「ただの寝不足ですので」
蒸し器の蒸気が上に上がっていくのをただぼんやり見ながら今日何度目か判らないため息をはく。
「なんであんな急に逃げるようになったんだろう……」
【聞かないのですか?】
「なんかこう……卑怯かなって」
耳が良いを通り越してなんでも聞こえてしまうリシャットである。普段はある程度制御して他人の心の内を覗かないようにしているのだが。
『思春期特有の症状の一つですね』
「思春期は病気か何かか」
実際にその通りなのであまり強くは言い返せない。痛む頭をグリグリと押しながら大きな溜め息。
「俺なんかしたかなぁ」
『逆にここ数日離れていたのに、ですか』
「それもそうだけど」
蒸し器の蓋をとると甘い薫りの蒸気が室内を埋め尽くしていく。
リシャットは小さな蒸しパンを小皿に移してとりあえず冷ましておく。洗いものを済ませながら熱気の籠るキッチンの窓を開け放つ。
白い色にうっすらと染まった空気が追いやられるように外の空気と交わり、消えていった。
「今日こそは逃がしません」
「ヤダッ」
「あんまりにも抵抗するのなら…………こうします」
「へっ⁉ ぴゃぁあああああっ⁉」
恐ろしい早さで接近したリシャットが美織の首筋に氷をポトリと落とした。地味に嫌な悪戯である。
「冷たいっ! と、取れないし⁉」
「ふふふ、私の魔法がかかった氷がそう簡単に溶けたりするわけないじゃないですか」
「鬼っ!」
「鬼族は温厚な種族ですよ? 力が強いので乱暴者に見られがちですが、気さくな人が多いです」
「本当の鬼の話なんてしてないよっ」
リシャットには実は鬼族、鬼の友人がいる。以前フラッと立ち寄った冒険者ギルドであまりにも安すぎるのに危険度の高い依頼を申し出ていたので面白半分で受けたのである。
ついでとばかりにギルド職員のアシルに他の溜まっている依頼も格安で押し付けられたのだが。
内容は、鬼族の村周辺に蔓延っていた草木の伐採である。リシャットにとってはそんなレベルのものだった。
勿論、そんな筈はない。
その植物全てが魔力によって変質、何故か食人植物の宝庫となっていたのだ。ちなみに、ハクアがこれを受けたとき「薬……」と呟いていたのは秘密である。
単にポーションの材料が少し足りなかったので補充したかっただけで、事態を軽く見ていた訳ではないと信じたい。
刀でザクザクと刈り取り、単に採集してるだけの気分でいたのだが鬼族にはいたく感謝され、居心地が悪くなり、報酬も放って早々に逃げ出した。
「さて、早く席にお着きください」
「なんで勉強しなきゃいけないのよ! こんなのいつ使うの⁉」
「それに関しては同感です。国語とか英語ならともかく、歴史なんて使いませんよね」
リシャット自身、頭がよくて勉強などしなくとも簡単に100点がとれるのだが、なんでこんなことしなきゃいけないんだろうとは昔から思っている。
「確かに無意味でしょうね。私もそう思います」
「じゃあなんでやらせるの」
「道楽とでも考えればいいのでは?」
「全然楽しくないもん」
勉強が楽しいと思える人もどこかにはいるのだろうが、リシャットも嫌いである。出来ることと好きなことは必ずしも一致しないのだ。
「私に言われましても。人間なんて無駄なことしかやってないんですよ。無駄が楽しいからです。ゲームだってスポーツだってこうやって話していることだって全部無駄。そんなことにしか楽しみを見いだせないのは自分達の考え方そのもの」
「よくわかんない」
「はい。深く考えなくてもいいです。ただ、今は勉強のお時間です。誰だって暇になれば勉強でもなんでもやると思いますよ」
忙しい、それに楽しさを見いだす人も、ゆったりとなにもしないことに楽しさを見いだす人もいる。
もしそれをコントロールできるなら、人は誰だって嫌なことをやったりしない。それが楽しいのだと、リシャットはそう言うのだ。
「つまらないことでもいつかは楽しくなりますよ。はい。教科書57ページ」
「やっぱり鬼だ…………」
氷を目の前に用意されては従うしかない。なげやりにも思えるリシャットの言葉に口を尖らせてノートと教科書を開くのだった。
仕事を粗方終わらせて学校へ向かう。普通に学校の始まる時間に間に合いそうだ。
背が伸び、改札のところでいちいちジャンプしなくても届くようになったことは嬉しいことである。そのお陰で駅員には顔を覚えられているが。
改札を通るときにたまに言われるのだ。「大きくなったねー」と。なんと反応したらいいのかわからず、とりあえず愛想笑いをするリシャットもリシャットなのだが。
静かに歩きながら周囲の音に集中する。
雑踏の中に溢れる大量の声や電子音。それら一つ一つがハッキリと形になってリシャットの耳に届く。
だが、リシャットは更に感覚を研ぎ澄ましていく。足音や車のエンジン音、地下鉄の電車の音すらその耳に入り始める。
「ぅ………!」
そこまで聞こえるようになった瞬間、激しい痛みが頭のなかを駆け巡る。鼻から垂れてきた血をティッシュで拭って音を聞くのを止めた。
「はぁ、はぁ、はぁ…………やっぱりか」
荒く息を吐きながらふらつく視界を無理矢理に固定して歩を進めた。頭の端でシアンがずっと話しかけてきていたのも反応しなかった。
リシャットは教室に入り、授業の用意を鞄から出して机のなかにしまう。酷く重い頭をなんとか起こしながらチャイムがなるのを待った。
「えっと、大丈夫?」
「何が………ですか?」
「風邪?」
「いいえ。風邪ではないので移す心配はないです」
心配して声をかけてきた結衣に微妙に的外れな回答を返してリシャットが目を擦る。
「ただの寝不足ですので」
どう見ても寝不足では済まない具合の悪さなのだが、本人が違うと言い張るので追求のしようがない。
「なら、いいんだけど………」
そう、言うしかなかった。
そして実技の時間になった。いよいよ気弾の扱いに入るのだ。
「皆それなりの大きさの気弾が出せるようになったから打ち出す練習しよか。そんじゃこれ見てな」
気弾の撃ち方を懇切丁寧に教える伊東。今までも小さい気弾を飛ばしてはいたのだが、拳大の大きさのものは初めてで、皆緊張した面持ちである。
リシャットはそんな周囲の様子を観察しながら結衣に極力気を配っていた。
「じゃ、やってみよかー。絶対に人には向けたらあかんで」
「「「はーい」」」
もう既にリシャットに向けている子供もいるのでその言葉の重みがどうしても軽くなってしまうように感じる。
皆各々が気弾を大きくするのに手間取っていたのだが、それを一瞬で終わらせてしまった人がいた。
「出来たっ!」
言うまでもなく、結衣である。リシャットが気力を吸う量を減らしたのでその結果大きくなったのだが、加減するにも力がいる。
はしゃいでピョンピョンその回りを跳び回っている結衣の後ろではゼェゼェと荒い息を吐くリシャットが必死にコントロールをしていた。
なんとなく、哀れだ。




