第二都市開発空域2
朝、彼方は枕元で鳴る目覚ましの音で目を覚ます。時刻は午前六時、カーテンの隙間から見える外の風景はまだ暗い。
彼方ははっきりとしない意識でマンションの天井を見上げると、体を横に転がしてベッドの隣に置かれた雑誌の表紙を見る。
雑誌の表紙には『大特集。七荻グループ新総帥七荻遥の経営戦略』と大きく書かれている。丁度二ヶ月前の日付だ。
「いかんな……。まだ思考がはっきりしない」
鳴り続けていた目覚ましを止め、彼方は再びベッドの上で横になる。
本来彼方は朝には強い方なのだが、昨夜は遅くまでロッドの調整をしていたため睡眠時間が少し足りていない。
「とは言え寝てはいられんな、あいつが来る前に起きていないと……」
彼方は自分に言い聞かせるようにそう呟くが、どうにも睡魔に抗えず再び意識を手放してしまう。
それから大よそ一時間、静まりかえった部屋にインターホンが鳴り、次いでガタガタとマンションのドアノブを動かす音がする。だが、施錠されたドアは一向に開く気配は無い。
やがてドアを開けるのを諦めたのかドアノブを動かす音が止み、
「おはようカナ君。いい加減観念して私に合鍵ぐらい渡したらどうかな?」
代わりに、開かない玄関の扉を空間ごと切り裂いて、眩しい笑顔のクラリーチェが部屋に上がってくる。
勿論、その装いはタキシードなどでなく、白いブラウスをパリッと着こなした私服姿。
あの夜からはや二ヶ月、好きになったの宣言通り、クラリーチェは既に通い妻気取りで毎朝欠かさず彼方を起こしに来ているのだ。
「…………」
「おんやぁ? カナ君寝てるんだ、珍しいこともあるんだねぇ」
いつもと違って反応の無い彼方にクラリーチェは小首を軽く傾げた後、
「カナ君、カナ君、今日も君の若奥様が来たんだよ?」
クラリーチェはベッドの脇に座って、寝ている彼方の頬をぷにぷにとつついた。
「うむ……」
しかし、眠りの世界から無理やり引き戻された彼方の反応は鈍かった。
「ほらほら起きようよ、愛する彼女をお待たせしてどうするのさ」
言いながらクラリーチェはわさわさと彼方の体を揺する。
「すまん、クラリーチェ。もう少しだけ寝かせてくれ……」
彼方はそう言って転がるとクラリーチェから体を背けてしまう。
「ほうほう、ふぅん、そうですか。カナ君ったらそう言う対応しちゃうわけ。これはちょっとプライドが傷つくねぇ」
ベッド脇に取り残されたクラリーチェは意を決したような表情で立ち上がると、髪をかき上げて甘い香りをふわりと漂わせる。
次いで彼方の布団を剥ぎ取ると、自らも寝ている彼方に馬乗りになった。
「じゃあ、カナ君の睡魔と私の羞恥心で勝負といこうか」
「…………!」
服越しに感じるクラリーチェの重さと体温。彼方は動揺するが時既に遅し、この状況では迂闊に動けない。
「おや? カナ君が今反応した気がするなぁ。でも、もうその程度では私は止まらないからね?」
クラリーチェは彼方に馬乗りになったまま、しゅるしゅると胸のリボンを解くと、解いたリボンをわざと彼方の顔の上に置く。
嫌な予感に彼方が薄目を開いて様子を伺う、クラリーチェは更にブラウスのボタンを外しはじめていた。
「く、クラリーチェ! 止めておけ、それは流石にマズイ!」
慌てて彼方が上半身を起こす、が──ぱふっ。と彼方の顔が柔らかい感触に包まれる。
クラリーチェの計算通り、それが最悪の悪手となり、彼方ははだけたクラリーチェの胸に飛び込む形になってしまった。
彼方、暫し硬直。
「…………すまん。そういう意図はなかった、本当になかったんだ」
起こした体を再びベッドに戻すと、クラリーチェから視線を逸らしながらバツが悪そうに謝罪する。
「ほほう、乙女の胸に飛び込んでおいて、意図はなかったで済ますおつもりですか。それは通らないんじゃないかと思うねぇ」
いつも通りとろんとした口調でクラリーチェが言う。
視線を逸らしている彼方はその表情を確認してはいないが、クラリーチェが嗜虐的な笑顔を浮かべているだろうことは容易に察することができた。
「な、ならどうすればいい?」
「そうですね、今回は愛してるの一言で手打ちにしてあげようかねぇ」
「うぐ……」
要求が重たいのではないかと思うが、未だクラリーチェが彼方の上に乗っている以上、ささやかな抵抗は甚大なる被害の拡大を招きかねない。彼方は提示された条件に従うしかなかった。
「……あ、愛してる」
「ふふっ、よしよし。おはよう、カナ君。眠いと言う割には元気そうに飛び起きたねぇ」
そう言うと、クラリーチェはご機嫌な笑顔でぴょんとベッドから飛び降りる。
「全くだ。おかげさまで一気に目が覚めたよ」
彼方はベッド脇のカーテンを開ける。ビルの山々には既に日の光が差し込み始め、その風景の先で七荻ビルは今日も蜃気楼のように揺らめいていた。
自らの決意を新たにするため、彼方は毎朝欠かさず七荻ビルを眺めている。が、今日の場合に限っては、クラリーチェの胸元から視線を逸らす意味合いの方が大きかった。
「……なあ、クラリーチェ。平行世界では男が居なかったから知らないかもしれないが、そう言う戯れを安易にするのは自らの品位を貶めるぞ」
「勿論知ってるし、私の身持ちはちゃんと固いですよ。カナ君にだけやってる恋人同士の甘い甘い戯れじゃない。雑誌、漫画、小説、映画などなど二ヶ月かけて色々研究した成果だよ」
「その研究、資料に不備か偏りがあると思われるな。と言うか、そもそも俺はお友達からでお願いしたはずなんだが……」
ベッドから起き上がりながら彼方が言う。
「だから二ヶ月近くも待ったじゃない。だからお友達はもうおしまい。ここから先は子供には見せられない、あつあつの恋人タイムの始まりでしょ?」
ベッドの横で服装を正したクラリーチェが言い返す。
「そもそも、俺以外にも選択肢はあるだろう。お前の身の上を考えれば短絡的に決めず、熟考の上で相手を決めるべきだと思うんだが」
彼方は嘘偽りの無い本音で言う。クラリーチェがこの世界に来た経緯を知った以上、彼方は彼女に幸せになって欲しいと心から思っている。
「むっ、なんて乱暴なこと言うかな。カナ君以外に選択肢なんて無いよ。この二ヶ月で嫌と言うほど分かってるの。そこは幸せにしてやるぞって甲斐性見せるところでしょ?」
そう言うクラリーチェの様子を横目に、彼方は窓の風景から視線を離して無言で朝の仕度を始める。
「そうやってすぐ逃げる。他のことなら頼もしい位の決断力があるのにね」
頬をわざとらしく膨らめて抗議するクラリーチェ。
彼方も自らの対応が逃げであることは理解しているし、これだけの美少女に好きと言われ続けて嫌がる男は居ないとも思ってる。だが、それを口に出すことは流石に照れくさい。
「ま、いいや、カナ君は照れ屋さんだもんね」
どうやら、そんな彼方の心情も彼女には既にお見通しのようだが。
「そう言えばクラリーチェ、朝食はもう食べたのか?」
言い返せなくなった彼方は強引に話題を変える。遠まわしな降参の合図だった。
「え? ううん、一緒に食べようと思って道中の無人ストアで買ってきた所だよ」
クラリーチェはテーブルの上に置かれた袋詰めのジャムパンを指差す。
「また菓子パンか? それだと栄養が偏るぞ」
「そしたら魔法を使って足りない栄養素を適切な量作るだけだから問題ないよ。この十年そうやって生きてきたんだし」
「サプリメント生活の究極系だな……。分かった、朝食は今日も俺が作る。保護者としてお前にそんな貧相な食生活をさせるわけにはいかない」
言って、彼方は台所に向かおうとする。
「ちょっと待とうか! カナ君は保護者じゃないでしょ!? 恋人だから、こ・い・び・と! 私が勇気を出して大胆に攻めたのに、どうして一拍置いたらその扱いになっちゃうかな!?」
が、その行く手はクラリーチェに遮られてしまった。
「す、すまん」
「こうなったら思い知らせるしかないね。今日の朝ごはん、私が作ってあげるから」
「できるのか……いや、したことがあるのか?」
彼方は思わず口に出してしまう。
毎朝欠かさず彼方の所へやってくるクラリーチェだが、料理を試みることは今まで一度たりともなかった。恋人だの若奥様だのを自称しているにもかかわらずだ。
「やったことはないよ。平行世界は人口激減で料理以前の世界だったし、こっちに来てからは出来合いの品に栄養足すのが基本だったから。でも理論上は可能だから安心して」
「いや、しかし……。確かに理論上は可能で、食材には無限の可能性があるのだろうが」
理論上は可能。先日七荻ビルでウィッチと対峙した時にファントムが言った言葉。だが、その時よりも今のクラリーチェの台詞の方が不安なのが不思議だ。
「ふっふっふっ、料理なんて所詮は科学ですよ。因果律を無意識に計算して魔法を行使するウィッチにとって、科学なんて簡単すぎる法則だと思わない?」
自慢の長髪を束ね、きゅっとエプロンの紐を結ぶクラリーチェ。その抜群の容姿に底上げされ、その姿は実に様になっている。
しかし、それでも彼方は半信半疑だ。クラリーチェと同じくウィッチであるはずのエリスは間違いなく料理などできない。つまり、クラリーチェの主張は全く根拠がない。
「だからカナ君はテーブルについて大人しく待っていて」
それだけ言って、キッチンへ入っていくクラリーチェ。
直後、クローズ型のキッチンとダイニングを繋ぐ通路がバリケードによって塞がれ、中の様子を窺えないようにされてしまった。
「……なあ、クラリーチェ。お前が調理する様子を俺に見せない必要はあるのか?」
「気にしないで、これはただのリスクヘッジだから」
「否が応でも不安を煽られるんだが」
「おやおや、カナ君は心配性ですねぇ……うえあっ!?」
「お、おい!?」
クラリーチェの叫びに、彼方が慌ててバリケードを乗り越えようと試みる。
「入っちゃ駄目です」
しかし、魔法によって動き出したバリケードが、彼方の侵入を頑なに拒んでくる。最強のウィッチである彼女にしてみれば、この程度の芸当は文字通り朝飯前なのだ。
「確かに軽々とこんなことができるのなら、料理の方が簡単なのは間違いないんだろうが」
例えロッドを持ち出したとしても、あのバリケードは突破できないことだろう。
彼方は釈然としない気持ちを抱えつつ、大人しくテーブルへと戻る他はなかった。
そうこうしている最中にも、キッチンからはごとんごとんと大よそ調理とは思えない音が響いている。昔話で鶴の恩返しを受けている爺婆は、きっと今の彼方と同じ気持ちだったに違いない。
やがてバリケードが戻通りに解体され、キッチンからクラリーチェが帰還した。
「できたよ、カナ君。ほらほら、これで見直してくれるよね」
クラリーチェは柔和に微笑んで皿に盛られた料理を次々とテーブルに並べていく。
その様子は確かに本人が自称する通りに恋人や若妻のそれであり、完成された料理は一流の料理人も舌を巻くであろう出来栄えをしていた。
肉、魚、野菜、果物。見る見るうちにテーブルは豪勢な料理で埋め尽くされていく。
──だが、彼方はそんなできる乙女感には騙されなかった。
「……なあ、クラリーチェ。買った覚えのない素材が多数使用されているんだが、材料はどこから来たんだ?」
真面目な顔で問いかける彼方。
「…………」
クラリーチェは柔和な笑顔を向けたまま、
「料理が科学なら素材も科学。……なら、調理で素材を完成した料理に変えるのも、魔法による世界改竄で完成した料理を持ってくるのも同じだと思うの」
そう答えた。
「それは違うだろう」
「同じことだと思うの」
クラリーチェはそこはかとない威圧感を含んで復唱する。
既に意義を挟む隙間は用意されていないようだ。
「そうか……ならばそう言うことにしておく。ちなみに食べれるんだよな?」
「勿論美味しいですよ、さあ遠慮せずに召し上がれ」
笑顔のクラリーチェに促され、彼方は完成した料理を口に運ぶ。
「ああ、確かに美味しい。美味しいんだが……」
「ん、まだ何かあるの?」
魔法によって干渉を受けた料理はちゃんと消化できるのだろうか、など彼方の脳裏には数々の素朴な疑問が浮かんでいる。しかし、今彼方が一番言いたいのはそこではない。
「朝からこの量はどう考えても過剰じゃないか?」
「あー、うん、あはは……過剰だね。始まりは本当に二人前だったんだけどねぇ。不思議な出来事があったもんですねぇ。いやはや、料理って奥が深いね、勉強になりました」
テーブルにずらりと並んだ料理を苦笑いしながら見下ろすクラリーチェに、彼方は無言でフォークを手渡す。
「あ、うん、そうだね。私も頑張らないといけないね」
クラリーチェも神妙な面持ちで彼方の向かいの席に腰掛ける。
そして二人は過剰な量の料理を相手に悪戦苦闘をはじめるのだった。