50ー2 ラグナロクを止めるには
あれから三日経つが外の様子は全くわからない。
今自分が誰なのかわからなくなってしまうような記憶の混雑からようやく解放され、気持ち悪さも大分落ち着いたリュウイチだが、気分が晴れることはなかった。
こうしている間にもラグナロクが地上を滅ぼすための何かを画策しているのだと考えると、落ち着くものも落ち着けない。
日に四度、決まった時間に会いに来るのだがそれだけである。
なにか話すわけでもなく、ただ来るだけだ。ラグナロク本人は満足そうではあるが、リュウイチからしてみれば何がしたいのか理解できない。
目を閉じてただひたすらに思考する。
どうすればラグナロクを止められるのか、それだけを必死に考え続けていた。
「無駄ですよ」
「……アロク」
目を開けると、ラグナロクが静に部屋に入ってくるところだった。
「下界に何をする気なのか、教えてくれないのか」
「教えたら、止めに行くでしょう? 危険ですから駄目です」
「俺は弱くないよ。自分の身くらいは自分で守る」
「さて、どうでしょう?」
アロクの目が細くなる。固定されているから逃げることができない。リュウイチは咄嗟に下を向いたが、アロクの腕がそれを許さなかった。
「かはっ……」
首をギチギチと締め上げられる。人間で過ごしたときの記憶が大量に混じっているリュウイチは呼吸を本来不要とするのに癖で息が出来ない状態を苦しいと錯覚してしまう。
勿論幻痛なのだが、思い込みとは恐ろしいもので苦しくないと理解しているつもりでも意識が落ちてしまうのだ。
体から徐々に力が抜けていき、瞼が下がってくる。最後に「弱いですよ」というアロクの呟きと、その笑みとも真顔ともつかない表情が脳裏に焼き付いた。
目を覚ましたのは何日後なのか。それすらもわからなくなり、日付の感覚がなくなった。
「昔みたいだ……」
両親をラグナロクで亡くしてから日付や年など全く気にしなくなった。毎年、誕生日や年明けは家族や仲間達で祝ったものだが祝ってくれる人がいなくなれば意味がなくなる。
だからリュウイチは自分の年を正確に覚えていない。誕生日も忘れた。だが、両親の命日だけは忘れたことは一度もない。
昔領域があった場所、そこのギリギリ範囲内には両親、仲間達の名前を刻んだ墓代わりの石板があった。
そこに毎年、命日に日付が変わるまでずっと座り込んでいた。
何年目だとかはとっくに忘れたが、日にちだけは間違えなかった。
本を読み始めたのも両親の勧めだ。そのお陰で部屋が本まみれになったのはしかたがないことだろう。
二人がそこにいた。その痕跡はもうほとんど残っていない。
人々から存在すら忘れられ、歴史は大きく改竄されている。本当の歴史を知るものはもう片手で数えるほどもいないだろう。
リュウイチと、レヴェル。もう流石にコカゲは亡くなっているだろうから除外するとして、後はラグナロク本人くらいだろう。
「……そうか」
それに思い当たったリュウイチが数秒黙り、ほんの少しだけ笑みを見せた。
「最初から、やることは決まってたじゃないか……!」
アロクがやって来た。相変わらず表情は微笑を崩さない。
リュウイチは予め考えてあった言葉を口にする。
「俺達が初めて会った日のこと、覚えてる?」
予想外の質問だったらしく、一瞬言葉につまったアロクだったが直ぐに気を取り直す。
「ええ。勿論です。忘れたことなど一度もありません」
「……そうか。あの時は確か、屋敷の庭に迷いこんできたんだよね」
リュウイチがまだ領域に縛られていなかったとき。流石に下界に行くことは禁じられていたが、同伴者がいる場合はラグーン内ならある程度の自由はあった。
「はい。あなた様に助けていただけなかったら、確実に死んでおりました」
「こっそり君を助けてから、色んなことをやったよね。今思えば、皆知ってたけど見てない振りをしてくれていたかな」
リュウイチが小さな蛇を助けたことは多分皆知っていた。遊んでいることも知っていただろう。だが大人達はいつも見なかった振りをしてくれていたのだ。
「地下道を探検したり、本を読んだり……こっそり屋根裏部屋に入って怒られたこともあったね」
「……はい」
「君が下界を滅ぼそうって言ったのは、いつからだったかな」
アロクの笑みが固まった。
見てわかるほどに引きつっている。
「ごめん。俺、知ってるんだ。聞いちゃったんだよね?」
「なに、を」
もう、アロクは笑みなど浮かべてはいなかった。
リュウイチは、初めてアロクの想定を策で上回ったかもしれないと内心で小さく笑う。
「俺を殺すって話」
わざと明るく話しはするが、リュウイチもこれを知ったときは相当ショックだった。
だが、リュウイチがこれを知ったのはアロクよりも後だったりする。たまたま手伝いに来ている人の会話を盗み聞いてしまったのだ。
「俺は弱いよ。君の言った通りだ。そのくせに力だけは強烈なものだから制御できなくなる前に廃棄される予定だった。君が暴れてくれなかったら、きっと実行されていただろうね」
触れるだけで物を崩壊させられる力というのは危険極まりない。生き物を壊したことはなくとも、いずれそれが出来るだろうというのは誰でも予想がついた。
年々、時間が経つにつれて高まっていく壊すことに特化しすぎた力は生かされずに捨てられるはずだった。
「私は、その」
「世界全部を敵に回したラグナロクと俺の知ってる迷い蛇のアロク。それが同じなら、俺は君をよく知っている。散々非難しといてなんだけど、君が俺の代わりに憎まれ役を買って出てくれたのは嫌でもわかるよ」
首を竦めて寂しそうに笑うリュウイチに、アロクは何も言えなかった。
「でも、俺は君のやり方を正しいとは思えない。それは今も昔もそうだ。気づいていたけど、理解しようとしていなかった」
親を気取っていたのは俺だ、と小さく呟く。
「君が俺に失望してくれれば、こんなことやめてくれるんじゃないかって、勝手に考えてた」
リュウイチはそんな単純なことじゃなかったなと苦笑いする。
「でも、俺は君が好きだから。嫌われたくないって思っちゃった。考え方が百八十度違ってても、価値観が違ってても。どこまでも俺の味方になってくれるのはアロクだけだ。でも俺は自分が一番大事だったみたいだ」
リュウイチの頬に涙が一筋、流れ落ちる。どこまでも悲しそうな笑みを浮かべ、手枷を引きちぎった。
突然のことにアロクですら反応できていない。そもそもそんな力があったことがあり得ないのだ。
「アロク」
自分の喉に、手をそっとかける。
「ありがとう」
もうこれ以外の方法はないとばかりに手に力を込める。腕力の方ではなく、対象を崩壊、消滅させられる力を。