第五十四話 悪魔を一蹴 走る一行
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扉をくぐる。
一瞬の暗転ののち、視界がもどった。
「本気で追ってきたのか? いい度胸してるな」
アンドラスの声が遠く正面から聞こえた。
薄暗い。
そこは屋内だった。どこかの城の中らしい。
とても広い部屋だった。端がかすんで見えないほどひらけている。
調度品といったものはなく、柱だけが何本もあった。
高さもあり、天井は見えない。
柱と、あと石でできた床の上――等間隔でろうそくが並べられていた。
幻想的な明かりだった。
だけど、生易しい夢などではない証拠に、空気はいたく重たい。
長居はしたくない、と直感的に思わされる――。
アンドラス――タキシード姿の悪魔は、俺から離れたところで椅子に腰掛けていた。
足を組み、葉巻をふかしている。
時間の余裕があったのか、乱れていたはずの髪も整えられていた。
「なんだ、悪魔払い師の女たちはどうした? 姿が見えないようだが」
「あの二人はこない。俺一人で来た」
「……まさか」
アンドラスは首を振った。それから深く息を吐く。
「冗談ならなかなかいい線をいっているが――どうやら冗談ではないようだ。扉は確かに閉められている――そして、あとの二人の姿はない、と」
アンドラスは「んー」とこめかみに指を当てた。
「その勇気を褒め称えるべきか、それとも俺は怒るべきなのかな。もしかして、俺を舐めているのか? さっきの戦いを見て、弱った俺になら勝機があると?」
「……」
「それとも、おまえが単にいいヤツなのかな。女二人を巻き込まないために、一人犠牲になろうと? それなら泣ける話だな。確かに、俺様の狙い――契約者であるルトヴィヒの望みは、おまえ一人の命だ」
「……」
「まあ、どちらでもいいか。誰が来ても同じだ。すでに手は打っている。あの生意気な女二人が追ってこなかったのは残念ではあるが。――おまえが済んだあとで、また行こうか。戻って第二回戦をしてもいい。向こうの手の内はわかったんだ。やりようはいくらでもある」
「先のことを考えるのはいいが、まずは俺が相手だというのを忘れるな。なんの策もなしに一人でやってくるとでも?」
「威勢がいいねぇ。……策だと? そんなものはどうでもいい。俺様の攻撃はすでに終わっているのだから――」
アンドラスはふぅと葉巻の煙を吐いた。
「こことあちらでは時間の流れ方が違うんでな。おまえはすぐに追ってきたつもりだろうが、こっちは待ちくたびれたくらいの時間が流れている。だから、用意する時間は充分にあったというわけだ」
「……?」
突然、涙が出てきた。
指で拭う。
すると、それは血だった。
「そう、毒だよ。おまえが来るまでの間にこの部屋に充満させておいた。悪魔の居城だからな、これくらいの仕掛けは至るところにある。俺様には効かないが、人間にとっては猛毒だ」
「……」
「身体の内側からかゆみにも似た痛みを感じないか? 遠慮せずに掻いていいぞ。ただし、皮膚はもろくなり、出血しやすくなっているはずだ。爪で軽くこするだけで、まるで垢のように皮膚がこそげ落ちるかもな」
「……」
初めての毒だった。
ニオイもせず、気づかなかった。
もう遅い。すでに全身にまわっている。
「それにしても、効いてくるのにずいぶんと時間がかかったな……。見かけによらずタフなのかな?」
「……」
「……まあ、いいか。効いてきたのは確かだ。おまえもすぐに死ぬ。いまのうちに覚悟しておけ――覚悟したからといってどうなるものでもないが――魂を蹂躙されるのは、肉体のときの何百倍もの苦痛を伴うんだ。生前は恐れ知らずだった戦士も、幼子のように泣き叫ぶことになる。なあに、おまえだけじゃないんだから、べつに恥じることはないぜ?」
アンドラスは勝ち誇ったような表情で言った。
奴はすでに勝った気でいる。
「……」
俺は息を吸い込んだ。
呼吸を整える。
動悸は収まってきていた。
「訂正がある」
「……ん?」
「あの二人を巻き込みたくなかったのはそのとおりなんだけど、べつに彼女たちをおまえからかばったわけじゃない。守りたかったのは、俺自身からだ」
「……なにを言っている? それに、なんでまだ口をきける?」
「俺の魔法が効いてもまずいし、見られるだけでもよくない。あくまで彼女たちは教会の人間――つまり体制側だからな。俺の使う魔法を知られてはいけない」
「おまえの魔法がなんだって? お世辞にも、俺の目には大した使い手には見えないけどな。……で、どうする気だ? この状況でなにかできるとでも? この状況をひっくり返せる術者が世界のどこにいる? 知ってるなら、ぜひ教えてほしいもんだな」
俺は鼻をすすった。
鼻血が喉に流れ込む。
だけど、それ以上の血はもう流れてこなかった。
「毒は克服した」
「……?」
「やっぱり俺一人でよかった。俺以外だったら危ないところだった」
「なっ……! ば、馬鹿な……!」
アンドラスは狼狽したように言った。
彼は椅子から立ち上がる。持っていた葉巻が床を転がった。
「ほ、本気で言っているのか? い、いやいやいや! そんなわけないよな? 人間ごときが、地獄産の毒を克服だと? どんな凄腕の僧侶だろうと、そんなことできるわけがない! おまえはなにを言っている? ――そうだ、回復魔法を使って毒がまわるのを必死に抑え込んでいるだけだ! とっくに意識は朦朧としているんだ、だからそんな戯言を!」
「……」
俺は黙ってアンドラスを見ていた。
――そろそろだ。
もうそろそろ、効いてくる頃のはず。
「……っ!」
アンドラスの両目から血が垂れる。
彼は驚きながら手で血を拭った。
数分前に俺に起きたことと一緒だ。
途端にアンドラスはよろめき、床に膝をついた。
「なっ……おまえ、なにをした……?」
「この部屋に充満する毒に、べつの毒を加えた――そして作り変えたんだ、おまえにも効果が見込める新しい毒に」
「作り変えた、だと……? この部屋、すべての毒を……?」
「強力な毒は、たった一滴で湖ぜんぶの水を毒に変えることだってある――いま使った毒もその類いのものだ」
「毒、だと……そんな魔法……っ!」
アンドラスは自分の言っていることに気づき、さらに大きく目を見開いた。
「まだ、生き残りが……! 使い手……とっくに、死に絶えたものだと……!」
「悪魔がベラベラと言ってまわるとも思えないけれど――」
俺は肩をすくめた。
「万が一にもどこかで言いふらされたら困るんだ。秘密は墓まで持っていってくれ。ああ、いや――おまえに墓を作る気はないけどな」
「……!」
アンドラスは悔しげに歯を食いしばった。
○
森の中を馬で駆けるアルトガーたち。
馬はモデストレの魔法で強化されている。整備されていない悪路でも脚を折ることはない。
だが、そんなに高速で駆けていては木の枝が障害となる。木はかわせたとしても、枝まではかわせない。
だから、それもモデストレが術で対応していた。探索に当てていたコウモリもどきを一部、通常の形態にもどし、その牙で前方の枝を排除していく。鋭い牙はいとも簡単に枝を食いちぎることができた。
そうやってできたルートをパーティーの一行は一直線に進んでいく。
「なぁ、ちょっと小便がしてぇんだが」
途中、パーティーの一人――ディクラスが前を走る仲間に声をかけた。
「……」
「こうも揺れると、なんだか刺激されちまってよぉ。……なあ、聞こえてるか?」
「……」
大声で呼びかけるも、仲間は答えない。無視している。
それどころじゃない、と言いたいのだろう。ディクラスもそれはわかっている。
だが、彼には一家言があった――それは、尿意はなにものにも勝る、というもの。
尿意が気になっていては何事にも手が付かないし、集中できない。まずはこれを片付けるのが先決なのだ。
ディクラスは意識のない異端審問官の女を自分の前に乗せていた。うつ伏せに、身体を折るようにして。
そうしていた彼女のブーツの踵が、木の幹に引っかかった。
「……っ!」
とっさに手綱から片手を離して掴むこともできた――が、ディクラスはそうしなかった。彼女を掴めば、そのまま自分の身体も馬から振り落とされてしまうからだ。そうならないように両脚に力を入れて馬体にしがみつくこともよぎったが、それをしたら今度は馬ごと倒れるハメになる。
異端審問官の女――コージータの身体は激しく地面を転がっていった。並の人間なら重症だろうが、並の人間じゃないなら無事だ。
「女が落ちた。ちょっと待ってくれ」
ディクラスは前方に叫ぶも、
「先に行ってるぞ」
イェルマーが一言応えただけだった。
三人は振り返らずに駆けていく。
ディクラスは馬を止めた。
モデストレの使い魔によって道は切り開かれている。迷う心配はない。あとで追いつけるだろう。
ディクラスは歩いてコージータのところまで戻った。
彼女は横向きに倒れていた。
束ねていたはずの髪の毛はほどけ、目元と頬にかかっている。
半開きの口からは唾液が垂れていた。
黒いコートの裾ははだけ、太ももが露出している――。
「どうせ出すなら、茂みより女の中がいいよな……」
ディクラスは一人つぶやき、コージータの上に覆いかぶさった。
コージータの身体を仰向けにさせる。
――と、彼女の右手がポケットからすばやく抜かれた。
その右手には小さな鐘が握られており――。




