第四十二話 沼の罠 地中の人物
「なに、あれ?」
となりでラウレオがつぶやく。
――確かに異様な光景だった。
なにかが起きていると感じさせるほどには充分に。
クハルナーが剣の鞘に手を当てる。「まさか、盗賊か?」
彼女はそう言って周囲の森に視線をはしらせる。
俺はそれに首をふってみせた。「盗賊に襲われたしてはおかしい。静かすぎる……。馬車が傷ついている様子もないし」
「では、なんだと言うんだ?」
「わからない。ここからでは、なんともな」
「どうする? 回り道する?」
後ろの馬車からダクマリーが声をあげた。
報告書を書いていたはずのイーザシャもさすがに顔を上げ、前方の光景に目を凝らしている。
嫌な予感がした。ひどく不気味ではある。
だけど……。
「ここから引き返すとなると、相当な遠回りになる。このまま進もう」
俺はみんなに向かって言った。
「もしかしたら、困っている人がいるかもしれない。確認もせずに放ってはおけないよ」
「……わかった」
渋々といった様子だったが、クハルナーもうなずいてくれた。
俺たちは慎重な足取りでまた歩き出す。
道をふさぐ何台もの馬車……。
徐々に近づいてくるけれど、状況にまだ変化はない。
一番手前の馬車のところで一旦立ち止まる。
ラウレオがその馬車の窓を外から覗き込んだ。
「誰もいないみたい……」
「うん……」
クハルナーもべつの馬車の窓をノックする。返事はなかった。
「二人はそこで待っててくれ。様子を見てくる」
「わかった」
イーザシャとダクマリーを馬車で待たせ、俺はクハルナーとラウレオと三人で先に進んだ。
馬車のあいだを縫うように進んでいく。
「どうなってるんだ?」クハルナーがつぶやく。「馬がいないぞ……?」
彼女の言うとおりだった。馬車に繋がれているはずの馬がいない。一台だけじゃない。どの馬車もそうだ。
……これだけの数の馬がどこへ消えた?
それに、御者や乗客といった人間の姿もまったく見えない。いくつか荷台を覗いてはみたが、荷物には手つかずだった。争った形跡もないし、やはり盗賊などが関係しているとも思えない。
「まさか……魔女が、また?」
「……」
クハルナーの言葉に、わからないと俺は首を振る。
……昨日の今日だ。そう考えたくもなる。
だけど、確実にあいつは殺した。俺がこの手で、間違いなく。
馬車の墓場とも言えるような光景は、もうすこし先まで続いていた。
この道を往来する馬車の数を考えれば、今日の朝から通りかかったすべての馬車がここに放置されていると思われた。
「これだけの馬車をどけて通れるようにするのは、ちょっと骨が折れるな……」
「そうだな……」
クハルナーの言葉に俺はうなずく。
彼女は一時的に俺のまえを歩いていた。俺が馬車の下に落ちた赤いスカーフに気を取られているあいだに彼女が俺を追い越したのだ。クハルナーにしても、なにも起こらないものだからすこし緊張が緩んでいたのだろう――。
俺は赤いスカーフを見ながら考えていた。
……なぜ、これは馬車の真下に落ちているんだ?
なにかの拍子で落ちたのは間違いないが、落ちている位置がおかしい。
「なにかが起きるまえにさっさと抜けてしまおうか――おっと」
クハルナーが言いかけた言葉を中断する。
彼女がわずかに体勢を崩す姿が見えた。足をなにかに引っ掛けたようだった。
ほとんど目に見えない、細い糸のようなもの――。
しかし、強度は高く、彼女の足に蹴られながらも千切れることはなかった。
ただ、糸は揺れ、繋がっていた先のものも当然揺らす――。
チリーン、チリーン。
小さな鐘の音がした。
高い店で給仕係を呼ぶときのような、若干の品を含んだ音。
鐘は、この馬車の密集地帯のどこかに吊るされており、クハルナーが引っかかった糸と連動させていたのだろう。
足元に糸を張る意味は一つしかない。罠だ――。
「……!」
途端に眠気に襲われた。
あまりに猛烈な、まさに『落ちる』と表現されるような――。
○
俺はギリギリのところで踏みとどまった。
魔法を発動、自分の身体に強力な毒を注入する――。
毒は、俺の意識を強制的に引き戻した。
……何度味わってもサイアクな気分だ。いつもこれをやるときは仕方がない場面ばかりとはいえ。
「――っ!」
身体が重くなっていることに気づいた。
まだ眠気がとれていない? いや、そんなのとは違う……。
足元に目をやってわかった。原因はしごく物理的だった。
――俺の足が地面に沈んでいたのだ。
硬い土だったはずの地面が、いつの間にか泥のようにやわらかくなっていた。
脛近くまで沈んでしまったところで慌てて片足ずつ引き抜く。ギリギリのところだった。もう少し深く沈んでいたら危なかった。
クハルナーはすでに上半身まで沈みかけていた。彼女はすでに深い眠りに落ちている。
腕を伸ばそうとしたけれど、俺も自分一人こらえるだけで精一杯だった。足をつねに動かしていないと、たちまち泥に引きずりこまれてしまう――。両足を踏ん張って誰かを引き上げるなんて到底不可能だった。
後ろをふりかえる。
ラウレオも同じような状況だった。気持ちよさそうな寝顔で、この状況に抵抗する素振りもない。
ここからでは馬車に待機している二人の姿は見えなかった。でも、想像はついた。さっき馬車の下をのぞいたときに見た光景だ――馬車の真下に落ちていた赤いスカーフ。
きっとこの魔法は、馬車などには作用しないけれど、それに乗っている人間には効く。土台をすり抜けさせ、対象を直接地面に引きずり込むのだ。
二人が待機している位置が術の範囲外だったらいいけれど、そう都合よくはいかないだろう。馬車の隙間からちらりと見えたが、液状化してぬらめいた地面はずっと遠くの方まで続いていた。
ふいに地面の液状化が加速した。もはや泥ともいえず、サラサラとした水に近い――。
俺は一瞬で腰まで浸かってしまった。もう逃げ出せない。
ならば泳ごうとしても、鎧や武器が重く、浮力は得られない。俺一人だけだったら、まだ抜け出す手段はあった。でも、近くにいたクハルナーやラウレオはすでに頭まで沈んでしまっている。彼女たちを放っておくわけにはいかない。俺は覚悟を決めた――。
○
思わず息を止めたけれど、その必要はなかった。
一瞬の浮遊感ののち、また着地する。硬い地面がそこにはあった。
地面――沼の下には、ぽっかりと開いた空間があった。
壁も天井も真っ白。光源は見当たらないけれど、目が痛くなるほどに明るい。
非現実的な空間だった。自然にできたものとは考えられない。
そこには多くの人――それと馬が倒れていた。
推理せずともわかる。これらのみんなが、俺と同じように地面に引きずり込まれたあとのものだと。
血のニオイはしなかった。近くに倒れた人からは寝息が聞こえてくる。耳をすませれば、ほかの人たちからも。
クハルナーとラウレオも俺のそばに横になっていた。怪我はないようだ。
ふりかえると、遠くの方にダクマリーとイーザシャらしき二人の姿も確認できた。二人は折り重なるように倒れていた。
この事実からもわかるとおり、この空間はかなりの広さだった。馬車たちが立ち往生していた地点よりもはるかに広い範囲をカバーしている。これでは目で見てから異変に気づいても逃げるのは難しいだろう。
もし術者が手動でスイッチを入れようものなら、誰もがこの魔法の餌食になってしまうはず。それくらい強力な術だった。
――ただ、今回この術者にはなにか目的があり、こんな大規模な網を張っていた。この道を通る誰かが目的だったのだ。
その人物が誰であるかを知っていたならば、ほかの人間も巻き込むようなこんなやり方はしない。知らないからこそ、自動的に作動するようなスイッチ――糸とベルによる睡眠魔法――と連携させたうえでずっと待っていた……。
こんなもの、少なくとも昨日はなかった。犯人は昨晩、この罠を用意したのだ。じゃあ、その目的は……?
この空間に一人だけ、俺以外で眠っていない人間がいた。
そいつは椅子に座ってこちらに背を向けていた。
豪華な作りの椅子で背もたれのてっぺんは頭の位置より高い。横にある小さなテーブルにはティーカップが載っていた。そいつは本に目を落としたままカップを手に取り、口の近くまで持っていく。
一口飲んだあと「ん?」と顎を上げ、そして俺の方をふりかえった。




