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水穂から得た情報は、彼女が角田から軽いものとはいえ性的虐待を受けていて、彼女がそれについて悩んでいたということ。そしてそのことについて水穂が何らかの噂に頼ろうとしたこと。
その噂とは一体何なのか。
『こどもを傷付ける大人を排除してくれる』
その噂については捜査会議でも報告をした。すると、他の班からも似たような報告が挙がった。それは藤立の班からで、彼らの班は一番新しく起きた事件を担当している。会社員が殺害されたものだ。
その情報は被害者の息子からのものだった。被害者である法川 洋司の息子は父親である法川からの虐待とその噂のことを口にしたということだった。
「噂について、詳しい話を聞きましたか?」
捜査会議が解散した後、千里は藤立とニノ瀬に質問した。
「母親に止められちゃって突っ込んでは訊けなかったんだよね」
藤立がコーヒーの入った紙コップから口を離して答えた。紙コップからは湯気が螺旋状に立ち昇っていて、よくこんな暑い日にホットコーヒーなど飲めるものだと感心してしまう。本日も猛暑日だと今朝の天気予報で告げていた。
「母親は虐待の事実は?」
國原が質問をする。それにニノ瀬が首を横に振った。そのときに目を閉じる仕草は艶気がある。
「知らなかった、と一言だけ」
「同じ家にいて、そんなことって有り得るのでしょうか」
千里は少しだけ眉根を寄せた。逆ならば有り得るかもしれない。虐待をしているのが母親であるならば、それが父親の不在時に行われていれば気付かなかったといこともあるだろう。しかし今回のケースはそれではない。
通常の家庭で考えてみれば父親の在宅時、母親も家にいるはずだ。そんななかで虐待が行われていれば気付かないはずはないだろう。それとも虐待は日常的なものではなかったのだろうか。
例えば、父親が休日に息子を連れ出し、そこで虐待を行う。だとしたら気付かないということもあるだろう。千里はそう思い、その事件の資料を見直した。息子の年齢は十歳だ。だとすればこどもの態度や性格の変化などがあるはずではないか。
「虐待の内容はどういったものだったんですか」
千里は資料から視線を上げてニノ瀬に質問をした。
「身体的なものだったみたいね。少しだけ体を見せてもらったんだけど、軽いものが多かったみたいでこれといった傷跡はなかったけど。つねったり、頭を叩いたり、蹴飛ばしたり。そういったものだったみたい」
躾だと言われてしまえば他人が口を出せない程度ではある。それでもこどもの立場からしてみたら十分に辛いものだろう。母親としてはそれが虐待に当たるという認識に欠けていたのだろうか。いや、それであればそういった受け答えをするはずだ。しかし母親は知らなかったと答えた。
これは本当に知らなかったと言葉通りに捉えるべきではないだろう。恐らく、見て見ぬ振り。だからこそ、こどもは誰にも助けを求めることが出来なかった。
千里はそこまで考えてから考えを中断した。この事件は千里の担当ではない。藤立やニノ瀬が追うべきものだし、家庭内のことは犯人には繋がらないだろう。話を聞くべきは母親ではなく息子。はっきりさせるべきなのは母親が虐待を黙認していたかではなく、息子が口にした噂の件。
「他の班も似たようなネタを掴み始めてるみたいだねえ」
藤立は言ってからコーヒーを一口啜った。ず、という音が会議室に響く。会議室の中はかなり人数が減っている。犯人が警察を煽っているような状況。このことはまだマスコミには発表していない。しかしその挑発に警察が躍起になるのは当然だった。
「似たようなネタ?」
國原は藤立と違い、アイスコーヒーを飲んでいる。
「被害者によって危害を加えられた児童がいるらしい」
藤立は溜息混じりに告げた。
「こどもを傷付ける大人を排除する……」
千里の口から自然にその言葉が漏れた。そのままではないか。
「正義の味方ってことかね」
──正義。誰にも邪魔させない。
藤立の呟きに犯人から残されたメッセージを思い出す。真っ白のメモに残された一文。それが犯人の言いたいことなのだ。
人を殺すことを正義という。
千里はその意味を噛み締めてみた。そして、それを否定できない自分がいることに気付いたのだ。それでもそれは許されることではない。道徳や法律の問題ではあるが、決して許されることではない。
──形を作って否定しているだけだ。
千里は自分の固まった考えを己で認めた。そうしないと過去の自分を責めてしまいそうだった。確実に救われる方法を選ばなかった自分を。
それを否定したくなかった。間違っていなかった。あれでよかったのだ。だから今、自分はここに立っているのだと言い聞かせたい。
「大丈夫?」
ニノ瀬の声に我に返る。途端に眩しい中に放り出されたような気分になる。
「あ、大丈夫です。色々考えていまいた」
千里は咄嗟に嘘を吐いた。そんなことは日常茶飯事だ。本音や本心を口にすることは少ないかもしれない。
「じゃあ、各々やるべきことをやりに行きますか」
藤立がコーヒーを飲み干し、紙コップを握り潰した。ぐしゃり、と柔く紙は縮まる。それは普段上品な仕草が多い藤立にしては珍しい行為だった。それだけ彼の中に怒りがあるということだろう。
「解散だな」
國原の一言で二人一組になり会議室を後にした。
夏休みの小学校はひどく静かだ。今日はプールやクラブ活動もないようで生徒の数は極端に少ない。いるのは図書室に本を借りたり返しに来ている児童だけのようだ。職員室に続く廊下には誰もいない。教師達も職員室に篭って雑用をこなしているのだろう。
そこは千里の知っている小学校とは別物のようだ。事件当夜に訪れた小学校にも同じような感想を抱いたが、そのときとはまた少し違う。
千里と國原が目指している保健室は一階の奥にある。職員室の前を通ったときだけ、中から教師達の声が微かに聞こえた。今は夏休みという長期休暇中。けれどあんな事件が起きたばかりでは通常通りとはいかないだろう。マスコミや父兄への対応は引き続いているはずだ。
千里はそれに同情しながら職員室の前を通り過ぎた。
保健室の前に立つと、中には誰もいないのではないかと思うほどに静かだった。しかし中にはゆかりがいるはずだ。千里は小さく深呼吸をしてから扉を二回、ノックした。
「ご勝手にどうぞ」
ゆかりに事前に連絡は入れていないが、来訪者が千里達であるのがわかっているかのような返事だった。千里と國原は失礼します、と同時に言ってから扉を開けた。中ではゆかりがデスクに向かって何やら作業をしていた。
「今日は何を聞きに来たのかしら」
ゆかりは作業の手を止め、千里達に顔だけを向けた。今日は白衣を着ていない。
「鈴原 水穂が角田から受けていた被害についてだ」
ゆかりは國原の言葉に微かに反応したように見えた。それは本当に僅かな変化で凝視していなければ見逃していただろう。今日此処を訪れる前、國原から課された使命はそれだったのだ。ゆかりの一挙一動を見逃がすなというもの。
ゆかりは極僅かに動きを止めただけだったが千里はそれを確りと見ていた。
「ええ、存じていました。鈴原さんから相談を受けていましたし」
もっと隠すかと思っていたが、意外にもゆかりはあっさりとその事実を認めた。これはさして重要なことではないということか。それとも水穂が話してしまった以上、隠すことに意味はないと判断したのか。
「何故早い段階で教えてくれなかったのですか」
國原が苛立ちを隠す様子もなく詰問した。ゆかりがこのことを早い段階で伝えてくれていればもう少し事件の進展はあったかもしれない。いや、そこまで重大なことではないかもしれないが、水穂への聴取の回数は確実に減っただろう。ゆかりが水穂のことを思うなら、千里達に伝えるべきことだったと思われる。
「鈴原さんが隠したがっていましたのでその意思を汲んだまでです」
ゆかりがさらりと言ってのける。それは正しいのかもしれない。水穂からしたら他人に打ち明けるのはさぞかし苦痛だっただろう。
──立場の違いだ。
ゆかりは養護教諭。正直犯人の逮捕などよりも、生徒の心を第一に考えるのだろう。そして千里達は刑事だ。水穂の心よりも犯人の逮捕が優先されるべきことだ。そこの違いがあるからこそ、ゆかりから情報を引き出すのは難しいのだ。
「角田先生のセクハラが酷くなるようでしたら、私がどうにかするつもりでいました。幸いと言いますか、触れる程度で済んでいましたし、酷くなる前にあんなことになってしまいましたね」
あんなこと。即ち、角田が殺害されたということだ。
「その他に何か隠していることは?」
國原の口調は普段聴取をしているものとは違っていた。國原としても焦っているのだろう。ここまで事件は殆ど進展していないと言っていいだろう。漸く、被害者達の殺害された理由がわかりかけてきたところなのだ。それがわかったとして、犯人に一歩も近付いてはいないのだ。
「ありません」
きっぱりと言い切りはしたがまだ何かを隠しているのは明白だった。それはゆかり自身わざとこちらに気付かせているように思える。これは最初からそうだ。だとしたらゆかりが隠していることは角田の卑劣な行為よりも重要なことになる。
気付かせようとしているわりに頑なにそれを明かそうとしない。ゆかりの真意は未だに不明なままだ。
「鈴原 水穂がとある噂について口にしていたが、それについては?」
「存じ上げません」
ゆかりは國原から目線を逸らさずにいる。毅然とした態度のまま嘘を吐く。ゆかりがひた隠しにすることとは一体何なのか。
「本当に?」
國原が少しだけ距離を詰める。それでもゆかりが動じる様子はない。千里は此処を訪れてからまだ一言も喋っていない。口を挟める空気ではないからだ。
「ええ、本当です」
明らかな嘘は消化されずにその場に漂っている。千里と國原はゆかりの嘘を呑み込めず、ゆかりもそれに気付きながらも弁解も補足もしない。
「まだ他に何か?」
ゆかりは忙しいとでも言うようにデスクに顔を向ける。長い髪はきっちりと纏められていて、すらっとした項が視界に飛び込んできた。後れ毛のない、綺麗な項だ。
「ここにはスクールカウンセラーが常駐していないそうだが、生徒の相談事はあんたが聞いているのか」
國原はゆかりの名を呼ばなかった。呼ぶ必要もないと判断したのだろう。ゆかりがそれに再度こちらに顔を向けた。
「常駐はしていませんが、決まった曜日には来ます。確かに私に相談して来る児童もいますが、担任に相談する子も多いですよ。ここに来るのは、教室に居場所を見付けられない児童が殆どです」
千里にも身に覚えがあった。虐められているわけではない。しかし、教室居に場所がないのだ。千里の場合は原因と呼べるものがあったが、勿論明確な理由や原因などない子もいるだろう。集団生活が苦手。上手く馴染めない。大勢の中で発言するのが得意ではない。様々な要因を抱えて、そういった子達は保健室という場所に登校をするのだ。
千里も短い期間ではあったが保健室登校をしていた時期があった。
──好奇の視線が怖かったのだ。
「鈴原 水穂もそうだったと?」
國原が質問する。水穂がゆかりに角田についての相談をしていたということは、即ち彼女はここを訪れることが多かったということだろう。
「彼女の場合、悩みの原因が担任である角田先生でしたので、自動的に私のところへ相談に来ました」
水穂は母親には相談しなかったのだろうか。母親にもそのことについて訊こうとしたのだが、門前払いを食らってしまい訊けなかったのだ。
「鈴原さんは親御さんには相談をしなかったのでしょうか」
千里はその疑問をゆかりに向けてみた。
「……デリケートな問題ですからね。学校での問題を親に打ち明けられないというのはよくあることです。児童は親に心配をかけたくないと思っていたり、児童によっては学校と家庭を切り離して考えていたりする子もいます。虐めなんかを打ち明けない事例も沢山ありますよ」
それで自殺をしてしまうこどもも昨今増えているのも事実だ。
「今日はこの辺りで帰ります。また、伺います」
國原が低い声で言い、軽くだけ頭を下げた。千里もそれに倣い、ゆかりに向かって頭を下げた。
一人でも多くのこどもを救いたい。一人でも多く。理不尽に苦しめられる必要なんてないのだ。理不尽に悲しみを浴びる必要などない。誰にもそんなことをしていい権利などないのだ。大人がこどもを傷付けていい理由などこの世には存在しない。あっていいはずがない。何人たりとも、そんな権利など持っていないのだから。
死して償うしかないのだ。それ以外にこどもが救われる方法などありはしない。それでしか傷を拭うことは出来ないのだ。
存在を消去することでしかその傷は癒えないのだから。
これを罪だと呼ぶのだろうか。
救いの手を差し伸べることが罪に値するというのだろう。
確かに神様と呼べるほどに崇高なものではない。この手は赤に塗れ、この心は闇に染まっているのだから。
それでも「神様」と呼んでくる子もいる。
でも、神様なんかではない。
さあ、今日も理不尽に虐げられるこどもを助けに行こう。
定期的に訪れる非番を煩わしく感じるようになってきていた。
千里は公園のベンチで深い溜め息を吐いた。夏は盛りを迎え、毎日茹だるような暑さが続いている。なんでも猛暑日の連続記録が更新されたらしい。
昨年は冷夏で暑い時期が極端に短かった。人間というのは不思議な生き物で、どうにも比較的楽だったものと較べてしまう。よくよく思い出してみれば、一昨年は十月まで暑い日が続いていたというのにそんなことはすっかり忘れて、今年は異様に暑い、と文句が口をついて出る。
「はあ、暑い」
額から顎にかけて流れる汗を拭いもせずに千里は呟いた。暑い暑いと幾ら言ったところで暑さが和らぐはずもないことは知っている。それでもその言葉は自然と口から洩れるのだ。
「確かに今年は暑いですよね」
不意に背後からかかる声に千里は一瞬肩を震わせた。早朝の公園は人気がなく、少しばかり不気味だったので突然の出来事に体がひとりでに反応してしまったのだ。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
声の主は静かに千里の正面へと回ってきてそう謝った。
「祈咲君」
千里に声を掛けてきたのは祈咲だった。暑い、と言いながらも祈咲は今日も全身をきっちりと包んでいた。首にはトレードマークのようにストールを巻き、ぴっちりと長袖長ズボン。服の色合いが鮮やかなだけまだましではあるが、暑苦しい印象を消すには至らない。
「ううん、ぼんやりしてたから驚いただけよ」
千里は首を緩く振った。昇りきっていない朝陽が眩しく、祈咲を見上げる瞳を少しだけ細めた。薄目で見る祈咲の姿はいつもと違って見える。輪郭がぼやけ、捉え損ねる感じだ。
「今日はお休みですか?」
祈咲に問われ、頷く。
「祈咲君は?」
「僕は今日、午後からなんです。静馬さんに来客があるようで、午前中は事務所はお休みです」
自営業──探偵職がそう表すのかは不明だが──らしいことだ。今でこそ企業によってはフレックスタイムだなんだと導入しているが一般的ではない。ましてや公務員には関係のないことだ。基本が定時の仕事。半休でも取らない限り、仕事の都合で午後からなどということはない。
「そうなんだ」
「はい」
祈咲は断りを入れてから千里の横へと腰掛けてきた。小柄な体だと思っても、いざ隣に並ぶとそこには男女差がしっかりと存在する。
「お休みなのに早いんですね」
公園の中に小さな犬を連れた老女が入ってきた。普段からこの公園が散歩コースなのか、ポメラニアンらしい犬は真っ直ぐに進んでいく。辺りを見回したり、立ち止まったりはしない。老女もその光景を微笑ましい表情で見詰めながらリードを引いている。
「ちょっと早く目が覚めちゃったのよ」
千里は些細な嘘を吐いた。本当は早く目が覚めたわけではなく、眠れなかったのだ。昨日は早めにベッドに入ったにも関わらず、殆ど眠ることが出来なかった。目が冴えているのとはまた違い、何となくうとうととした状態がずっと続いていた。そうなると明け方には完全に目が覚めてしまうのだ。仕事のときはそれでもベッドに潜り込んで起床の時刻までやり過ごすのだが、休日はそれも落ち着かずに起きてしまう。
「寝苦しいですもんね」
祈咲は千里の嘘には気付かなかったようでそう返してきた。確かにここのところ熱帯夜が続いている。昼間は茹だる程に暑いというのに、夜になってもそれが和らぐことはない。その気象は体力を地味に奪っていく。そんななかで眠れないとなると、それは顕著になる。
実際、聞き込みの最中に歩いているのが辛くなるときすらある程だ。
「毎日暑くて困るよね」
千里が話を合わせると、祈咲はそれに微笑んで頷いた。
「それ、食事?」
千里は祈咲が手にしていたコンビニの袋を見て訊いた。千里と祈咲の間には白いビニール袋が置いてある。中身はペットボトルくらいしかわからない。
「朝ごはんです。天気がいいから外で食べようと思って」
祈咲は袋を持ち上げて見せる。かさりと音がし、袋が眼前に来る。それから中身をベンチの上に広げてくれた。水の入ったペットボトルにサンドイッチと固形栄養食だ。祈咲の年齢を考えると少ない量に思える。
この間繁華街で祈咲に会ったときも彼はそんなようなものを食べていた気がする。コンビニの上のアパートに住んでいるといっていたので恐らく独り暮らしなのだろう。男性の独り暮らし。どうしてもそういった食事が増えるのだろうか。
千里は刑事という仕事を始めてから、体が資本だと思い、自炊をするようにしている。朝も前の晩に炊飯器のタイマーをセットし米と卵焼き、そして味噌汁を必ず食べる。昼はどうしても買ったものや仕事の都合によって食べれないこともあるので、夜は肉や魚、野菜をバランスよく食べるようにしているのだ。
偏食なのか小食なのか。気になったところで訊くことは躊躇われた。そこまで親しい間柄ではないからだ。
「あ、食べていいわよ」
千里はコンビニの袋を指して言う。それに祈咲は失礼します、と断りを入れてサンドイッチの封を破った。ハムとマヨネーズのサンドイッチだ。祈咲は上品な動作でそれを口に運ぶ。育ちがいいのだろうか。大きくかぶりつくこともしないし、咀嚼の仕方もゆっくりと静かだ。
「千里さんは朝ごはんは?」
朝食ではなく朝ごはんと称するところが可愛いと思った。
「食べてきたわ」
今朝もきちんと炊きたての白飯と卵焼き、味噌汁といういつもと同じものを胃に詰めてきた。習慣というのは恐ろしく、どんなに眠くても、どんなに疲れていても同じものを口にしないとどこか落ち着かなくなる。例外なのは呑み過ぎた翌日くらいだ。
「自炊しているんですか?」
「うん、そうね。料理も好きよ」
自炊をするようになってから料理をすることが好きになった。レパートリーが沢山あるわけではないが、作るという行為自体が好きだった。
「そうなんですね」
祈咲がにっこりと笑う。特に会話は弾まない。それもそうだろう。二人で何か話すことなどないのだ。
「事件、どうなってます?」
一瞬静かな空気が流れたところで祈咲が不意に口を開いた。
「え、ああ。そうね、特には、かしら」
幾ら静馬が警察庁公認の探偵とはいえ、祈咲は違う。あの事務所で助手をしている時点で同様に考えてもいいのだろうが自分だけの判断ではどうしようもない。
「大丈夫ですよ。静馬さん以外には漏らしませんから」
祈咲が千里の心中を察したように言ってきた。確かに祈咲はそういった青年だろう。それは僅かな付き合いでもわかる。
「……犯人の掌で踊らされてる感じ、かしら」
千里は捜査の状況というよりも自分の心境を語った気分だった。
「犯人の特定は?」
祈咲の問いに千里は首を緩く振った。それがわかれば事件は解決目前だろう。しかし現状、解決とは程遠い。程遠いどころか全く見えていない。こうしている間にも次の被害者が出るかもしれないのだ。
「難しいんですね」
祈咲の言葉に首を傾げる。難しいといのとは少し違う気がする。情報も少ないし、わからないことだらけだ。
殺人を正義という犯人。しかしその実態は見えてこないのだ。こども達からも上手く話しを聞きだすことは出来ず、どうやって犯人に救いを求めているかもわからないまま。どうやっていったら捜査を進展させられるかも不明なままだ。それは千里個人の問題ではなく、捜査本部全体の問題だった。
「このまま迷宮入りしたらどうしよう」
自分で言って、その表現が正しくないことに気付いた。この事件は犯人を逮捕出来ない限り終わらないだろう。犯人は自分の命が尽きるその日まで殺人を犯し続ける。漠然とだがそんなふうに思うのだ。
そもそも、この連続殺人事件の始まりすら明確ではないのだ。いつからこんな事件が始まっているのだろう。
「頑張って下さいね、というのはおかしいですよね」
祈咲はそう言って苦笑を浮かべた。弓形の眉が歪む。
「ううん、ありがとう」
千里はそう言ってくれる気持ちが嬉しくて礼を述べた。例え気休めだとしても嬉しい。
「大丈夫。貴女はきっと犯人に辿り着きますよ」
祈咲の言葉はひどく耳に響いた。どうしてもそれが気休めの言葉には思えなかったのだ。そして、何故祈咲はそんなことを言ったのだろう。彼は「警察は」ではなく「貴女は」と言ったのだ。
「え……?」
返す言葉が見付からず、千里はそう返した。
「自信を持って下さいね」
祈咲はそう言うと立ち上った。ふと視界が翳る。
「じゃあ、僕は行きますね」
「ええ、また」
千里が言うと、祈咲もまた、と言って笑った。公園の暑さはきたときよりも酷くなっている。陽が高くなってきたせいだろう。
千里は僅かな時間、太陽を見た。たった一瞬だったというのに眩暈に似たものが襲う。視界が真っ暗になり、脳がくらりとする。
目を閉じても瞼の裏が眩しい。小学校の理科の授業で太陽を直接見てはいけないと習った気がする。太陽を直接見ると目が焼けてしまうのだっただろうか。
眩し過ぎるものは直視出来ないのだ。