薬草園
婚約破棄を終えて、半ば強引ではあるがダイナー家から違約金を銀行に支払ってもらうことになったので、今までかき集めた資金とあわせれば、目標資金の半額以上となった。
まだ先は遠いが、一歩ずつ進んでいる。
少なくとも、私はもうフィリップの婚約者ではなくなり『婚約者を金で買った』とは言われない。
悪口はそれでも言われるだろうけれど、それを聞くこともないだろう。そう思うと、それだけでも私の心はおだやかになる。
ダイナー家の資金の支払いについては、ハプセント銀行と直接やりとりしてもらうことにした。
うちからの融資でやっと何とか体面を保っていたダイナー家は、融資どころか負債まで抱えるわけで、かなり厳しい状態になりそうだ。
もっとも、ダイナー家の領地収入は、鉱山経営こそ悪化しているものの、そのほかはそこまで酷くないらしい。
名家としての体面にこだわらなければ立て直しは可能だと、エドワルドは見ているようだ。
その辺は、やはりプロだ。
伯爵家がつぶれることは、ハプセント銀行の本意ではない。きっと、なんらかのアドバイスはしていくつもりなのだろうな、と思う。
「まず、屋敷を売ろうと思う」
破棄をした翌日の朝。
兄が私に告げた。
「そうね。それがいいかもしれないわ」
ラムル子爵家の王都の屋敷は、子爵家としてはかなりいい場所にある。
敷地面積も広い。
屋敷は、父が商会を大きくしてから建てたもので、割と新しいものだ。
「郊外に引っ越す、それだけでも随分と変わるだろう。お前も荷物をまとめておくように」
「はい」
私は頷く。
そうは言っても、まとめる荷物はもうほとんどない。
屋敷、領地、商会。全部を売るにしろ、私と兄以外にも、たくさんの人の生活が懸かっている。
借金をただ払えばいいというわけでなく、できるだけ皆が困らない形で始末をつけたい。
商売人の兄は、何をどうしたらお金になるのかの嗅覚がすぐれている。私としてはそれを全面的に信じて、自分ができることをするだけだ。
私は外に出て、薬草園の手入れをする。
ここを離れるなら、もう、薬草が手に入らなくなるだろう。
わざわざ仕入れて作るというほど、顧客がいるわけではない。薬師の真似事をするのも、できなくなるのかもしれない。
薬師を夢見ていたあの頃。
どこかに小さな一軒家を持って、庭でここのように薬草を育てようと思っていた。
平民になろうと思っていたのにもかかわらず、私は父からの支援を当然のように考えていた。
「本当。甘えてたのね」
覚悟は全然足りていなかったと思う。
そもそも薬を作ったところで、簡単に客がつくものではない。
「ここを買ってくれる人が、価値をわかってくれるといいのだけれど」
私は雑草のように生えている、丈の低い薬草の葉をつむ。
知らない人が見たら、草が生えているとしか思えないかもしれない。
これでも、問屋にならんだら、かなりの金額になるものなのだけれど。
「売れるものは売るけど、季節的に厳しいものは、どうしようもないわね」
私は独り言つ。
葉や、根を使うものはともかく、花や実を使うものは、季節的にどうしようもない。
「苗を売るっていう方法もあるかな」
とはいえ。
薬ならともかく薬草の苗を欲しがる人は希少で、探すのは大変だろう。私にそこまでのツテはない。
「ルシールさま」
「ここよ」
執事のクォーツの声に私は葉をつみながら声を返した。
クォーツはもう六十歳を越えていて、うちを最後の勤め先と決めてわずかな給金で残ってくれている使用人の一人だ。
「エドワルドさまがお見えです」
「やあ」
「え? え、エドワルドさま?」
何の気なしに振り替えると、クォーツの隣に、既にエドワルドが立っていた。
えっと。
そうか。待っている場所もないから、すぐ案内してしまったのだな、と納得したものの、出かける予定も、来客の予定もなかったから、ほぼすっぴんであることに気づいた。
次の瞬間、かっと顔が熱くなるのを感じる。
髪は梳いただけで、おろしたままだし、白粉もせず、軽く紅をさした程度。
今までは侍女が世話を焼いてくれたけれど、自分一人だとどうにも怠けてしまう。
いや、貴族とは思えない粗末なワンピースを着た状態で、草の葉をつんでいるのだ。既に化粧以前の問題かもしれない。
今さらだ。
「すみません。このような格好で」
私は慌てて淑女の礼をとる。
とはいえ、どんなに所作が優雅にできたとしてもかなり滑稽だろう。
「いや……髪をおろしているのが、実に新鮮で、非常に愛らしい」
ふわっと優しくエドワルドが笑う。
思わず胸がドキリと音を立てる。
こんな格好をしていても貶めないエドワルドは、本当に優しい人だ。
「あの、それで?」
本当は顔を隠してしまいたいけれど、既に見られたものを隠しても仕方ないし、そもそも私にそこまでの興味はないだろうと諦める。
興味のない女の顔なんて、きっとどうでもいいに違いない。
「義姉さんが、君に会いたいというので、迎えに来た。この前の薬がまた欲しいそうだ」
「まあ。すみません。エドワルドさまも銀行のお仕事がお忙しいでしょうに」
それこそ、馬車だけよこしてくれてもよかったのに。
もはや我が家に馬車はないので、自力で公爵家に行くのは大変だけれど。
「いや、だいぶ仕事にも慣れてきたから、以前ほどのことはない」
エドワルドは首を振る。
「仕事のせいで周りが見えていなくてね。あやうく大切なものをなくすところだったから、もうそんなことをしないようにと、反省したんだ」
真っすぐなエドワルドの視線がどうにも眩しい。
なぜ、私はこんなにもドキドキしているのだろう。
「お身体を壊したりしたら、大変ですものね」
内心の動揺を隠しあたりさわりのない言葉をかえして、私は微笑む。
「すぐに準備してまいりますね。クォーツ、エドワルドさまを食堂に案内して」
なんにせよ、このかっこうで公爵家にいくわけにはいかない。
せめて服は着替えたかった。
「それが、ルシールさま、食堂は今、ロバートさまが実験をしておられまして」
「え?」
私はクォーツの顔を見て、察する。
兄は実験を始めると昔から夢中になりすぎるところがあるのだ。
食堂で実験を始めたということは、何か食堂で使うものを作っているのだろう。
研究室で作っているうちはいいけれど、部屋の中で実験を始めると、その場所が使えないほど散らかしてしまうのは、兄の悪い癖だ。
「また、お兄さまは」
思わずため息をつくと、エドワルドが不思議そうに首をかしげている。
「すみません。兄がまた、何か作っておりまして」
「魔道具を?」
「はい。起死回生を狙うんだと。いえ、それはいいのですけれど、実験を始めるとそれは酷い状態になるのです」
今、屋敷にはたいして物がない状態ではあるけれど、クォーツが客人を案内することをためらったことから考えて、かなりひどい状態にあるのだろう。
「それ、見せてもらっても構わないか?」
「え、ええ。クォーツ、一応、兄上に確認を。エドワルドさま、申し訳ないですけれど、いましばらく私とここでお待ちいただけますか?」
「ああ、かまわない」
エドワルドが頷くのを確認して、クォーツは慌てて屋敷の中に入っていった。
「これは、薬草園なのか?」
いつの間にか私の隣に立っていたエドワルドが、目の前の花壇を指さした。
「ええ。私の母がはじめたものです。私がそれを引き継ぎました」
「見事なものだな。かなりの広さもある」
エドワルドは興味深げにあたりを見回す。
「はい。あの、エドワルドさま。薬草園をなさっている方に心当たりはありませんか?」
私は、ふと思いついて尋ねる。
銀行なら、きっと薬草園を経営している人間を知っているに違いない。
「薬草園?」
「じきにこのお屋敷を出ることになるので、できればいくつかの苗を売れないまでもどこかにお渡し出来たらと思いまして」
「屋敷を出るって?」
エドワルドが驚いた顔をする。
「兄が屋敷を売ることを決意したのです。うちはそこそこ良い場所にありますので、高く売れるといいのですけれど」
「あ、ああ。そうか」
エドワルドは理解したようだった。
「進めていっているのだな」
「はい。何が残るのか、何も残らないのかは、まだわかりませんが、兄も私も、人生これからですから」
私は微笑む。
「全部エドワルドさまの配慮のおかげです。段階を踏むことが出来るおかげで、暗闇を冷静に見つめることができます」
「俺は何もできていない。銀行はどちらかと言えば、君たちを追い詰めている。礼を言われることは何もない」
エドワルドは困った顔をする。
本当に真面目な人なのだなと思う。
銀行だって、貸したお金が戻らなければ困るのだ。それが商売なのだから。
「少なくとも、私を自由にしてくださいました。不謹慎ですけれど、その一点で、こんな状況でも幸せだと思えるのです」
「ああ」
エドワルドが頷く。
「今日の君は、自然な笑顔で素敵だ」
エドワルドの手が、私の頬に触れる。
突然のことに、身体がびくんとしてしまった。
「す、すまない」
エドワルドが慌てて手を引っ込めた。
顔が赤い。私の顔もたぶん赤いのだろう。
ちょっと優しくしてくれただけなのに、過剰に反応してしまって申し訳ない。
「いえ、こちらこそすみません」
もごもごと謝罪を述べていると、ようやくクォーツが戻ってきた。
「大変お待たせいたしました。食堂にご案内いたします」
「わかったわ」
私は頷いて、エドワルドを案内することにした。