魔道湯沸かし器
食堂に行くと、テーブルの上に、水差しのようなものが三つほど並べられていた。
どれもがぷすぷすと音を立て、湯気を吐いている。
それぞれの音の大きさなどが違うことから見て、全部少しずつ違うものなのかもしれない。
兄は考え事があると、髪を掻くクセがあるせいで、かなりボサボサになっている。
決して不細工ではないが、『見ようによっては』ハンサムという程度なので、今の状態ではかなり鬱陶しい。
身内の私がいうのもあれだが、こういうところが未だに婚約者の出来ない理由なのだろう。
ただ、その黒い大きな瞳はキラキラと楽しそうに輝いている。
なんだかんだ言っても、私はこの目をした兄が大好きだ。
ほんの少しだけ片づけたのだろう。
机の上は少しだけスペースが開いていて、椅子には座れるようになっている。
「お兄さま、エドワルドさまをお連れいたしました。エドワルドさま、どうぞこちらへおかけください」
私はエドワルドに椅子をすすめる。
「ああ、エドワルドさま、よくおいでくださいました」
ようやく頭をあげた兄は、にこやかな笑みを浮かべた。
「やあ、ロバート、それはなんだ?」
エドワルドは、実験中のものに興味しんしんだ。
「魔道湯沸かし器です。いや、うち、使用人がいなくなったら、お茶を自分で入れなきゃいけなくなったのですが。正直、いちいち火起こしするのたいへんですよね?」
兄は得意げに話し始めた。
魔晶石を使って、魔術を発生させる道具、魔道具はいろいろなものがあるけれど、実は厨房の道具に使われているようなものはあまりない。
魔晶石を使った道具はそれなりに高いものなので、使うのはほぼ貴族だけだ。そのため調理や清掃、農具のようなものは、なかなか開発されない。
逆に土木工事用の道具なんかは、軍が使うので、かなり充実している。
もう少し価格が抑えられていけば、商家などが使い始めるだろうけれど。
使用人の『数』というのも、貴族のステータスにもなっているから、あまり貴族の生活に『効率』は求められていない。
手間暇をかけるのは、貴族本人ではなく使用人であるし、使用人のために高い魔道具を買おうとはなかなかしないものだ。
だから保冷箱というのは、当初、輸送に着目してつくったものだ。
実際には食材を新鮮なまま保存できるという点から、貴族の屋敷にも取り入れられることになった。意外に販路が多くて、売れた魔道具である。
「お兄さま、それが起死回生になるのですか?」
お湯が手軽に沸かせるといっても、それってそんなに便利なのだろうか。
「なるさ。そりゃあ、貴族の屋敷ではそれほど需要はないかもしれないが、新しいもの好きの商家には売れるだろうし、一番は『官庁』だな」
「官庁?」
「職場でもお茶を入れるって作業は地味にある。客が来たときは特にな。もちろん水の確保が必要だから、どこでもお手軽というわけにはいかんが、たぶん喜ばれるだろう。火の魔術でお湯を沸かすのはかなり面倒だし、火をおこすとなるとさらに面倒だから」
「確かに、職場には便利かもしれない」
エドワルドが頷く。
「うちみたいな職場は、できるだけかまどの火を使いたくないんだ。金もそうだが、書類も多い」
「ああ、なるほど」
魔道具であれば、火事の危険はぐっと少なくなる。壊れることもあるので、ゼロとは言えないけれど。
「社員用の食堂の厨房では火を使っているが、本当はそれも何とかしたい」
「……それは、面白そうですが、そっちは開発に時間がかかりそうですね」
兄はにこりと笑った。
「まあ、いつまでこうして好きに研究していられるかわからないですが、そのアイデア、心に留めておきます」
「ああ、期待している」
「実は、商会は、商会ごと誰かに売ろうかと思っているのですよ」
兄は湧いたお湯を使って、お茶を入れ始めた。お茶の良い香りが漂う。
「商会ごと? つまり経営者を探すということか?」
「はい。債務はありますが、それは出航に伴う費用の調達にかかったもので、国内の商会の商売は健全で、今でも利益を生んでいます」
負債さえなくなってしまえば、もともとラムル商会は利益が出る企業だ。人材ごと買い上げることができるから、新しく商売を始めることを思えば簡単ともいえる。
「お兄さま」
「商会の持っている特許を売ってしまうより、競争力のあるままの商会を売った方が、たぶん金になる」
「それは……そうだろうな」
「でも」
「今すぐ売ると決めたわけでもないし、そもそも売れるかどうかも分からない」
兄はふぅと息をついた。
「そういえば、ルシール、お前、出かける用意をするのではなかったか?」
「は、はい。そうでした。エドワルドさま、どうかしばらくこちらでお待ちください。すぐに準備をしてまいります」
私は慌てて頭を下げる。
「ゆっくりでかまわない。俺はこの魔道具で沸かしたお茶を飲んでいるから」
「ありがとうございます」
エドワルドに礼を述べて、私は部屋を退出した。
少しだけ身なりも整えて、食堂に戻ると、どうやら魔道具のひとつを兄がエドワルドに押し付けたようだった。
兄いわく、『わいろ』だそうだが、債権者から見たら、こんなものを作る金はどこにあるのだと言われてもおかしくない。
ただ、ラムル商会から見ればハプセント銀行にモニターとして使ってもらうのは、とても良い事だと思う。
うちの商会が『今後も目玉商品』があるということで、若干の融資を出してもらえる可能性だってある。資金を返さないうちに、融資をねだることをしていたら、借金地獄の沼にハマってしまうだけの気もしなくもないけれど。
エドワルドは大きな包みを抱いて、馬車に乗り込んだ。
「大荷物になってすみません」
「いや。どちらかと言うと俺が無理を言ってもらってきたんだ」
「そうなのですか?」
「魔道具って、楽しいと思わないか?」
エドワルドは少年のように微笑む。
兄と一緒のキラキラした瞳だ。
こんな顔もするんだと、見惚れてしまう。
「エドワルドさまがそういうものをお好きとは知りませんでした」
「新しい技術にワクワクするのは、みんな同じじゃないか?」
エドワルドは本当に楽しそうだ。
兄と気の合う理由の一つがわかった気がした。
「兄は、魔道具の発明にかけては天才的だと思います。私には全くその才能はありませんでしたけれど」
「ロバートと比べる必要はない。君は優秀な薬師だ。それに、とても聡明で美しい」
エドワルドに真顔で言われて、私の心臓は早くなる。
「ありがとうございます」
それがただの社交辞令だとわかってはいても、胸が熱くなるほどその言葉は嬉しかった。