58ー1 終わりが始まりである保証はない
掲げた手で何かを掴むようにして握りこんだ。
その瞬間、木が揺れた。ここは木の内部なのでダイレクトに揺れが伝わる。
「っく……これ、結構キツイ……!」
握りこんだ手をそのままに苦しげな表情になるリュウイチ。事前にこうなることを聞いていたアイン達でさえ踏ん張れずに尻餅をついた。
揺れは十秒ほど続き、収まった頃には空が見渡せた。
それはまるで、今までの外の光景と何ら変わらないと錯覚するほど周囲が開けて見える。
正確には、リュウイチの力である進化。それをこの木にかけたのだ。その結果木が透明化したのである。
ガラスで作られた木の中に階層があり、そこに沢山の町がある、といった具合だろうか。
「ここまでとはね……。温存してた?」
「いや……全く使ってなかったから溜まってただけだとは思うんだけど」
思っていた以上の成果にやった本人でさえ少し驚いている。
進化も崩壊も、ずっと使わなかった。だからまだ制御はできない代わりにとてつもない総量に膨れ上がっていた。
今限界まで溜め込んでいた力を放出したのでもう当分進化の力は使えないだろうが。
予め用意しておいたウィルと繋がっている紐。それを腕に絡めてセドムを少々乱暴に担ぐ。
「アイン、シーナ。後は頼んだ」
「うん。ちゃんと帰ってきなさいよ。まだ仕事あるんだからね」
「行ってらっしゃいませ」
リュウイチは何も言わなかったが、確かに小さく頷いて紐を数回引く。
合図に反応して上の階層にいるウィルが紐を引き上げる。
腕一本に自分とセドムの全体重がかかった上で引き上げられるときの慣性に逆らう動き。負荷が一気にのし掛かる。
リュウイチは奥歯を噛み締めることでそれを思考の外に追い出した。
――こんなもの、昔に比べれば痛みとも言えない――
寒さと痛み、孤独と恐怖。それに震えた天宮城の幼少期。
あの時から自分を偽ることを覚えた。本来の自分を忘れて、ただひたすら理不尽な暴力に耐える。
歪で不気味だったと自覚していたほどに。
学校で倒れ、自分を貶していた相手が自分のことを知ってたということを聞かされた時、どう反応していいかわからなかった。倉庫で暮らすようになったのは、いつからだっただろうか。
母の仕事が忙しくなり、叔父に預けられてすぐだっただろうか。もう、何も思い出せない。気づいた頃には殴られていたし、倉庫で寝泊まりしていた。
藤井に、何故殴られて我慢できるのかと問われたとき、何も感じなかった。我慢も何も。そもそも痛みに、恐怖に慣れてしまった自分はまともな感情を有していない。
周りの反応を見て、どんな行動をとるのが最適解か。それを判断する術を身に付けてしまったことが不運だったのだろうか。
それを完璧に実行できる『演者の才』が存在してしまったことが不味かったのだろうか。
天宮城に、感情という崇高なものは殆ど残っていない。
今までに読んだ本や見たテレビ、周囲の人々の様子を一から十まで解析して『普通の人ならこういう表情をしてこういう行動をとる』と導きだし、それを表面に出すだけ。
何も感じないわけではない。ただ、酷く稀薄で簡単に理性で上書きできてしまう薄っぺらな心しかない。
激昂したふりをするのも、大声で笑ったふりをするのも、恐怖に青褪めるふりをするのも。どれもが『一般的な反応』を演じているだけで。
彼の言葉は全て借り物で、彼の奥底にはなにもない。
ただ凪のように沈静化された感情をなんとなく感じ取ってそれに対応した言葉と表情を作る。彼は自分を守るために自分の要らないものを殺した。
リュウイチとしての意識が入った今でも何故か自分は天宮城であると思っている。他にも沢山の記憶はあるのに、何故か天宮城 龍一が埋もれることはない。
それだけ強烈な人生だからなのか。リュウイチは、そうではないと思っている。
恐らく、リュウイチと龍一はよく似ていた。事実魂は同一人物ではあるものの、二人は共通して孤独であった。
理解することもされることもなく。
ただ現状に耐え日々を生きていく。
まるで死に場所を失った死人が戸惑いつつその場に立ち止まっているかのように。
だからこそ、理解してくれようとしてくれた人達を救わない訳はない。アインや藤井達、アロクにセドム。その他にも、沢山。
失うわけには、いかない。絶対に。
彼らの感情というものはあまり理解できない。天宮城の感覚に支配されているからかそれは薄れてしまって、今にも溶けてなくなりそうだ。その分冷静に物事を考えられるが、それではきっと駄目なのだろう。
自分の感情というものを理解できなくなるくらいまで感情を取り戻したい。『ああ、今俺は怒っているんだな』と俯瞰するわけではない、怒りを感じた瞬間に相手に殴りかかるくらいの。
理性が感情で掻き消されるくらいのそれがなければならないのだ。
「……お父さん」
「どうした?」
「俺……やっぱ死ねないなぁ……」
死ぬつもりでここまで来たけれど。死ぬと解ってて今行動を起こしているけれど。
死にたくない。それは感情から来る言葉でなく、周りの反応に対しての100%の答えを無意識に言ってしまっているだけなのかもしれない。
それなのに『死ねない』と思ってしまう。
身勝手な言葉だ。全員が命を投げ出さなければ相討ちに持ち込むことすらギリギリの相手と戦う前に、こんなこと。
元々リュウイチを含めた全員の命を削りきることを前提とした今回の作戦。再考の余地などないほどに綿密に組まれた罠。種族全員が文字通り命を賭して作り上げた策。
それをたった一人の我が儘で全て台無しにすることは出来ない。してはならない。だが、それでも。
「皆まだ……俺が帰ってくるって……そう、信じてる」
帰還は理論上あり得ない。確実に死ぬ。わかっている。
死んで巻き添えにするか、死んでも相討ちに持ち込めずこの世界が終わるかのどちらかだ。
「いや……ごめん。……なんでもない」
リュウイチはもう考えることを止めた。感情という仄かに感じられる程度のものは全て作戦をシュミレートするために封じる。
これでいい。封じてしまったそれが本当の意味で消え去ってしまっても、もう無意味になる。全部文字通り【終わる】のだから。