の出航理由が君だったとしても、それはマローニ殿の意志だ。君が無理やり行かせたわけではない。そうだろう?」
「それは、そうですけれど」
「自分の意志の働かないところまで責任を感じる必要はない。すべてを自分のせいだと思うのは、自分が全てをコントロールできるという思い込みだと、俺は思う」
馬車が揺れて、身体が跳ねる。
「そうかもしれません」
そんな風に考えたことはなかった。
私はマイナスの意味ではあるけれど、自分に驕っていたのかもしれない。
自分自身の反省は当然すべきだけれど、それですべてが変わった保証はどこにもないのだ。
「冷静に考えて、君が泣きたくなる状況にあるのは間違いないけれど、少なくともあの男のことで心を痛める必要はもうすぐなくなる。俺が悪いようには絶対にしない」
「エドワルドさま」
優しい言葉に、胸に熱いものがこみ上げる。
「ありがとうございます」
私は頭を下げる。
エドワルドと話をするのもあとわずかだろうけれど、たぶん、エドワルドのことは一生忘れない──そう思った。