叡智の塔2
エリスと別れた彼方とクラリーチェは屋上へと続く階段を上る。
待ち受けるウィッチの姿もなく、叡智の塔の影響もない。薄暗い灯りだけが灯る階段は実に静かなものだった。
「ウィッチが全く居ないなんてな……。分断だったにしても随分思い切りがいい」
「私に庭園が戻った以上、散発的にけしかけても何の意味もないからね」
それきり会話が途切れ、コツンコツンと階段を上る音だけが響く。
「なあ、クラリーチェ。今日の件が片付いたら何かしたいことはあるのか?」
隣で真剣な顔をしていたクラリーチェに、彼方が不意に尋ねた。
「どうしたの急に?」
「叡智の塔が片付いていないことで、またお前が自分の幸せを後回しにするんじゃないかと思ってな」
無論、今は深刻で緊急な状況ではある。
彼方だって冷静さを欠いて今すぐにでも駆け出したい。
だが、それでもクラリーチェの過去を知ったせいなのか、彼方はその真剣な表情に一抹の不安を覚えたのだ。
「え……ああ、ごめん。カナ君に気を使わせちゃったね」
質問の意図に気がついたクラリーチェが苦笑いする。
「それで、何かしたいことや、行きたい所はあるのか? 聞く以上、可能な限り俺も尽力するが」
「おんやぁ、それはデートのお誘いにも取れるねぇ」
イシシと悪戯っぽくクラリーチェは笑ってみせる。
「……ん、まあ、今回に限ってはそう受け取りたいなら受け取ればいい」
彼方は前に向き直って軽く咳払いする。
「とは言っても、公園で言った通り現状で割と満足してるんだよね。カナ君が居て、こっちのエリスとも仲良くなれて。特に君との時間は常に未来を向いていられるから」
「そう切り返されると引き下がらざるを得なくなるんだが……遠慮はよして欲しかったな。俺としては割と勇気を出した台詞だったんだぞ」
「おやおや、カナ君。私がいつも味わっている気持ち、君もついに理解してくれたようですね」
言って、クラリーチェは眉を吊り上げて不敵に笑ってみせた後、
「なんてね。君とやりたいこと、言いきれないぐらい沢山あるよ。そうだねぇ……夏が来たら海にでも行きたいな。ただ、今回は二人でじゃなくってエリスや妹さんも一緒がいいね」
その表情を優しげなものに変え、トントンと軽やかに階段を駆け上がっていく。
「分かった。少し先のことだが覚えておく」
クラリーチェに追いつくために彼方も少し駆け足気味に階段を上る。
「ちなみに自画自賛じゃないけど、私ってスタイル抜群だからね」
「そこは、なんだ……。出会いの時からもう知ってる」
「おんやぁ、あれだけで評されちゃあ心外ですよ。むっふっふっ、恥ずかしがり屋なカナ君は私の水着を直視できますかねぇ」
「水着か……あまり攻めたのは止めて欲しいがな。普通に頼む」
「ほほう、カナ君の想像する攻めた奴ってどんなの? 普通ってのも気になる所だね」
「想像に任せる」
そんな他愛もない会話に合わせ、トントントンと小気味よく、追い駆けっこでもするように階段を上がっていく二人。
やがてその終点に一枚の扉が現れた。
先を行っていたクラリーチェは足を止め、すうと小さく息を吸う。
「ありがとう、カナ君。今の私が幸せなのは訪れる未来を心待ちにできるから。それはね、君と私が作る明日が絶対に素敵だって信じられるからだよ」
そして、彼方の方へと向き直って微笑んだ。
「いや、礼を言わないといけないのは俺の方だ。エリスに平行世界の自分が死んだと聞いた時、お前と出会わなければそうなるだろうなと妙に納得してしまった」
完成したロッドを手にして、エリスや遥に頼ることを良しとせず、一人で全てに立ち向かい、そして力及ばず死んだ。
並行世界の彼方はそうやって死んでいったことだろう。その光景を容易に想像できてしまう。
クラリーチェと出会わなければ、今ここに立つ自らも同じ道を辿っていたはずだ。
「ふふっ、それはいいねぇ。私は君とお互いの未来を作れているわけだ」
クラリーチェは微笑んだままそう言って、彼方に全断の剣を手渡す。
重さがない概念の剣が、彼方の手元でずしりと確かな重さを感じさせた気がした。
「ああ、だから行こう。俺達が作り上げた道筋の先、叡智の塔に記された未来の先へ」
二人は揃って扉を開け、屋上ヘリポートへと踏み出した。
屋上へリポートは既に原型を留めていなかった。
折れた摩天楼に穴あきチーズのようになったビル街。人の気配を感じさせない街並み。透き通った青空。叡智の塔の風景が一面に広がっている。
更に茂る新緑の香りも、廃墟を抜ける風も、遠くでさえずる小鳥の声すらも、まるで全てが本当に存在するかのようにこの場に有った。
他の庭園憑きに入っていた情報とは一線を画す量の記情報がこの場にはあるのだろう。
「さあ、ようこそおいでくださいましたわ。お二方」
折れた摩天楼に至るひび割れた道の道中、巫女装束をはだけさせた彩華が優雅に会釈する。
その傍らには人形のようになった遥の姿もあった。
「彼方さんと……そちらの可愛らしい方がファントムさんで間違いないのですかしら?」
「そうだよ」
「うふふ、久々の里帰り気分ですわね。どうせ封じるつもりなのですから、もう少し懐かしの風景を楽しんではいかがですかしら?」
彩華の言葉に彼方が視線だけで周囲を見回す。
人の息吹を感じない世界。今まで叡智の塔と対峙した時は必死で気がつかなかったが、この風景の場所に彼方は見覚えがあった。何しろ、つい先程までそこに彼方達は居たのだ。
「叡智の塔の映している風景、これは七荻ビル前の大通りなのか……?」
「そうだよ、廃墟となった七荻ビル前。叡智の塔が映し出しているのは、私がエリスに送り出されたその場所」
その言葉に彩華が微笑む。まるでその言葉を引き出すために、今まで会話をしていたのだと言うように。
「まあ、それではやはりファントムさんがこちらの世界に来たこと、それこそが叡智の塔発生の原因だったのですわね」
この状況を作り出したのはお前なのだ。そんなニュアンスを込めて彩華が言う。
「実は叡智の塔を最も効率的に取り出せるのは七荻ビル屋上ですのよ。調べたウィッチによれば、そこに平行世界と繋がった接点のようなものがあるからだとか。あらあら、もしかしてファントムさんが来るときに通った道ですかしら?」
煽るような彩華の言葉にクラリーチェの顔色が露骨に変わる。自罰的な一面を持つ彼女のこと、その言葉が傷口を抉るように突き刺さっているのだと彼方は分かった。
彼方は彩華の言葉から守るようにクラリーチェの前に立つ。
「それがどうした。ファントムが……いや、クラリーチェが居なければ、この世界の未来も叡智の塔と同じ風景になっていたんだ」
「カナ君……」
「あいつの口車に乗る必要はない。お前の目指す場所もしてきたことも間違いじゃないんだ。それは俺が保障する」
「まあ、うふふ、素敵な絆ですわねぇ。わたくし、思わずときめいてしまいそうですわ」
彩華は口元を抑えて愉快そうに笑うと、脇に避けて道を空けた。
「どういうつもりだ?」
「お話では解決できそうではありませんから、その準備ですの。うふふ、叡智の塔が入った遥さんを助ける前に、叡智の塔が接続する平行世界との接点を封じる必要があるかと思いましたの」
「ふぅん、そう言うこと……。そこまで狙ってたか」
「ええ、本調子のファントムさんの相手なんて誰も務まりませんわ。本番は接点を封じて貴方の庭園がなくなってから、でしてよ」
目を細めてニヤリと笑う彩華。
「カナ君、気をつけて。今から私が庭園を使って平行世界との接点を封印する、そしたら間髪入れず殺しにかかってくるよ、彼女」
「分かってる」
叡智の塔に歩いていくクラリーチェ。
彼方は彩華の動向を注視しながら、クラリーチェの背中を守るようにその後を歩く。
揺らめいたクラリーチェの輪郭が鮮明になり、それを入れ替わるように七荻ビルが蜃気楼のように揺らめく。──しかし、今回は上空の青空は消えない。
代わりに上空の風景が集まり、粘度の高い雫のようにどろりと滴る。その真下にはクラリーチェが居た。
「クラリーチェ!」
彼方はクラリーチェの腰に手を回し、倒れこむようにその場を離れる。
彼方の僅か後に雫が零れる。風景が本来の屋上ヘリポートへと戻り、滲みこむ先を失った叡智の塔の雫は揺らめくビルの床に消えていった。
「まあ、残念。折角庭園の守りがなくなったのだから、ファントムさんにも叡智の塔をさしあげようと思いましたのに」
「っ! とんでもない事を考えてくれるね、君は!」
全断の剣を周囲に浮かべ、クラリーチェが彩華を睨みつける。
「ふう、困りましたわ。やっぱり武器を使ったチャンバラになりますのね。初めてですけれど、わたくし上手にできるか心配ですわ」
口ではそう言いつつも、大して困ったような素振りも見せず、彩華は虚空から刀を取り出した。
「ウィッチのなり損ないだと聞いていたが、因果調律鍵まで使えるならウィッチと何も変わらんな……!」
「あくまでこの刀は叡智の塔の間借り、わたくしはただの人間に過ぎませんわ。人が紡がなければそれは人の歴史にあらず。私もまた歴史と共に滅ぶただの人間でなければ、人類の末日を決めるような行いが許されるはずがありませんもの」
凍えるような冬の風が吹き荒ぶ中、彩華が狂気を湛えた瞳で彼方を見据える。
「お前が人であろうとウィッチであろうと関係ない。お前が何者であろうが世界の末日を定めることなど認めるものか」
彼方は彩華の狂気を払い退けてそう言い返す。
「うふふふふふっふふっふ!! それでこそですわ、それでこそ今宵の主役。その言葉を一日千秋の思いで待ちわびて降りましたの!! ああ、トキメキますわ! 高鳴りますわ! きゅんきゅんいたしますわぁ!!」
人形のように佇んでいるだけだった遥が動き出し、その周囲に武器を手にした三つのシルエットが現れる。
「さあ、立ち向かってくださいまし! 突き進んでくださいましっ! 貴方の全てを余さずこの胸に刻み込んで見せますわ!」
彼方が手にした全断の剣を構え、クラリーチェが浮かべた剣の切っ先を彩華に向ける。
二人が臨戦態勢に入ったのを確認すると、彩華は火照った体と感情を一端冷やすように小さく息を吸って目を閉じる。
「神を降ろすは言霊から、それが御巫の習い。故にここで宣言いたしますわ。これより先は世界の在り方を決める──征界戦でしてよ」
りんと鈴の音の如く宣言し、神楽を奉納するかの如く彩華が闇夜に舞う。
「受けて立つ──!」
「いざ開園ですわ! 早鐘を打つこの胸を! もっともっと高鳴らせてくださいましッ!!」




