聖女の儀、前々日
震える足で街を歩く。
どうしよう。
嫌。
死にたくない。
逃げなきゃ。
でもどこへ?
どこでもいい。
殺されないところへ。
でもどうやって?
馬車?
お金、持ってない。
普通は馬車に乗ったり物を買ったりするのにお金が必要なことは知っていた。
けれどお金を持たされたことはなかった。欲や穢れを孕んでいる為、聖女は触れるべきではないと。支払いが必要なときはいつも神官がしていた。
だから今まで、お金に触れたことさえなかった。
どうしよう。
フードを外して聖女だと明かせば、馬車に乗せてもらえるかもしれない。でも今は、正体を知られるわけにはいかなかった。
だって聖女は、明後日の儀式で……。
怖い。
これでは、どこへも行けない。
逃げられない。
見えない鎖が、首に巻きついているような気がした。
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聖女だと周りに気づかれないよう人を避けて歩いていたら、いつの間にか街はずれの森の入り口まで来てしまっていた。
そういえば、獣をとって生業にしている人がいると聞いたことがある。
………誰も私を知らない森の中でなら、暮らせるかもしれない。
近くに落ちていた小石を武器代わりに拾って握りしめ、森へと入っていく。
木々に日の光を遮られ薄暗い小道を歩く。生えかけの草の葉が、素足に当たって小さな切り傷をつくる。でも今はそんなことに構っていられなかった。
カサリと小さな物音に振り向くと、茶色い野ウサギがいた。
まだこちらには気づいていない。
…あれを殺せば。
手の中の小石をギュッと握り締める。
ずっと歩き回ってお腹が空いていた。
神殿でもたまに肉は食べるけれど、殺生は禁止されていた。だから動物を殺したことなんてない。殺す必要もなかったし、そもそも殺そうと思ったこともなかった。
でも今は、そうしなければと思った。
ウサギがこちらに気づいた。
つぶらな瞳でじっと私を見ている。
殺さなきゃ。死にたくないなら。
手が震える。
背中が嫌な汗でじんわりと湿る。
もう一度、小石を強く握った。
その途端、野ウサギはパッと身をひるがえして逃げ出した。
慌てて投げた小石は、ひょろひょろと力なく全く違う方向へと飛んでいった。
いくら私でもわかる。あんなので殺せる動物はいない。
自分の細い腕をじっと見た。
重い物など持ったことのない細い腕。
この腕でどうやったら殺せるというのか。
この腕でどうやったら、生きられるというのか。
それでも生きたかった。
何か他の方法は……。
森には食べられる野草が生えているはずだ。
辺りを見回す。草ならいっぱい生えている。
でもどれがそうなのだろう。見分けがつかない。
野草は神殿で食べていた食事にも入っていたけれど、刻まれ炒めたり煮込まれたりして元の形はなかった。火や刃物があって危ないからと、厨房に入らせてもらったこともない。
だから原形をちゃんと見たことはなかった。
どうしよう。
わからない。
恐る恐る、どこかで見たことのあるような形の葉をちぎって口にしてみた。
苦い。
舌がピリピリする。毒なのかもしれない。
毒だったらどうしよう。
慰問で見回った村で、毒に侵された人を見たことがある。食べられる野草と間違って、毒草を口にしてしまったのだという。薬はなく、せめて心安らかに神の御許へ旅立てるようにと乞われて握った私の手に爪をきつく立て、ひどく苦しみながらその人は死んでいった。
野草について多少の知識があるはずの村人でさえそうなのだ。
私が当てずっぽうに森の草を口にし続けたらすぐに……。
怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
森の中では生きていけそうにない。
でも、神殿に帰っても数日後には殺されてしまう。
嫌だ。
生きたい。
殺されたくない。
でもどうしたら。
森では生きられない。
けれど街でも生きられない。
私の顔は、広く知られている。人と会って話をして、心を慰め希望を与えるのが私の仕事だったから。
儀式で死ぬはずの人間が生きていたら、見逃してはもらえないだろう。
だって皆、私に死んでほしいのだから。
さっきも、あんなに嬉しそうに先代の聖女が死んだときの様子を話していた。
この前花をくれようとした女の子だって、私がこの世から消えて皆に幸せをもたらすことに感謝していた。
その私が生きたいと言っても……。
村もダメだろう。
街の周囲の村々にも何度も訪れているから、やはり顔を覚えられている。
それに小さな村では、余所者は目立つ。
どこでなら生きられるの?
誰も私のことを知らないところ
でも、どうやってそこまで行くの。
行けたとして、どうやって生きていくの。
私は聖女としての生き方以外、知らないのに……。
ふと気づくと、辺りは暗くなり始めていた。
夜がくる。
肌寒さを感じて、ローブをギュッと体に巻きつけた。
夜にはもっと寒くなる。
火は、ない。
木を燃やす?
どうやって?
どうやったら木は燃えるのだろう。
教会では、寒い日にはいつも暖炉に火が入っていた。燃えつきないよう、侍女が様子を見てくれていた。
村で時々、細かくした木の前で何かをカチカチさせていたのを見かけたことがあるけれど、あれは何をどうやっていたのだろう?
思い出そうとする。
でもわからない。
知らない。
私は生きていくために必要なことを、何一つ知らない。