「海よ!」
「リシャット! 朝よ!」
「ええ、朝ですね」
「海よ!」
「………え?」
朝食を作りながら適当に話しかけてくる美織を相手していたら突然そう言われた。
「海、ですか?」
「今日行くって聞いてない?」
「聞いてません」
逆になんでそんな話になった? と首をかしげるリシャット。
「パパが言ってたのよ」
「いつです?」
「昨日」
「急ですね」
美織がただ行きたいといっているだけでは無いのか? と思いつつフライパンの上のものをクルリとひっくり返す。
「ホットケーキ!」
「ええ、そうですよ。あ、お顔は洗ってきましたか?」
「洗ってない‼」
「じゃあ洗ってきてください」
「えー」
「これお嬢様の分ミュルにあげますよ」
「洗ってきまーす」
自分が食べちゃいますよ、とは言わない。確実に食べきれないからだ。
その後、朝食の席で始めて大地から海水浴に行く事を告げられる。
「急ですね。旦那様のお仕事は?」
「有給をとったんだ」
「社長が有給ってそれで良いんですか?」
「いいんじゃない?」
「そうですか」
よくわからないが良いらしい。
「何故今までそれを黙っていらっしゃったんですか?」
「何故って……驚かせたかったから?」
「そうですか………」
「驚いた?」
「ええ、ある意味で」
「どういう意味⁉」
こうして海に行くことになった。
「海だー!」
「お嬢様。その靴では転びますよ」
はしゃぐ美織の後ろを大量の荷物を片手で抱えたリシャットがついていく。右肩にはミュルが乗っていて初めて見る海に目を輝かせている。
「り、リシャット………もっと、ゆっくり頼む」
【貧弱ですねー。リシャットさんはその二倍は持ってますよ? 片手で】
「リシャットと一緒にするでない!」
ニヤニヤと笑うライレンに悔しそうな顔をして怒る欄丸。その両手にはこれまた沢山の荷物が抱えられていた。
リシャットのものより多い気がするが、リシャットの方が重いものを運んでいるので実際は欄丸の方が軽い。
「美織、はしゃぎすぎるなよー」
「旦那様もお気をつけくださいね」
美織ばかり見て足元がお留守になっている大地に忠告するリシャット。その声が聞こえているのかいないのか不明だが大地は嬉しそうにカメラを回しながら美織を追いかけていく。
完全に親バカである。
「欄丸。ここに荷物を置いてくれ」
「ああ、わかった………。重い」
「我慢しろ」
小さく笑いながらパラソル等を手際よく立てていくリシャット。
「相変わらず凄い手際が良いね」
「いえ。色々やっているうちに慣れたと言いますか」
「そんなことより泳がないのかい?」
「……………」
リシャットが黙った。
「もしかして………泳げなかったりする?」
「あ、それはないです」
「あ、そうなんだ」
別にそういうわけではない。
「あの」
「どうした?」
「水着がないんです………」
「え」
口を少し開けたまま固まってしまった。
「水着が……ない?」
「はい。必要性を感じていなかったので今まで購入したことがありませんでした」
「えええええ」
なんで言ってくれなかったの、とでも言いたげな顔になる。
「でも、私は別に泳がなくても良いですから。旦那様はお嬢様のお近くへ行ってさしあげてください」
「え、でも」
「どちらにせよ私は行けませんし、今のうちに行っておかないと………」
リシャットは大地に耳打ちをする。その瞬間、大地がぎょっとしたような表情になって直ぐに美織のところへ走っていった。
「………何を言ったんだ?」
「ん? ………お嬢様が反抗期に入ったらもう二度と一緒に海水浴できないかもしれませんよって」
『悪魔の囁きですね』
【我々の言葉よりよっぽど力のありそうな言葉ですね】
現役悪魔が絶賛するほどの威力がこもった一撃に抵抗できなかった大地である。
「そんなことよりお前は良いのか? 初めての海だろ?」
「そうなんだが………湖となにが違う?」
「あー………確かにヨシフさん達と住んでたところにあったな、湖」
それが少し大きいだけではないか、という欄丸。
「じゃあ入ってみたらどうだ」
「海にか?」
「ああ。お前の考えているようなものとは違うぞ、海は」
「なんでだ」
「海水を舐めてみれば分かる」
「?」
そう言われて欄丸が海の方に歩いていった。リシャットの言葉に興味を覚えたのかミュルも一緒に歩いていく。
一人と一匹………本来は二匹が同時に海の水を舐めたと思ったら、物凄い勢いで走って帰ってきた。
「どうだった」
「辛いぞ⁉ 塩辛い⁉」
「み゛ー‼」
予想以上のその反応にクスクスと笑いながら水をミュル専用の飲み皿に入れ、欄丸にペットボトルの方を差し出すと二人揃って飲み始めた。
「予想以上に引っ掛かってくれたようで嬉しいよ」
「なんなんだ、あれは」
「みー」
「海の水は塩が溶けているからな」
「?」
「あー………ちょっと海の水これだけ汲んでこい」
小さな小皿のようなものを渡して水を汲みにいかせる。
「持ってきたぞ」
「ありがと。ちゃんとみてろよ」
水を手のひらの上に乗せ、グッと踏ん張る動作をする。すると手の中には水はなく、白い結晶が残っていた。
「おお‼」
「今、水分を蒸発させた。これ舐めてみろ」
「塩だ」
「そう。水の中には塩があって、水が蒸発すればこうやってでてくる。………前にも説明しただろ?」
「む? 覚えていないな」
「…………はぁ」
流石は元狼。記憶力はそれほど良いとは言えない。
「そこのおにいさーん、ちょっといいですか?」
欄丸が日向ぼっこしていると女性たちに囲まれた。しかし、欄丸。最近大分分かるようになってきたとはいえ、完璧には理解できない。
そして、普段から屋敷外に出るときはリシャットが基本横にいたので人と殆どふれあっていない。
この状況がなんなのか、それすら理解できていないのだ。
それを少し遠くからみていたリシャットは、笑いを堪えるのに必死だった。
「くくく………逆ナンされてる」
隣に居るライレンなど、爆笑している。
「あ、え………」
「赤くなっちゃって可愛いー」
「ねぇ、私たち凄い暇なんだけど、もしよかったら一緒に飲まない?」
欄丸、言葉がわからないなりになんとか理解しようとしているのだがあまりに周囲が早口なので理解の時間すらない。
助けを求めるようにリシャットに視線を送るがリシャットは小さく微笑んで美織達を見つめていた。
端からみれば美織達の微笑ましい姿をみて癒されているようだが実は違う。
正確には、微笑んでいるのではなく爆笑一歩手前なのだ。普段から表情が殆ど変わらないリシャットだが、見慣れているものからすれば寧ろ分かりやすい。
しかもその隣にいるライレンなど笑いを抑えようともせずに大声をあげながら爆笑している。
「……………」
流石に可哀想かと思ったリシャットが欄丸に近づく。
「モテモテだなぁー?」
「この状況をみてそう言うのか、貴様は!」
「いやー、笑いを堪えるので精一杯だ」
小さく笑いながらそう言うリシャット。周囲には女性が居るが意味不明の言葉で話し始めた二人にタジタジの様子だ。
実はこれがリシャットの狙いだったりする。
「っていうかお前も何やってるんだよ」
「我は日が照っているところで暖まりたかっただけだ」
「まぁ……お前まだ子供だもんな」
「子供ではない‼ もう大人だ‼」
「そうでもないと思うけど」
リシャットがどこからどうみても日本人には見えないのも幸いして女性達は連れだってその場から去っていく。
「? 何故帰っていく?」
「そりゃ俺がここにいたら子供かもって思うかもしれないし、それがなくとも意味不明の言葉で話し続けているのみたらあんまり近寄りたくないだろ」
「何故?」
「そういうもんなんだよ」
欄丸が首をかしげているがリシャットはそれを無視して再び荷物のところへ戻る。勿論欄丸もそれについていく。
「さて、そろそろ昼時か………」
カチャカチャと持ってきたものを広げ始めるリシャット。
「それが噂に聞くばーべきゅーとやらか」
「なんかその言い方爺臭い………まぁいいや。倉庫に眠ってたんだよ。猫達が引っ張り出してきてな」
ミュル達が見付けたバーベキューコンロ。買った大地でさえ忘れていたものである。
「その箱の中に材料入ってるから………ん? ミュルどこ行った?」
いつの間にかミュルが消えていた。
「ミュルー。あれ、反応がない」
「あそこではないか?」
「ああ、居たな………。楽しそうだし放っておくか」
ミュル、いつの間にか美織の浮輪の上に乗って遊んでいた。なんだかんだ言って一番楽しんでいるのはミュルかもしれない。




