64ー4 賭け金を
「僕は貴方が嫌いです」
真顔でそう言い放つリュウイチに鬼頭は軽く笑う。
「そうか」
ただ、それだけ。それ以降は会話もなく、ただひたすら睨み合う状態が続く。
リュウイチはこの男が従う来訪者がどんな人物なのかわからないので動けずにいた。
あの来訪者……ホワイトと似た人物であるのか、それとも彼が逸脱していたのか。それはわからない。
だがホワイトの口ぶりからして、彼が異端だったのだろうとは予想がつく。
リュウイチを殺そうとして、助けた、行動が矛盾している来訪者。彼が一般的で無さそうなことを考えると下手に動くのは危険すぎる。
リュウイチはもう向こうの世界に行くことができない。正直、助かったとはいえ未だに半死半生と言っても過言ではない体だ。
ホワイトが与えた進化の力でギリギリの均衡を保てているだけで、何かの拍子にまた衰弱状態、もしくは死亡してしまうことも充分あり得る。
崩壊と進化がひたすらに繰り返され生き延びている。だからなのだろうか、リュウイチはこの世界に居ることに酷く戸惑っている。
ここに居ていいのだろうか、と悩み続けている。自分はもう天宮城ではないのだから。
「……これ以上は無駄か」
「ええ。無駄ですね。無意味です」
鬼頭がため息をついて立ち上がる。部屋を出る前にリュウイチを一瞥して小さく笑った。
「君は……こちら側に限りなく近い。それをわかっていない訳ではないだろう?」
「………なんの話です?」
「わかっていないのなら、君はもう手遅れだ。精々踏ん張るといい。全て価値のない努力に終わるだろうがね」
静かに扉が閉まる。
カチリ、と鍵をかけられた音がした。
いつのまにか遠藤を含めた全員が退室していたらしく、部屋に残っているのはリュウイチだけだった。
鍵をかけるにしてもせめて縄を解いて欲しかった。
かなり暴れたので相当キツく縛り付けられていて地味に苦しい。
「く、ぅっ……」
縄を弛めるために身動ぎをする。だが、その瞬間に気が付いた。本当に苦しいことに。
確かに人間の時の記憶を未だに引き摺っていて、水の中に入ったときや首を絞められたときに苦しいと体が錯覚することがある。
それは、本当に苦しいわけではなく、ただ「なんとなく」そう思ってしまうがための思い込み、所謂プラシーボ効果というやつである。
だからこれまでも思い込みであることを認識したらすぐに楽になるはずだった。何故ならリュウイチに呼吸は不必要だ。呼吸しなくても生きていける生物が思い込みで窒息など馬鹿馬鹿しいが、実際にそういう事態に陥っている。
だが今は違う。呼吸が必要ではないことがわかっているのに苦しいのだ。
つまりこれは、呼吸ではないなにかが作用して苦しいのだ。
そうなると苦しいのは思い込みでもなんでもない。
「か、はっ……!」
ぐらつく視界を安定させようとすると、椅子ごとひっくり返ってしまった。運良くその衝撃で椅子が壊れて縄が解けた。
それなのに、苦しい。無意識に喉を押さえて必死に呼吸を繰り返すが一向に良くならないどころか、どんどん辺りが暗くなっていく。
無理に吸い込もうとするとなぜか咳き込んでしまう。
指先の感覚が危うくなってきた頃、どこからか視線を感じた。
直感で相手がなんなのか察することができた。
顔も、名前も、性格も知らない。なにもわからないのに、どこか懐かしい気配がする。
「ぅ………ぐ」
ほとんど見えない目をこじ開けて視線の方に手を伸ばす。
黒い影が、見えた気がした。
ぼんやりとして考えが纏まらない。
リュウイチが薄く目を開けると、白い壁と分厚いガラスが見える。ガラスの向こう側には何人かの人。男性も女性も混じっている。
左手から、黒水晶が大きく飛び出しているのが見えた。
魚住に切ってもらった筈なのに、以前よりも大きくなっている気がする。
あまりにも大きいからなのか、左手が全く動いてくれない。左足も、もうピクリとも反応しない。
なぜかまともにものを考えられないのに、苦しいだとか痛いだとか、そういうこともない。
寝起きの時みたいに、ほとんど無意識になにもないところを意味もなく見てしまう。
ガラス越しに人が見える光景は、暴走したあとに運び込まれる集中治療室みたいだった。
誰よりも不安定な能力を持っていた天宮城は、手術や昏睡状態に陥ることも珍しくはなくこういうのは見慣れていた。
もっとも、天宮城の場合暴走すると止められるのが幼馴染達だけだったということもあり、誰でも経過を見守れる特殊な部屋だったのだが。いつ暴走しても誰かが飛び込んでいけるように。
「………?」
ここで寝ているわけもわからず、ただボーッと向こう側の人たちを見ていると、一人の女性と目があった。
考えが纏まらないリュウイチは彼女の様子を観察する。
女性は小さく笑みを浮かべてリュウイチの方へと歩いてきた。そしてガラスをすり抜けて中に入ってきたのだ。
「………!」
ぼんやりしているとはいえ、流石に驚くリュウイチ。
まるでなにもないみたいに障害物をすり抜けるなんて、普通の人間にできる芸当ではない。
「……驚いた?」
急に話しかけられて一瞬面食らうが、あまり複雑なことが考えられないせいか素直に頷いてしまう。
「そう。面白いでしょう?」
面白いか、面白くないか。その次元ではない気がする。というか、何が面白いのかもわからない。
なんと返事したらいいのか迷い、曖昧に頷いておく。
「……今、別にって思ったでしょ」
「…………」
返しに困る。小さく目を逸らすと、悪戯がバレて必死に誤魔化そうとしている子犬みたいな仕草に耐えきれなかったのか彼女が吹き出す。
「あなた、とっても可愛いし素直なのね」
「…………ち、がう」
思考どころか舌もうまく回らない。
会話できているかも怪しい。
「いいえ。とってもいい子。ねぇ、名前を教えて?」
「……りゅう、いち」
「リュウイチ君、ね。私はユウ」
ユウ。その名前がスッと寝惚けた頭に入ってくる。
「ゆ、う……」
「ええ。よろしくね、リュウイチ君」
ユウが左手を触ると、指輪と水晶がぶつかってコツンと固い音がした。
「眠かったら、寝ていいの。これからもっとお話しする時間はあるんだから」
「…………」
その言葉にどうしてか安心してしまって、リュウイチは数秒後には静かに寝息を立てていた。