婚約破棄
ハプセント家の訪問から十日ほどたった。
屋敷の使用人の数は半分以下になり、馬車も馬も売った。辛うじて、兄の愛馬だけは一頭残してある。
そんな中、兄は、何か一つ魔道具のアイデアを思い付いたらしくて、最後の勝負とばかりに研究室にはりついていた。
倉庫にあった在庫品は、幸いなことに、そこそこ売れているらしい。
私も在庫していた薬を街の薬屋におろすために、ラベリングの作業を始めた。
たとえ同じ結果になろうとも、できるだけのことはしたい。
兄の言うとおり、生きてさえいれば、逆転できる日はくるかもしれないのだから。
その日、私と兄、それからエドワルドとブロフォンの四人で、ダイナー家の門をくぐる。
きっと、伯爵家は、私たちが銀行を伴って現れることは意外だろう。
兄と私は黒の喪服をまとっている。
私の服に関しては、ブロフォンにできればダイナー家から贈られたものを身にまとってといわれたのだけれど、ドレスはおろかアクセサリーすら贈ってもらったことがないと告げると、呆れたような顔をされた。
というわけで、彼から提案されたのは喪服というわけだ。
ダイナー家の応接室に案内されると、ダイナー伯爵とフィリップが、まず私と兄の服装に驚いた顔をみせた。
父の船が嵐にあったという話は、まだ伏せられている。
「急に話があるとは、いったいどういうことかね?」
ダイナー伯爵はソファをすすめながら、怪訝な顔をした。
「ハプセント家のご子息までご一緒とは?」
「今日は、ラムル商会の資産を預かるハプセント銀行として参りました」
エドワルドがにこやかに微笑む。
今日の会談は、基本的にエドワルドとブロフォンがすすめることになっている。
私と兄は、求められたときだけ口を開き、しかも全面的に『伯爵家』を頼っているという体で話すようにと指導されていた。
私も兄も、ダイナー家が全く『アテ』にならないことは知っているけれど、対外的に見れば、ダイナー家は古くからの名家で、うちよりも格上の伯爵家だ。
「銀行が?」
ダイナー伯爵は眉根を寄せた。
フィリップは不機嫌そうに他所を向いている。
「ラムル子爵がバンディ帝国に出向かれたのは、ご存知ですね?」
「あ、ああ」
伯爵は頷く。
「まだ、正式な発表はないのですが、子爵の乗った船は嵐に襲われたと考えられます」
「なんと」
伯爵とフィリップの目が見開いた。
「それは、何という……」
伯爵の顔が沈痛な面持ちに変わる。さすがのフィリップも言葉を失っているようだ。
この二人にだって、一応、常識はある。人がなくなれば、お悔やみくらいは言えるのだ。
「問題は、子爵は出航前に多額の投資をつのっておりまして、その返済が三か月後にせまっているということです」
コホンと、ブロフォンが口をはさんだ。
「金額は五千万ゴールドになります」
「五千万!」
伯爵は驚きの声をあげる。
「そのことで伯爵さまにお願いがございます」
ブロフォンの目に促され、兄は話を切り出した。
「当方、必死で金策をしておりますが、どうしても足りません。ほんの少しでもいいですから伯爵さまにご用立てしていただくことはできませんでしょうか?」
「何?」
伯爵の顔色が変わる。
フィリップに至っては、私を冷ややかな目でみつめていて、同情の色すらない。
「もちろん、ラムル子爵家の資産は私どもで取り押さえさせていただくつもりでおりますが、さすがに足りません。銀行としては、お身内の方から回収させていただきたいと思っておりまして」
ブロフォンはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「幸い、ラムル子爵家はダイナー伯爵家との縁談が進められているとうかがいまして。資金の一部なりともこちらでお支払い願えないかと」
ブロフォンは私にそっと目配せをする。
「もう私たちには、伯爵さまにおすがりするしかありません。お願いします」
私は頭を下げた。
どうせ断られるのだろうなと思っているけれど、本気で助けてほしいのは事実。
ここで伯爵が少しでもラムル家のために動いてくれるなら、私は今までの自分の態度のすべてを謝罪して、床に這いつくばるくらいのことはしたと思う。
重い沈黙が流れた。
「結婚後ならともかく、まだうちとラムル家は赤の他人ではないのかね?」
口を開いた伯爵は、突き放すように私と兄をみる。
迷惑だという顔を隠しもしない。
「しかし、婚約の書類も整っております。他人とはいえません」
ブロフォンは事務的に告げる。
「破棄で良いのではないですか、父上。そもそも私はもともと乗り気ではなかった」
フィリップが口を開く。
そうなるだろうと思っていたが、少しの迷いもなくて、内心私は苦笑いする。
この人たちにとって、我が家は金づるでしかなく、親戚になるとは全く思っていなかったのだろう。
「もともと、そちらからのお話ではありませんか!」
兄が思わず声を上げる。
この展開は兄も私も予想できた。
でも、わかっていても、うれしいものではない。
「破産寸前の子爵家となれば、話は別だ。今日ここに至っては、ラムル家と縁をつなぐ理由はどこにもない」
伯爵は言い捨てる。
正直すぎて潔い。
「そうですか。では、破談ということで、書類をつくっていただけますか? 王室の許可をいただいた婚約証明書を破棄なさるのですから」
ブロフォンはカバンを開いて、書類を伯爵に渡した。
あらかじめ、その書類をブロフォンが用意していたことになんの不審もいだかず、伯爵とフィリップは署名をする。
署名の入った書類を受け取ると、ブロフォンは神妙な顔をした。
「婚約はこれを持ちまして、破棄となりました。ロバートさま。残念ですが、これでラムル家の借金をダイナー家に支払ってもらうことは不可能です」
「そうですね」
兄が神妙な顔で頷き肩をおとすと、伯爵は満足そうな顔をした。
「それではダイナー伯爵、もう一度お尋ねしますが、フィリップ・ダイナーと、ルシール・ラムルの婚約は破棄ということで間違いございませんね」
「くどい。そのように署名をした」
「フィリップさまも?」
「ああ、間違いない」
ブロフォンは念入りに確認するのをうっとおしそうに二人は頷く。
「では、今回の婚約は、ダイナー伯爵家の意向によって破棄とさせていただきます。立ち合いは、ハプセント銀行、財務管財人である、私、マクセル・ブロフォンとハプセント銀行、頭取、エドワルド・ハプセントが承りました」
ブロフォンは丁寧に頭をさげ、さっとエドワルドに一枚の紙を渡した。
「二人の婚約は取り消しになったわけだ」
くどいと言いたげな伯爵親子に対して、にこりとエドワルドが微笑んだ。
「さてここに、ラムル家から提出してもらった婚約に当たっての誓約書があるのだが、この婚約に当たって、一方的な理由による破棄には一千万ゴールドの支払いをするとある」
「な」
伯爵とフィリップは、驚いたようだった。
「そんなバカな」
「馬鹿も何もないだろう? 今回の婚約の破棄は、ダイナー家の意向のものだ。ラムル家の意志ではない」
エドワルドは誓約書を伯爵に見せた。
「銀行としては少しでも資金を回収せねばならない。伯爵家の方から返していただけるならそれでいいと思って同行したが、婚約破棄をされた以上それは諦めさせていただく。ただ、婚約破棄に伴っての費用については、しっかりラムル家に支払わねばならない。この書類は王家に提出するので、あなたがたもそのつもりで」
「ハプセントさま」
兄が苦しげに口を開く。
「婚約破棄に伴う違約金は、銀行で受け取ってください。私どもで受け取っても同じことですので」
「わかりました。後ほど、書面にいたしましょう」
ブロフォンが頷く。
事態を飲み込んだ伯爵とフィリップの顔色が変わる。
「疫病神め、はかりやがったな! 貴様、最初からそのつもりだったのだろう!」
突然、たちあがったフィリップに頬を叩かれた。
頬の痛みより、フィリップの憎しみのこもった瞳が怖くて、私は固まった。
「やめないか」
エドワルドがフィリップの腕をつかみねじり上げた。
「大丈夫か、ルシールどの」
「……はい」
さすがに思いっきり叩かれたから痛いけれど、特に異常はないだろう。
フィリップの目はまだ怖いけれど。
「女性に手をあげるとは、恥を知らんのか!」
「なっ」
「エドワルドさま、やめてください」
私は首を振る。
「何を言っても無駄です」
「しかし」
「彼は私にも感情があることすら知らないのですから」
肩がふるえる。
これは悲しみだろうか。それとも怒りだろうか。じぶんでもよくわからない。
涙がこぼれる。
私が泣くと思っていなかったのだろうか。
フィリップはさすがに驚いた顔をした。
何をやられても、何を言われても、彼の前では絶対に泣かなかった。心は少しも揺れていないふりをしていた。
それが彼を苛つかせることも気づいていたのに。
そうしたら負けだと思っていた。
勝ち負けを競うものではなかった。愚かだったのは、私も同じことだと思う。
ただ、そうしなければ、私は自分を保てなかったのも事実だ。
「ルシール」
兄がそっと私の身体を引き寄せてくれる。私は兄の身体で泣いた顔を隠した。
「ダイナー伯爵」
エドワルドが冷ややかに口を開く。
「ロバートも、ルシール嬢もそのままにしておくようだったが、やはりこういうことはしっかりしておいたほうがいい。ラムル家からダイナー家には、この一年、毎月五十万の無利子無期限の融資があったことを銀行として把握している」
「あれは、その」
「そう。ルシール嬢が嫁ぐからということでの金だったようだな。しかし書面を見る限り譲与ではない。この二人はなんだかんだと言ってもお人よしだ。そのことはなかったことにしようとしていたようだからな。だが、俺はそうではない。ラムル家の債権は、我が銀行がもらい受ける。マクセル、後で書面にして、渡せ」
「かしこまりました」
ブロフォンが丁寧に頭を下げた。
「そんな」
「絶望の淵に沈んでいるのはどちらかを考えるといい。ラムル子爵は生死不明、この兄妹は爵位も商会もすべてなくすかもしれないのだ。そんな元婚約者に手をあげるような、息子を恨むのだな。そもそも、彼が彼女にしてきた仕打ちをこの程度で済ませられるのだ。感謝されてもおかしくないのではないか?」
エドワルドが言い捨てたのを合図に、私たちは伯爵家を後にする。
ようやく婚約は破棄できたけれど、心は少しも晴れていない。
それでも、一歩だけ前に進めた気はした。