夜会2
見下すような態度も、他の女性を愛おしそうに抱くのも、私をこれ以上傷つけはしない。
愛がないのはお互いさまで、私と彼はどちらもお互いを望んではいないのだから。
「ダイナーさま、お久しぶりでございます」
それでも。
私は丁寧に淑女の礼をする。
わずかながら、口元だけは笑みを作った。少なくとも私は、婚約者としての礼儀は守ってみせる。
「ふん。相変わらずかわいげのない女だ」
フィリップはそんな私を憎々し気に見る。
こんなに嫌っているのに、違約金を払わないことには、私はフィリップと結婚しなければならない。違約金の相場は、一千万ゴールド。持参金は二百万だから、その五倍だ。
ひょっとしたら彼の嫌がらせは、違約金をせしめる魂胆なのかもしれないとも思う。
現状、それだけの金はさすがの我が家でも払えない。
彼は、私の隣に立つ男性の姿に気づいたようだった。
「なるほど。金の力で、今度はエドワルドさまに取り入ろうとしているのか? 子爵家の居候のくせに、公爵家のご子息に言い寄るとは身の程知らずだな。迷惑を考えて、わきまえるべきだ」
フィリップは、自分はメアリーの腰を抱いているのに、私が他の男性といるのは気に入らないらしい。
もっとも、これは嫉妬ではない。嫉妬だったらどんなに良かっただろう。彼は、私の嫌なところをあげつらっているだけだ。
そうすればするだけ、彼自身も不愉快になるだろうに。
嫌なら、そばにこなければいい。関わりを減らせば、こんな関係でもお互い妥協できる部分も見えて来るかもしれないと思う。
「エドワルドさまとは商売上のお付き合いです。それ以上でもそれ以下でもございません。そもそもお金の力でどうにかできる方ではありません。そんなことは言われなくてもわかっております」
言い返してから思う。こういうところが可愛くないのだろう。私が言い負かされて、意気消沈でもすれば、きっとこの男は満足するのかもしれない。
そもそもフィリップは貴族として格下の我が家に経済的に負けていることが気に入らないし、私が半分貴族の血を引いていないことも気に入らない。
そんなに気に食わない相手を父親から押し付けられて、不満たらたらなのはわからなくもないけれど、それなら断わってくれればいいのにと、切に思う。彼が現状を受け入れているからこそ、この状態が続いているのに。父親に逆らう事がそんなに怖いのだろうか。
それとも、彼は私をこうやって蔑むことを楽しんでいるのかもしれない。
「商売の付き合いがあるのはお前の父親と兄であろう? 仕事とはおこがましい言い訳だな」
冷ややかにフィリップは言い捨てる。
「それは」
彼の言う通り、私は商会に何ら貢献をしていない。
アイデアを出して商売を大きくしたのは、父と兄。領地経営もしかりだ。令嬢が領地経営や商売に口をはさむことはもともと稀有ではある。だからそれを以て、私を責めるのはあまり一般的ではないとは思うけれど、役立たずだと言われれば、自覚があるだけにやはり落ち込む。
「まあ、いやだわ。婚約者がいるのに男性に言い寄るなんて厚かましいのね」
くすくすとメアリーが笑った。
「そのような事実はございません」
私は別に言い寄っていないし、彼が私に話しかけてきたのは、私が父の娘だからだということは百も承知だ。そもそも婚約者のいる男に言い寄っているのはどっちだと言いたくなる。さすがに相手は伯爵令嬢だから言えないけれど。
不意に、私の腰にエドワルドの手が伸びて、ぐいっと引き寄せられた。
「え?」
驚いてエドワルドを見ると、顔がかなり険しい。
「フィリップどの」
エドワルドの目が冷たい光をたたえている。
「口説いていたのは俺の方でね。邪魔をしないでもらおうか」
その場にいたエドワルド以外の三人は驚いて彼の顔を見る。
「え? まさかですよね」
フィリップが怪訝な顔をした。何の冗談を言っているのだという顔だ。
「何がまさかなのだ?」
エドワルドの語気が強くなった。
さすがにフィリップは口を閉じた。
「婚約者同士、挨拶をするのを邪魔をしては野暮と思い黙っていたが、そもそも会話中に割り込むのは無礼だろう」
エドワルドは冷ややかな目をフィリップに向ける。
「しかし、そいつは」
「美しく聡明で、寛容な婚約者に甘えるのもいいかげんにするんだな」
私を引き寄せるエドワルドの手に力がこもる。
エドワルドは高潔な人だ。私に同情して、我がことのように怒ってくれているのだ。
「偉そうな口をきいているけれど、そもそも君は、誰の金でその煌びやかな服をまとっているのだ?」
「なっ、いくらハプセント家のご子息さまでも」
フィリップの顔が屈辱に歪む。
彼とて、いまの伯爵家は、ラムル子爵家の援助がなければかなり厳しいという状況はわかってはいるのだ。
「金で買われたのなら、もっと飼い主に奉仕するべきだろう? この場合の飼い主は、君じゃなくて、ルシールの方だ。駄犬にもほどがある」
エドワルドの言葉はさらに辛らつになった。
「そもそも他の男と話していた彼女を咎める権利は、君にはないと思うね。それから、スーダント嬢。君こそ、慎みを持つべきだ。婚約者のいる男とファーストダンスを喜んで踊るような令嬢では、良き縁談はこないのではないかな」
ふっとエドワルドの口元が皮肉を含んだ笑みに歪む。
すでに遠巻きにして、こちらをたくさんの招待客が見ている。
メアリーは、さすがに自身の軽率さに気づいたのだろう。顔が青ざめている。
貴族社会は、評判が大事だ。
たとえ不仲だと知られていても、婚約者のいる人間にアプローチするのはあまり褒められたことではない。
「エドワルドさま、もういいです。仕事の話を続けましょう」
私は慌てて、割って入った。
エドワルドが私に同情してくれているのはわかる。
でも、このままでは、エドワルドの評判にも傷がつく。
もちろん。エドワルドが私に何をしようと、誰も本気だとは思わないだろうけれど、変な噂は絶対立たないという保証はない。
「私、新製品のことでご融資をお願いしたいのです」
私はエドワルドに微笑む。
「あとで、兄からもお話を聞いていただけますか?」
「しかし、ルシールどの」
まだ言い足りなさそうなエドワルドに私は小さく首を振る。
いくらエドワルドが注意してくれても、フィリップが行動を改めることはたぶんないし、ダイナー伯爵が婚約を取り消すこともないだろう。
「ダイナーさま、私はエドワルドさまと仕事の話がありますので、ご用事がなければ、スーダントさまとお楽しみ願えればと思いますが?」
私はにこやかに笑みを浮かべて、言外に去るように伝える。フィリップは悔しそうに私を睨みつけたが、さすがにこれ以上、エドワルドの機嫌を損ねたくはないだろう。
ムッとした顔のまま踵を返して、ダンスの踊りの輪の方へと消えていく。
それを見て、エドワルドは私からそっと手を放した。
「ありがとうございました」
社交の場で、父と兄以外のひとに庇ってもらったのは初めてだった。
フィリップだけじゃない。
向けられる視線はいつも冷たかった。
慣れてしまって、心はとうに鈍くなってしまっていて、そういうものだと思っていた。
「君は、本当にこのままでいいのか?」
エドワルドが私の顔を覗き込む。
心配というより、どこか怒ったような顔だ。
理不尽を受け入れている私にも、腹を立てているのかもしれない。
「エドワルドさまにまでご迷惑をかけてしまい、申し訳ございません」
エドワルドは公爵家の人間だから、私を庇ったくらいで評判が落ちることはないとは思うけれど、巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ない。
「迷惑ではない」
エドワルドは首を振る。
本当に優しい人なんだと思う。
「ご不快でしたでしょうけれど、ダイナー家にとって私はただの金づるで、彼にとってはその事実さえいとわしいのです。まして、私の母は平民です。彼が屈辱を感じる心情は理解できます。彼は私を払いのけたくても払いのけられないのですから」
私は苦笑する。
理解はできるけれど、さすがに受け入れることは出来ない。
父が帰ってきたら、結婚の日取りが決まることになっている。
今の私にできることは、それまでに違約金を用意できることを祈るしかない。
「あの男は、君に相応しいと俺には思えない」
エドワルドの呟きに驚いて見上げると、彼はフィリップの背を睨み続けていた。