第3話:仮面の男 ☆
固く目を閉じた瞬間、すぐに腰に手が回され、アレッタはその小脇におさまった。
だが、それでもアレッタは諦めきれない。
この位置であれば届くだろうと、最後の抵抗に渾身の力を込めて顔面に向けて拳を突きあげる。
だが思ったよりも硬い顔だ。
結んでいた瞼をほどき、そっと見やると、そこには小さな波形に凹んだ仮面がある。
さきほど庇った仮面の男は、逃げずにその場に残っていたのだ。
「逃げるよ、子供」
仮面越しの声は耳障りのいい、若い男の声だった。黒い外套をひるがえし、オークが振りかざす棍棒を難なく避けると、男はアレッタを抱えたまま走り出した。
アレッタは抱えられながら男を注視するが、身なりが整っていることから貴族か何かなのは察しがつく。
だが、これほどに逃げ足が早いとは。普通の貴族であれば乗馬を嗜む程度で、子供を抱えて絶壁の崖など登れやしない。
しかし仮面の男は最も容易く崖を登り、すぐ近くにあった納屋へと身を潜めた。森の中にある納屋は近場の畑の手入れの時にしか使用しないもののようだ。今は使わない時期のようで、樽がいくつかと、藁がひと山、あと棚がひとつある程度の本当に小さなものである。
彼は藁山を背に腰を下ろし、ひと息ついた。
白い手袋の埃を払い、息を大きく吐いたわりには息切れはしてはいない。
埃とカビの湿気った臭いが充満するなか、
「巻き込んでしまってすみません」
アレッタは頭を下げた。
そんな少女をまじまじと見つめ、
「……天使だね。元だろうけど」
男はぶっきら棒にそう言った。
すでに男の仮面から彼女の拳の型は消えていることから、男は魔術師か何かなのかもしれない。アレッタは彼の仕草を観察しながら小声で答える。
「よくわかりましたね」
「天使はヒトと形は一緒でも、この琥珀色の目と、この香り……は、誤魔化せない」
男は顔をついと寄せると、仮面越しにアレッタの髪をすくいあげ、匂いを嗅ぐ仕草をする。
「汗臭くてすみません」
アレッタは慌てて体を撫でてみるが、男は声を立てて笑い、
「違うよ。ヒトの世界でいうなら君から漂う香りはワインの香りに似ている。最上級のワインの香り。気品にあふれた繊細な香りだよ。
だからオークに狙われたんだ。
……そうだな、君からはラズベリーのフレッシュで甘い香りと、さらに汗が混じるせいかスパイシーな森の下草、あとなめした革のような深い香りがする」
「それは幼女趣味とい」
「違うよ」
男は食い気味で言い切ると、ひとつ咳払いをし、
「僕は君の血など興味はないが、魔力を多少とでも必要とする者は君のようなヒト堕ちの血が欲しくてたまらないんだよ。魔力の補給はもちろん、極上の香りと味が楽しめるからね。
それにヒト堕ちなどそうそうあることじゃない。
しかもうまく生き延びても、たった7日で死ぬ。
だから死んでいても高値で取引されるんだ」
「なるほど。それでは、逃げる際、私をオークに差し出してください」
まっすぐ向いた瞳に濁りがない。
腹を括った幼女の声に男は鼻で笑うと、
「危なくなったらそうさせてもらうよ」
その声にアレッタは微笑み、お願いしますと付け加えた。
木々の倒れる音がする。オークが近くまで来ている証拠だ。彼女は納屋の土壁に耳をつけて外を探るが、なかなか状況が掴めない。そんな中でも男は余裕の雰囲気で、積まれた藁を摘んで床に散らしながら、
「何か、君の手に足りないものがあるみたいだね」
彼女の手を藁でさした。
アレッタも気づき、自分の手を見てはにかんだ。ちょうど柄を握るように手が丸まっている。
「剣があれば、少し違うのですが……」
「君、智天使なの」
「よくご存知ですね」
「そこに鎌がある。使えないの?」
「彼女と約束したのです」
「彼女……?」
「彼女は、聖剣のことです。私の大事なパートナーでもあります。
彼女が私を神の左手として選び、その時に言ったのです。『私以外の武器は持たないで』と。
……私はヒト堕ちし、もう神の左手ではない。
それでもネージュとの約束を果たしたかった。
ですが先ほど棍棒も使ってしまいましたし、あなたを守る義務がある。
この約束はもう守れそうにありませんね……」
アレッタは草刈り鎌を手に取った。柄が長く、刃も長い。死神が持つ鎌と同じ形をしている。構えてみるが、彼女の身長には大きすぎる。
だが聖剣であればこんなことにはならない。
「……会いたいよ……ネージュ…」
隣の納屋が壊される音を聞きながら、これからの絶望をかき消すように呟いた。
──もう、すぐそこにいる……!
彼女は彼の盾に少しでもなれるよう前に立ち、鎌を構えた。
アレッタは血の滲む足に力を込め、いつ来るかわからない薄い扉を睨む。
その眼光はあの神の左手と謳われた戦士そのもの。
張り詰める緊張のなか、7回目の呼吸を行おうとしたとき、唐突に起こった。
振りかざされた棍棒に、呆気なく破れた薄い扉は粉々に砕け、土煙と木屑に変わる。
土煙を割るように、入り込もうとするオークの姿が現れる。
「捕まえろっ」
視界が見渡せない埃が舞う納屋へオークが踏みこもうと、足を伸ばし腕が伸ばされた。だが小さな戸枠のため、彼らが自由に動けないことを逆手に取り、アレッタが一歩踏み込んだ。
そのとき、一瞬にして日差しが入り込んだ意味を、彼女は気づかないでいた。