正直者が馬鹿をみない社会にするための性悪説
皆さんの小中学校時代、掃除の時間がありましたよね?
その時間、こんな友達はいませんでしたか?
教室など、比較的人の目のある場所では掃除をするけれども、体育館の裏とかだと途端にさぼる人です。
基本、先生は見ていないから、さぼろうが問題とならない。
たまに真面目な女子が学級会で、○○君は掃除をさぼっていけないと思いまーす、みたいな事を言い、一時は掃除をするけれども、暫く経てば元の木阿弥状態というヤツです。
実は先生はしっかりとチェックしており、内申に影響しているのなら良いのですが、私の実感としてはどうもそうではないなと思います。
社会に出ても、似た様な経験をする事が多いからです。
正直者が馬鹿をみるというヤツです。
因みに私はさぼらない方です。
それは真面目というよりは、誰かが見ているからさぼらない、見ていないからさぼるという行動を、どうしようかと考える事自体が面倒だったからです。
迷うのが面倒なので、初めからさぼらない選択をする、というだけの面倒臭がりです。
と言っても、深夜の横断歩道は車が来なければ赤でも渡るのですが・・・
それは兎も角、正直者が馬鹿をみる社会が好きではないので、どうすれば良いのか考えてみました。
案は単純で、性悪説に立った社会にしようというだけです。
先の掃除の時間に当てはめて考えてみれば、誰かが見ていなければ人はさぼるという前提の下に制度を作るのです。
従来は人の善性を信頼し、見ていなくても真面目にしているだろうという社会でした。
だから先生は指示を出したら監視しないし、真面目に掃除したのか検証しません。
さぼったのがばれるのは、誰かがそれを指摘した時だけです。
こんな社会ですと、真面目にしているのが馬鹿らしくなります。
ですので発想を逆転させ、監督者が見ていない場合は常にさぼっていると見做し、点数をつけないのです。
性善説の社会の場合、悪事がばれて初めて減点されます。
掃除をさぼっていても、誰かが告発しなければ真面目にやっている人と同じ評価を得られます。
真面目にやっている人は、さぼっている人を告発してその人の点数を下げない限り、自分の評価を相対的に高める事が出来ません。
気の弱い人にはそんな事は出来ないので、不満ばかりが溜まります。
対して性悪説の社会の場合、誰もがさぼって当然なので、さぼった所で減点はされないけれども、一生加点もされません。
真面目にやっている人は、真面目にやっているだけで加点されるという事です。
尤も、真面目にやっていると証明する必要があるので、掃除をやっているのかやっていないかの検証作業が必須ですが。
それを言い出すと、性善説の社会でも先生が毎回チェックすれば良いとなりますが・・・
先生にそんな時間的余裕がないのが問題かもしれません。
では、宿題に当てはめましょうか。
これはチェックが容易ですからね。
出された宿題は、やらなくて当たり前とする。
そうであれば、真面目にやっただけで加点されます。
遅刻もそう。
人は遅刻するのが当たり前とすれば、時間を守るだけで評価されます。
開始時間にその場にいるだけで自動的に加点されます。
遅刻した人を怒る必要はなく、時間を守った人を褒める社会です。
要は加点主義にしろ、ですかね。
真面目にやっているだけで評価が上がっていく社会です。
人の善性に期待しない、ある意味絶望が基礎の社会とも言えますが、真面目にやっている者が馬鹿をみるよりはマシかと思います。
問題点があるとすれば、さぼっている人を叱れない事でしょうか。
さぼって当たり前なので、それを否定する事が出来ません。
開き直られるとそれ以上為す術が無い。
諦めに支配された悲しい社会になりかねませんね。
また、遅刻して当たり前の社会になると、時間を守るだけで加点しないといけないので一々面倒かもしれない。
遅刻しないのが当たり前ですと、遅刻した人が出て初めて叱れば良いので効率的ですよね。
そして私は面倒臭がりなので、加点主義は加点をする側だと面倒だなぁ・・・
評価される側にとっては加点主義が好ましいけれども、評価する側には減点主義の方が手間が少ない。
それを考えると、つまり日本は権力側に都合の良い社会、という事ですかね。
国民の側が支配される事に慣れている?
国民主権では無いという事?
それは同時に、日本はまだまだ改善の余地有り、成長出来るとも言えるのですかね。
加点主義は面倒臭いですが、正直者が馬鹿をみない為には必要な手間暇ですかね。
説明を書き加えます。
ここで言う性悪説は私の考える性悪説ですので、従来の性悪説とは異なっております。
悪とは言っておりますが、精々が怠惰といった程度の状態を指します。
肉食獣は腹が一杯なら、目の前を通り過ぎる兎には目もくれません。
元々の性悪説が、教育をしないと動物に堕するという思想なのでしたら、生物は怠惰が基本ですよね、くらいの意味です。