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ギルティメイズ  作者: 碓井旬嘉
第一章「汝、死して償え」
7/16

5

 夜の繁華街というのはネオンが目に痛い。疲労からくるものだろうか。千里は下瞼を軽く押さえた。しかしそんなことでは何も変わらない。

 週末ということもあり、繁華街はいつも以上の賑わいを見せていた。居酒屋の呼び込みに、キャバクラのキャッチ。若い集団は酔っている様子もないのに広がって大通りを占拠するように歩き、酔っ払った中年達は酒で気が大きくなっているのか、怒鳴るようにして歩いている。見慣れた光景だ。

 千里もこの中を友人達と楽しく歩くときもある。しかし今の気持ちはそのときとは全く違うものだった。

 水穂とゆかりの聴取から何の進展も得られないまま、小学校は夏休みへと突入した。夏休み初日、水穂の自宅を國原と共に訪ねたが、案の定というか予想通り水穂の母親に追い返されてしまった。

 そっとしておいて欲しい。

 水穂の母親は眉間に深い皺を刻んでそう言い放った。そしてこちらの返事を待たずに扉を閉めてしまったのだ。そうなると二度目の訪問を躊躇わざるを得ない。水穂から話を聞く機会は登校日だけだ。後は夏休みが明けるのを待つ他ない。

 千里は酒臭い道を項垂れながら歩いた。擦れ違う人々が体のあちこちにぶつかる。きちんと纏めていたはずの髪がそれらの衝撃で僅かに崩れている。 

 今朝の捜査会議で連続殺人の数が知らされた。まだマスコミにはこれらの事件が連続殺人だということすら発表していないが、捜査本部では今やそれ以外の見方はしていない。

 一連の事件だと思われるものは全部で十件。しかしこれは恐らく、というものであり、実際はもっと多い可能性がある。年数に至っては過去二年しか遡っていない。いつから、この犯人が動いているのかもわからないままということだ。

 だというのに、未だ犯人像すら絞れていない状態だ。はっきりいって警察の上層部は焦っている。それだけの事件が未解決であり、しかも少しも犯人に近付いていない。これらのことを一般市民に知られないようにと必死だ。

 問題はそんなところではない、と千里は考えていた。

 犯人を逮捕しない限りこの殺人は終わらない気がするのだ。いつまでも、どこまでも続く。──きっと犯人が死ぬその日まで。

 ならば、一人でも被害者を減らすべく努力をする必要がある。

 ──本当に?

 誰かが頭の中で囁いた。それは知らない声ではなかった。それは紛れもなく、自分の声。幼い自分の声だった。

 どうして、と千里は額を押さえた。自然と視線が下がり、地面を見詰める。無意識に足を止めいていたらしく、正面から人にぶつかられたが謝られることはなく、寧ろ舌打ちをされた。千里は大きく息を吐いて、目線を上げて足を前へと出した。

 その中で、鮮やかな白を見付けた。人混みに紛れることもなくその白はまるで浮遊するかのように動いている。それを自然に目で追った。それが祈咲であることがわかったからだ。体の向きが勝手に変わり、彼の方へと足を向けていた。

 祈咲はスティック状のお菓子を食べながらスマートフォンを見ている。それでも人にぶつかることなく、すいすいと人波を泳いでいる。小柄な為、集団に囲まれるようになると姿が見えなくなる。それでもその隙間から独特の白がちらちらと見えた。

 もう少し。

 千里は少しずつ祈咲へと近付いていく。祈咲の方はそれには全く気付いていないようだ。少しずつ距離が縮んでいく。それでも大勢の人に阻まれてしまい、思うように進むことは難しい。一瞬でも足を止めてしまえば見失ってしまいそうだ。

 届きもしないのに手を伸ばす。それでも、追い付けない。祈咲は気付かない。もがくかのように人混み掻き分け、焦るかのような気持ちで漸く祈咲の直ぐ近くへと辿り着いた。それは祈咲が徐に歩みを止めたからだった。

 祈咲は手にしていたスマートフォンに何かを打ち込んでいるようだ。親指がすいすいと動いている。その横顔は何故か祈咲ではないかのようで、千里は思わず声を失った。静かな横顔だ。

 一体何と呼び掛けようとしていたのだろうか。名前、それとも挨拶。声だけではない。言葉も失っていた。祈咲の顔はスマートフォンの明りに下から照らされている。元々白い肌は余計に白く見える。気付けば千里は祈咲の真横まできていた。それでもまだ言葉は何も思い付かない。

 ぴたり、と祈咲の親指の動きが止まった。千里の視線は祈咲の指に固定されていた為、視線を浴びていることに全く気付いていなかった。

「千里さん?」

 その声だけが聞こえた。周囲は賑やかなままで、笑い声や怒声が響いているのに、自分の名を呼ぶその声だけが耳に届いたのだ。静かな空間で、ぽつりと聞こえた呼び掛け。

「奇遇ですね」

 自然に視線を上げ、視界には祈咲の顔が飛び込んできた。漆黒の瞳がやけに大きく感じた。

「え、あ、うん」

 見掛けて追い掛けてきた、という言葉は喉の奥へと仕舞われた。きっともう上がってくることはないのだろう。

「お仕事帰りですか?」

「うん、そう」

「こんな時間までお疲れ様です」

「そんなことないわ」

「いいえ、大変ですよ」

「……ありがとう」

 短い会話だけが続いていく。いや、会話ではない。祈咲が言ってくれることに短い言葉を返しているだけだ。何を言っていいのかわからないのだ。それは当たり前だろう。見掛けたというだけで反射的に追い掛けてきてしまったが、千里と祈咲は親しいと言える間柄ではない。話すことなどあるはずもないのだ。

「祈咲君も仕事帰り?」

 千里が訊くと祈咲は首を緩く振った。口が笑った形を取っている。

「今日はお休みでした。僕、アルバイトなんで、週に三日しか出勤してないです」

 意外だった。静馬は彼をいたく気に入っている様子だったし、彼はあの場所によく似合っていた。そのせいか、ずっとあそこにいるような気がしてしまっていた。よくよく考えてみればそんなことは有り得ない。あの事務所は人が住めるような造りにはなっていないだろうし、そもそもあれは静馬の事務所であり、祈咲のものではない。アルバイトではなく正社員だったとしても、祈咲には帰るべき家があるはずなのだ。

 そうだ。それがひどく不思議な感じがするのだ。

 何となく、祈咲には帰る場所が存在しないような気がしていたのだ。自分でもおかしな話だとは思う。それではまるで彼がホームレスだと思っているようではないか。いや、それともまた違うのだが、上手く説明は出来ない。

 何故か彼が自宅という場所を確保しているように見えないのだ。しかし何を根拠にそんなことを感じるのか自分でもわからない。そんなことを考えていると自然と言葉は止まってしまった。

「お疲れですか?」

 祈咲が心配そうに訊いてきて、千里はそれで我に返った。

「あ、いいえ。祈咲君の家、どの辺なのかと思って」

 疲れていないわけではない。寧ろ疲れは事件の捜査に加われば常に首から背中にかけて纏わりついているかのように離れない。

「この辺りですよ。駅の向こう側です」

 祈咲が微笑んで答えた。柔らかな笑みは一瞬にして辺りの喧騒を消し去る。

「そういえば、以前公園でもお会いしましたし、もしかしてご近所なんですかね」

 確かに千里の借りているアパートも駅の向こう側だ。あちら側は今いる繁華街とは打って変わって住宅ばかりが並ぶ静かな雰囲気だ。そして住宅の中にはアパートが多く、学生やフリーターも多いのだ。

「かもしれない。駅から近いの?」

「近いですよ。公園の近くにあるコンビニ、わかりますか?」

 千里は言われてその辺りの地形を脳内に描いた。この間祈咲と会った公園から幾らも離れていないところにコンビニエンスストアがある。オープンしてまだ二年足らずのその店は外観が少し変わっている。それは上にアパートがあるからだ。

「ええ、わかるわ。結構行くの」

 そのコンビニエンスストアは千里がほぼ日常的に利用しているところだった。千里の住むアパートからも近いし、駅からアパートまでの道程にあるのだ。仕事の日も行くし、休日でも行く店だ。

「僕、そのアパートの上に住んでるんですよ」

「え、あそこなの?」

 そこは本当に千里が住んでいるアパートの近所だ。徒歩で三分もかからないだろう。まさかそんな近くに住んでいるとは思わなかった。

「嘘。私、そこから直ぐのアパートを借りているんだけど。近くにある、茶色の壁のアパートわかるかしら」

 それが千里の住んでいるアパートだ。どこのアパートを借りるか悩んだときに、部屋の造りの他にその外観で決めたのだ。遠目から見るとレンガ造りに見えるところが気に入っている。

「そうなんですか。じゃあ、今まで擦れ違っていたかもしれないですね」

 祈咲のその言葉に千里はそうね、と頷いてから間違いに気付いた。そんなわけはない。もし仮に知り合う前に祈咲と擦れ違っていたとしたら覚えているはずだ。祈咲の外見は一度目にすれば忘れることはないだろう。しかしそれを口に出すことはしなかった。

「今度会ったら挨拶しますね」

 祈咲がにっこりと笑う。笑顔の多い子だと思う。そしてその笑顔は天使のように美しい。きっと顔の造作が整っているせいだろう。個性的でなくとも、理想の造り。それが綻ぶと美しいものになるのだ。

「私も挨拶するわ」

 声を掛けずにはいられないのだろう。今夜のように。

 彼はただの知人だ。しかも仕事を通しての。個人的な付き合いは全くない。だというのにどうしてか彼には近寄ってしまう。そしてその理由は自分でもわからない。

 ──彼に関してはわからないことだらけだ。

 こういったことは初めてだった。千里はどうしても相手に対して一線を引いてしまう。けれど、祈咲に対しては違うのだ。一線を引くことを忘れてしまう。

「お仕事帰りに長くすみません」

 気付けば辺りは先程よりも騒がしくなってきている。週末の夜が深まってきたせいだろう。二人の周りを人々が避けて通っていくが中には邪魔そうに眉を顰めている者もいる。今二人がいる場所は繁華街の中の広い歩行者天国だ。こんなところで立ち話をしていればさぞかし邪魔だろう。

「ううん。こちらこそごめんなさい」

 千里は緩く首を横に振った。それに祈咲が軽く笑う。本当に常に微笑んでいるような子だ。

「このまま帰るわけではないの?」

 もし帰るのだとしたら同じ方向だ。しかしこれから何処かに向かうのであれば別だ。

「はい、少しだけ出掛けます」

 それに残念なようなほっとしたような気分になる。途中まで一緒に帰りたかったような、それともここで別れてよかったような。複雑な気分。

「そう。じゃあ、また。近いうちに事務所にお邪魔するかもしれないけど」

 苦笑いを浮かべて言うと、祈咲はほんの僅かに眉を下げた。事件の進展のなさを憐れんでいるかのような表情だ。千里としても一般市民である祈咲にそんな顔をされてしまうと申し訳ない気持ちになってしまう。祈咲としては警察の不甲斐無さを責めるつもりなど毛頭ないだろう。しかし千里としてはそう受け止めてしまうのだ。

「お待ちしてますね、という言葉は相応しくないですよね」

 祈咲はまだ軽い苦笑いを浮かべている。

「ううん。それでいいわ」

 千里も同じような表情を浮かべてみた。それでも祈咲と同じ気持ちになることはない。立場が違うのだから仕方ないだろう。目の前にある祈咲の顔はきっと自分のものとは全く違ったものなのだろう。

「じゃあ、気を付けてね」

 千里は短く言って、祈咲へと微笑を向けた。するとそれに合わせたかのように祈咲も小さく微笑んでくれた。

「はい、ありがとうございます」

 互いに簡単な別れの挨拶をして、別々の方向へと足を向けた。


 小学校の夏休みが始まり、二週間もしないうちに登校日はやってきた。八月に入り、暑さは加速度を増している。夏が始まったばかりの頃から暑い日が続き、今年は猛暑になるだろうと散々天気予報で言われていたが、今の暑さは想像以上だった。

 千里は滲み出すかのような額の汗を手の甲で拭った。しかしそれだけでは追い付かない。首からも背中へと汗が伝う。長い髪を纏めていなければ首筋に髪の毛が張り付いていたことだろう。

 気を抜くと口から暑いという言葉が漏れ出しそうだ。

「暑いな」

 千里より先に國原が言葉を漏らした。今日はそれほどまでに暑いということだ。

「猛暑日らしいですからね」

 今朝の天気予報でそんなことを言っていた。昨日も、一昨日も。それだけ暑い日が続いているということだ。こんななかで足で捜査をするのは正直厳しい。

 学校が終わるのを応接室で待たせてもらっているのだがどうにも落ち着かない。最初はゆかりから話を聞いていたのだが、朝礼で貧血を起こした生徒がいるとかで直ぐに席を外されてしまったのだ。となると、千里と國原に出来るのは待つことだけだった。

 小学校の応接室など生徒だったときは入ったことはなかった。そもそも応接室という存在など知らなかった気がする。生徒とこういった部屋は関わりがないのでそれも当たり前だろう。だからどこか落ち着かないのだろう。

「お待たせしました」

 出された茶がなくなりそうなタイミングで水穂の仮の担任が応接室へとやってきた。まだ若いその男は面倒なことに巻き込まれたという態度を隠そうともしていない。

「こちらにお連れしました」

 男は水穂の小さな体をそっと押して、彼女を応接室へと入れた。水穂は俯いて中へと入ってくる。見えるのは小さな頭だけで表情はわからない。

「私は席を外しても構いませんか」

 男はかったるそうな口調で言う。年の頃は千里と同じくらいだろうか。まだ教師になって何年も経たないのだろう。それなのにこんな事件に遭遇してしまうなど気の毒ではあるが、どうにも彼は生徒のことを考えているようには思えない。これならば捜査としてはやりづらいが、ゆかりの方が水穂のことを考えているだろう。

「はい。ありがとうございます」

 とはいえ、非協力的な者がいても何の情報も得られないので彼には外に出てもらうことにした。彼が此処に残ったとしても何も変わらないだろう。

「座って」

 國原が水穂にソファへと座るように促した。水穂は俯いたままゆっくりと移動をする。小さな体の動きはひどく怯えているように見えた。一体彼女は何に怯えているというのだろう。

 水穂は確かに角田の死を目撃はしている。しかし彼女が見たのは遺体であって、殺害される瞬間ではない。事切れた角田だ。それだって小学生からしたら大きなものだとは思う。勿論大人にとっても決して小さなものではない。だとしても水穂の怯えぶりは尋常ではない。

「水穂ちゃん。貴女は、何に怯えているの」

 千里はそっと水穂の隣へと移動した。隣に並ぶと彼女の体は更に小さく感じられた。それだけ水穂が縮こまっているということだ。

 率直に訊くのは正解ではないだろう。とはいえ、ゆっくりと事を進める余裕はないだろう。恐らく幾らもしないうちにゆかりが此処を訪れるだろう。どうしてもその前に水穂から話を聞きたい。前回はそれで話を中断されてしまった。今はゆかりが生徒の介抱をしているという願ってもないチャンスなのだ。

 小学校の登校日は夏休み中に二回。これを逃してしまえば次の機会は一回しかない。それまでは日にちも空いてしまうし、それが過ぎてしまえば後は夏休みが明けるのを待つしかない。

「角田先生のお話、聞かせてもらってもいいかな」

 ゆっくり話している余裕はないとはいえ、急いては事を仕損じる。急がば回れ、とまでは言わずとも、水穂に少しでもリラックスしてもらう必要はある。それにこども目線でしかわからない被害者の側面というものもあるだろう。

「角田先生、どんな先生だったの?」

 國原は口を挟まずに黙って見守ってくれている。信じてくれているというよりは千里なら、と思っているのかもしれない。國原は千里の過去を知っている数少ない一人だ。

「……」

 水穂はずっと俯いたまま一点を見詰めている。こども特有の細い体は微かに反応したように見えた。震えたというより、跳ねたような感覚に近い。確実に何かある。元々それを確信しているからこそ、こうして水穂のもとを訪れているのだがまたひとつ確証を得た気分だ。しかしその何かに辿り着けず仕舞いなのだ。

「先生と何か話したりしたことはある?」

 事情聴取は得意な方ではない。寧ろ、苦手だと言える。しかも相手はこどもだ。どうしたらいいのか手探りどころではない。

「……ないです」

 答えに違和感を覚える。角田は水穂の担任だ。幾ら角田が水穂の担任になってから四ヶ月といえ、話したことがないということはないだろう。個人的な会話を交わしたことがないとしても「ない」とは言い切らないだろう。特に角田の場合は生徒との距離が近いと評判なのだ。

「角田先生のこと、どう思っていた?」

 千里は次の質問をした。これは少し直球過ぎる質問かもしれない。こうした質問をしながらも、千里の中では答えが見え始めていた。それは水穂が隠していることの一部には過ぎないだろうが、せめてこれだけでも本人の口から聞きたいと思う。けれどそれと同時に、水穂に真実を語らせることに躊躇いも生じている。

 出来れば口にしたくないだろう。それでも聞き出さないことには何も進まないのだ。

「國原さん、少しだけ、いいですか?」

 千里は視線を水穂から國原へと移した。そしてその視線を扉の方へと流す。学校らしい木の引き戸だ。それだけで國原は千里の言いたいことを察したらしくソファから立ち上がった。水穂ばかりを見ていたせいで國原がやけに大きく感じられた。

 國原が静かに応接室を後にし、中には千里と水穂だけが残された。部屋の中は一人減っただけで途端に寂しい空気を漂わせる。それは國原の姿が見えなくなって心細く思う己の心境のせいだろう。それでも國原に此処から出て行ってもらう必要があった。

 ここから先はデリケートな問題だ。聞く人間は一人でも少ない方がいいし、それが男性ならば尚更だ。

「水穂ちゃん、角田先生のこと、苦手だったのかな」

 なるべく口調を柔らかくするように努めた。緊張すればする程、堅い口調になってしまう自覚はある。今それをやってしまったら水穂の心を開くことは不可能だろう。

 水穂はまだ顔を上げない。柔らかそうな髪が横顔を隠してしまっている。今日はこの間のように髪を束ねてはいない。千里の手は自然に水穂の顔へと伸びた。そして、顔を隠す髪をそっと耳にかけてやる。それだけのことで水穂は驚いたように目を見開いた。しかしそこに怯えはない。

 國原に出て行ってもらったのは正解だっただろう。國原が此処にいてはきっと水穂は怯えたままだっただろう。とはいえ、水穂の怯えが取り払われたわけではない。

 夏休み前の聴取では水穂は自分のせいだと零した。しかし今日はそのことに触れるのは難しそうなので質問の方向を変えたのだ。前回機を逃してしまった。なので続きから、というのは難しいと考え、質問を変えてみた。

「……本当に死んじゃうなんて思わなかったの」

 水穂は震える声でこの間の続きと思われること語った。

 どういうこと、と訊けばいいのか。それとも黙ったまま言葉の続きを待つべきなのか。判断が難しい。

「私ね、こどものとき大嫌いな大人の人がいたの」

 千里は自然に出てくる言葉を口にした。水穂がそれに反応して顔を上げる。二重瞼のくっきりとした瞳はうるんでいる。水穂の顔立ちは愛らしいもので、将来はさぞかし美人になるだろうと予想出来た。

「死ねばいいのに、て何度も思ったんだ」

 死ねばいい。目の前で苦しみもがいて息絶えればいい。強く強くそう思った。そして、それだけではない。死ねばいいのに、という感情が可愛らしく思えるほどの感情。

「消えてくれれば、私は自由になれる、解放されると思ってた」

 しかし願いは叶わなかった。

「わ……私、角田先生が怖かったんです」

 水穂は震える声のままそう言った。

「角田先生……最初は優しかったんです。とても……優しくて、いつも、褒めてくれました」

 千里は敢えて口を挟まずに、水穂の言葉を待った。水穂は何度も拳を握り返してはゆっくりと口を開く。声でなくその唇も震えている。

「けど、少しずつ、なんかおかしいなって……思い始めました」

「どうしてかな」

 続きを促す程度の一言を入れる。水穂は一瞬言い淀んだ。口にしづらいことなのだろうし、恐らくだがゆかりから口止めをされているのだろう。

「私はね、水穂ちゃんの力になりたいの。もう、角田先生はいない。水穂ちゃんが辛い思いをすることはないのかもしれない。でも、水穂ちゃんは未だに辛いんだよね。だからね、それを少しでも軽くしてあげたいの」

 自分に出来ることなどたかが知れている。これで犯人を逮捕したからといって水穂の心が晴れることはないだろう。起きたことは消せないのだ。向き合うことが難しいのも知っている。それでも今この瞬間だけは水穂の味方になってあげることが出来る。

 ──こどもには味方が必要なのだ。

 自分にはいなかった。心の拠り所など存在しなかった。あの壮絶な日々。それが明けてから。何が自分にはあったのだろう。

「先生、私に何度も可愛いねって言ってくれたんです。最初は嬉しかった。……でも、可愛いねって言いながら、手を握るようになってきたんです。……撫でるように。それが、嫌だと思いました。それで、先生に呼ばれても残らないようになって……、それでも、先生、気付くと私の後ろにいて」

 教師の性的虐待は昨今増えている。様々な事例が検挙されている。それでもそれは被害届を出されたものだけで、児童が打ち明けていないものを数えたら相当な数になるだろう。

「私、それが本当に嫌でした。なので、噂を信じてみることにしたんです」

 水穂の声の震えはいつの間にか止まっていた。今までに聞いたことがないくらいに確りとした声だ。

「噂……?」

 水穂からは予想以上に話を聞き出せそうだが千里の頭にもうそのことはなかった。今は、少しでも水穂の話を聞いてやりたいという気持ちでいっぱいだった。

「こどもを傷付ける大人を、ハイジョしてくれるんです」

 ハイジョという言葉が排除だと気付くのに時間が掛かった。水穂はその漢字、もしくは正しい意味を知らずにその単語を使ったのだろう。だから千里の脳内で上手く変換されなかったのだ。

「それは一体……」

「もう下校時刻をとっくに過ぎています」

 いつの間に扉が開いたのか気付かなかった。千里が突然の声に驚くと同時に水穂が息を呑むのがわかった。

「灰田先生」

 応接室に姿を現したのはゆかりだった。その後ろのは國原が控えている。苦い表情を見る限り、彼女を引き止められなかったのだろう。

「本日は登校日なので、もう下校時刻なんです」

 通常ならば夕方なのだろうが、今日は特別なのだろう。まだ昼を回ったばかりだ。

「鈴原さん、もう帰りなさい」

ゆかりは千里に一瞥もくれずに水穂へと近寄った。水穂の表情は硬いもので、先程までは少しだけだが気が抜けていたというのが今更になってわかった。

 ──せめて、もう少し時間があれば。

 前回と同じだ。しかし前回よりほんの僅かにではあるが成果はあった。とはいえ、それを素直に喜ぶ気にはなれない。水穂が口にした言葉の重さのせいだろう。

 きっと水穂は誰かに聞いて欲しいのと同時に誰にも知られたくなかったのではないかと思うからだ。こういった想いは相反する。誰かに打ち明けることがイコール救われるということではない。

 ゆかりは水穂をそっと立たせ、応接室から出した。水穂は応接室から出て行くとき、ちらりと千里に視線を送ってきたがそこに込められたものを感じ取ることは出来なかった。

「何か聞き出せたか?」

 國原が千里の隣へと並んだ。その聞き方から彼がゆかりからは特に何も聞き出せていないことがわかる。

「断片的な情報ではありますが」

 纏まった情報を得れてはいない。途中からそのことを失念してしまっていたせいかもしれない。それでも冷静になって考えてみれば有力な情報ではあるだろう。

「帰りがてら聞こう」

 國原は残っていた茶を飲み干したがそれはすっかり冷め切っているだろう。 

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