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鈴原 水穂は膝をきつく閉じ、その上で二つの拳を握り締めていた。その姿から伝わってくるのは拒絶に近いものだ。千里はどうしたら水穂の気持ちが理解できるか考えてみたが、良案が思い付くことはなかった。
消毒の臭いが充満する保健室で千里は水穂と二人きりだった。最初は國原もいたし、養護教諭である灰田 ゆかりもこの部屋にいた。しかし國原がゆかりを別室に連れ出したことにより、千里はこうして水穂と二人きりになったのだ。これは國原の提案だった。ゆかりが同席していては前回のように満足のいく質問をすることが出来ないからだ。いちいち口を挟まれ、質問に制限がかかる。ゆかりとしては生徒である水穂のことを考えてなのだろうが、それでは捜査は進まない。ということで、國原がゆかりにも訊きたいことがあるという体で彼女を別室へと連れ出したのだ。
ゆかりを連れ出す役割が千里ではないのは、千里では長くゆかりを足止めすることが出来ないだろうからだ。國原にそう言われ、千里はそれに頷くしかなかった。とはいえ、水穂から有力な情報を引き出すのも難しいように思えた。
水穂は頑なに俯き、先程から幾度名前を呼んでも顔を上げようとはしない。水穂と二人きりになってから、十分は経過しようとしている。
「水穂ちゃん」
千里は今一度、呼び掛けた。それでも反応はない。
校庭からは部活動だろうか、賑やかな声がする。けれど、今この空間はそこだけが切り取られたような空気が流れている。静かで、誰も触れることの出来ない、そして誰も気付くことのない空間。
水穂は少しも顔を上げず、ひたすらに板張りの床を眺めているように見えた。何を考えているのか。それとも何も考えていないのか。耳の横で束ねた髪が彼女の横顔を隠している。可愛らしいハート型のヘアゴムが異様に映る。
きっと、水穂は何かを知っている。それが國原の見解だった。千里もそう思った。事件当日、水穂の様子は少しおかしかったのだ。無論、担任教師の死体を目撃し普通でいられるはずはないのだが、そういうことではなかった。
確かに怯えていたり、戸惑っている様子はあったが、それ以上に用意された答えを述べている印象を受けたのだ。もう少し言葉に詰まったり、何かを忘れたりしてもよさそうなものなのに、水穂は少ないとはいえ全ての質問に答えた。それが意味することとは。
「……怖かったよね」
千里は水穂の前に膝をついた。板張りの床は固く、膝の骨が少し痛い。それでも痛みは無視して、水穂の固く握られた手に自分の手を重ねた。夏休み直前のこの時期だというのに、水穂の手はひんやりと冷たかった。通常こどもというのは体温が高いものだ。これでは末端冷え性である自分の冬場の手より冷たい。
二つの小さな拳をそっと撫でる。さらさらと手触りがよく、若さが羨ましいと思えた。滑らかで、柔らかい皮膚。そこにあるのは紛れもない幼さだった。
「少しでいいの。何か、教えてくれない?」
滑らかな手の甲をふんわりと撫でる。すると、水穂は拳を握る力を緩めた。強張る感覚がなくなったのがわかる。
「何も……知りません」
それでも水穂から出てきた言葉はそれだけだった。そしてそれはまた、用意された答えのように思えた。彼女は一体、何を隠しているのだろうか。彼女にそう答えるように指示しているのはきっとゆかりだ。それは千里と國原の見解だった。ゆかりも何かを隠している素振りがある。それもあからさまに。いや、わざとこちらが気付くようにしている。
ゆかりの行動が指すものとは。その答えを水穂から引き出そうとしているのだ。だがそれが上手くいく気配はない。
──役割を反対にした方がよかったのではないか。
千里は今更ながらそんなことを思った。
「角田先生のことは、好きだった?」
千里は唐突に質問を変えた。この質問は事前に國原と作ったものではない。國原とは水穂に出来るだけ事件当日の話を聞くことを決めていたのだ。しかし千里はそれとは全く違う質問を水穂にしてみた。
「角田先生、女の子から人気あったみたいね。かっこいいものね」
この事件の被害者である角田の顔は遺体の他に生前の写真で知っていた。精悍な顔付きをしていて、涼しげな目元がハンサムと言えた。
殺害された角田はその風貌から女生徒からの人気が高く、そして気さくな性格からは男子生徒から人気が高かったようだ。教師としても生徒思いの面が見られることが多く、父兄からの信頼も厚かったようだ。しかしそれらは全て資料上のこと。千里が実際にそんな角田の姿を目にしたわけではない。千里が目にしたのは絶命している角田だけだ。
水穂は千里の質問に答えようとしなかった。答えが用意されていない質問には無言を貫けとでも言われているのだろうか。
「水穂ちゃんは角田先生のこと、どう思っていたの?」
質問の仕方を変えてみる。それでも水穂は口を開くことはない。しかし、握られていた力はどんどんと弱くなり、今はもう殆ど力は込められていない。
「……嫌い、だった?」
訊いてから直接的過ぎたかと思う。しかし、こどもというものは遠回しに訊いたとしても意図を理解しないか、もしくはそれを理解出来なかった振りをする。嘗ての自分は後者だった。
水穂は答えを口にすることなく、千里の顔を見上げてきた。二重瞼のはっきりとした瞳は年齢のわりに大人びた印象を与えてくる。大人びた、というよりは色気なのかもしれない。こういう子は年を重ねるごとにどんどん色気を増すのだろし、そしてそれは生まれ持ったものなのだろう。
「答えたくない、かしら」
千里は呟くように言った。水穂の綺麗な茶色の瞳を微かに揺れた。本当に僅かな揺れ。それを見逃さず、千里は水穂の手を握った。先程まで温かいと思った手が今はひんやりとしている。緊張の証だろう。
「……私の、せいなんです」
水穂がそう小さく漏らし、瞳から一滴、透明な液体を零した。ぽとりと落ちたそれは床の上に小さな小さな染みを作る。
「どういうこと?」
何に対しての言葉かわからないが、そこには確かに懺悔が含まれていた。水穂の目からは次々と涙が溢れ出す。茶色の瞳は歪み、朧月のようだ。
「水穂ちゃん。ゆっくりでいいから、お話ししてくれないかな」
千里は幼いこどもをあやすかのように言った。僅かに水穂が顎を引いたのがわかる。静かに息を飲み、水穂が口を開くのを待った。やけに長い時間に感じられたが、実際は一分も経っていないだろう。
水穂の薄めの唇が動き始めたそのとき、がらりと扉の開く音が保健室の中に響いた。
「本日はそこまでにして頂いても宜しいですか」
ゆかりが保健室に戻ってきてしまったのだ。千里は反射的に腕時計に視線を落とした。気付けば水穂と二人きりになってから三十分近くが経過している。幾ら國原といえども、ゆかりのような賢い女性を引き止めるのはそれが限界だったのだろう。現に國原はゆかりの背後で苦い表情を作っている。しかし、國原と千里の役割が反対だったなら、この三分の一も時間を稼ぐことは出来なかっただろう。
──惜しかった。
千里は内心で溜め息を吐いた。せめて、もう少し早く会話の糸口を掴めていれば。これは國原の失敗ではなく、千里の手腕の問題だ。
「また日を改めて伺わせてもらいます」
國原が渋い顔付きのままでゆかりへと告げたが、ゆかりはそれに対し頷くことはしなかった。千里はそんな二人の様子を横目に、水穂の顔を覗き込んだ。ふっくらとした柔らかそうな頬には涙の跡がついていて、睫毛はしっとりと濡れている。
「また、来るわね」
千里は出来るだけ優しい声になるように努めて水穂へと言葉を向けた。水穂はゆかりが戻ってきたことにより冷静さを取り戻したのか狼狽の表情を見せる。もしかしたら先程の話の続きを聞く機会は二度と訪れないのかもしれない。千里は自身の会話術の甘さを悔やんだ。とはいえ、先程の流れは狙ったものではない。狙ってあのようなことが出来るなら最初からしている。
「帰ろう」
國原にそっと肩を叩かれた。大きな手は千里の細い肩を簡単に包んでしまう。千里はそれに唇を軽く噛んだまま頷いた。
「上々だ」
夕暮れの校舎に背を向けながら水穂との会話の一連を聞かせると國原はそう言ってくれた。國原に褒められることは少なく、千里は何と返したものか言葉を詰まらせた。今回のことにしても叱責されるものだと思っていた。
確かに國原は厳しいだけの男ではない。千里の気持ちを汲んでくれるし、気遣ってくれることもある。だが、安易に人を褒めたりはしない。後輩を育てるうえでは褒めて伸ばすより、欠点を指摘し改善させるタイプだ。
「しかし、肝心な部分を聞き出すことは出来ませんでした」
千里はアスファルトに伸びる二つの影を見詰めて言う。足を進める度、影は縦に揺れる。開いた身長差は國原と千里の実力差を顕わしているかのようだ。今更千里の身長が伸びることがないように、この実力差も埋まらないのではないだろうか。押し寄せる不安は引き潮を知らない。
「いや、その言葉を引き出せただけで十分だ。鈴原 水穂は何かを抱え、隠している。それが確信になっただけでも違う」
そう言われればそうかもしれないとは思う。水穂が何かしら知っているだろうからと聴取に小学校へと赴き、そしてそれは確信を得た。言葉にすればそうだ。
「そこまでわかったなら、後は徹底的に洗えばいい」
「はい」
千里は少しの蟠りを残しながらも頷いた。何もわからないままよりはずっといい。ほんの僅かだが進展はあった。ならば今はその成果を喜ぶしかないのだ。
「鈴原 水穂に口止めなり指示をしているのは灰田で間違いないだろう」
國原はゆかりからどんな話を聞き出したのだろうか。
「灰田先生からどんな話を?」
千里は顎を持ち上げて國原の横顔を見た。暮れ始めた陽の光がくっきりとした陰影を作っている。元々國原は濃い顔立ちをしているが影が出来ることによりそれは増す。
「これといったことは何も。淡々と事件当夜のことを繰り返してくれただけだ」
國原は老若男女問わずに聴取を得意とする。それだというのに何も聞き出せなかったということは、ゆかりは相当に手強い女性ということになる。
「少し違うかもしれませんが、二人で共謀して何かを隠しているということですよね」
千里の発言に國原が眉を顰めて頷く。捜査中、國原の険しい顔というのは何度も目にしたことがある。しかし今の表情は今までのものと明らかに違っていた。こんな國原の表情は初めて見る。
よくよく考えて見れば、児童の絡む事件というのは千里にとって初めてのものだ。今まで携わった幾つかの事件にこどもという存在は誰一人としていなかった。それを鑑みると、國原の表情の意味することも理解出来た。
こどもというのは繊細な生き物だ。扱いを一歩間違えれば取り返しがつかなくなる可能性だってある。そしてそれ以上に、こども本人に負担を強いることになるのだ。今回の件については、水穂の存在を無視することは出来ない。だとすると、彼女に対しての執拗なまでの聴取や接見が必要となる。
どうしたってそれは水穂にとって負担以外のなにものでもない。國原はそのことも考えているのだろう。彼は厳しい部分ばかりが目立つが、根が優しい男だということを千里は身を以ってして知っている。それだけに彼なりの苦悩も手に取るようにわかった。そしてそれは、千里自身も思うことだった。
何を優先すべきなのか。そんなことは自問自答せずとも理解している。千里は刑事なのだ。ならば自分が優先すべきことは水穂の精神状態ではなく、犯人逮捕。その為には水穂と積極的に関わっていくしかないのだ。例えそれが水穂にとって多大なストレスを与えるとしても。
何かを選ぶには何かを切り捨てなければいけない。普通に考えてみればそこまでの大事ではないだろう。しかし、千里の中では水穂の存在は簡単に切って捨てられるものではなかった。
何かに怯えたような水穂の表情が脳裏から離れない。そしてそれは嘗ての自分と重なるものだった。
「あまり深入りするな」
國原の言葉は忠告というよりも警告のように感じた。
深入りすればする程、自分で自分の首を絞めるような真似をするだけ。それは千里自身、わかっていることだ。しかし制御を上手く出来る自信がない。
「わかっています」
千里は短くだけ答えた。頭一つ分上にある國原の顔を見上げることは出来なかった。
真っ暗な部屋に液晶画面の光だけが存在を主張している。掌よりも二倍も大きなそれは、煌々と小さな空間だけを照らす。
画面上に浮かぶ文字からは悲痛さだけを漂わせている。書き込んだ者の気持ちを考えるとスマートフォンを持つ手が震え、指先の熱は失われる。すう、と冷えていくのがよくわかる。
どんな想いでここへと辿り着いたのか。どんな苦しみでここへと書き込んだのか。どんな悲しみを抱えているのか。
如何程の恐怖が彼らを支配しているのか。
それらは手に取るように理解出来た。
誰にも助けを求められず、誰が罰してくれるわけでもなく、誰が手を差し伸べてくれるわけでもない。唯一人で、孤独の中で小さな闘いを繰り広げているのだ。決して勝利のない闘いを。
「大丈夫だよ。直ぐに解放してあげるからね」
静かな声が室内に響いた。
直ぐに、君を助けてあげるからね。直ぐに、君を自由にしてあげる。君が傷付く必要なんてどこにもないんだ。君を傷付ける存在なんて、この世界にはいらないんだ。
『何も心配しないで。』
ただ一言が送信された。
新たな殺人事件が起きた。千里はその一報に動揺を隠せなかった。その理由は、連続殺人だということを犯人が明確にしてきたからだ。
「舐められたもんだな」
國原が千里の隣で歯噛みをし、その音には悔しさが込められていた。千里も同じ気分だった。まだ犯人像すら絞れていない。だというのに、犯人は警察の一歩も二歩も先を進んでいくのだ。兎と亀の追いかけっこどころの話ではない。月と地上程の開きがあるように思えた。
今回殺害されたのは会社員の男性だった。職業は今までの被害者と共通点はない。しかし、現場にメモが残されていたのだ。どこにでも売っているメモ帳だ。
──正義。誰にも邪魔させない。
この言葉だけが記されていた。
殺害方法は鈍器で後頭部を殴打。剃刀状のものを使用した形跡はない。このメモがなければ一連の事件とは無関係だと考えられた可能性も高い。だというのに、犯人はわざわざこれが連続殺人だと明記したのだ。
そして、殺人を正義だという。
人を殺すことの何が正義だというのだろう。千里は資料に写し出されたメモを凝視した。恐らくわざと丸く書かれた文字は男女の区別もつかない筆跡だ。
「情報が漏洩しているんだろうね」
千里は聞き慣れない声にきょろりと顔を動かした。声の出所が掴めなかったのだ。
「ここだよ、影石」
すると声の主は千里の頭を鷲掴みにし、半ば強引に右に回してきた。そこには三十歳前後の男と、そしてそれと同じくらいの女が立っていた。男は座っている千里の倍ほどの身長がある細身で柔和な顔立ちをしている。女も長身で、体の凹凸がはっきりとしている華やかな美人だ。
「藤立さんにニノ瀬さん」
千里は一組の男女の名前をそれぞれ呼んだ。男──藤立 秋はそれににっこりと人のよさそうな笑みを浮かべ、女──ニノ瀬 尋華は小さくだけ微笑んだ。彼らは千里と同じく警視庁の捜査一課に所属しているが班が違う。
「漏洩ってどういうことですか」
千里は立ち上がり二人に挨拶を済ませてから尋ねた。先輩二人の前で座ったままという無作法な真似など出来ない。しかし藤立は千里に再度座るように両肩を軽く押してきた。それに逆らうのも失礼と思い、小さく断りを入れてから椅子に腰を下ろす。
「犯人は俺達が連続殺人を疑い始めたことを知り、こんなメモを残したんだと思うんだ。ほおら、これは連続殺人ですよ、てね」
藤立は資料をひらひらと振りながら言う。ぺらりぺらりと動く紙はつい目で追いたくなってしまう。
「ということは、犯人の知り合いが警察内部にいると?」
千里の問い掛けに藤立は肩を竦めてみせた。誤答、ということだろう。
「勿論その可能性もあるけど、今の時代はねえ」
藤立がもったいぶったように言った。千里としてはそれ以外の可能性を探すことが出来ずにいた。すると姿勢良く立っていたニノ瀬がそんな藤立の頭を軽く小突く。藤立の男性にしては小さな頭が前後に揺れた。
「ちょっと、尋ちゃん」
「学校時代の質疑応答やってるわけじゃないのよ」
ニノ瀬は綺麗に切り揃えられたボブスタイルの黒髪を搔き上げた。
確かに警察学校の時分はこういった講義もあった。過去の事件やら講師が作った事件を質疑応答で解決に導いていく。しかし今はニノ瀬の言う通りそんな時間ではない。
「ごめんごめん。新人さんにはつい、ね」
藤立は悪びれた様子もなく言ったが、千里としては簡単に答えを教えられるよりもこうして己で導くのは嫌いではなかった。その方が力がついていく気がするのだ。けれど今回については答えはまだ見えてこない。
「先月、××市の所轄であったやつ、覚えてる?」
藤立に言われ、考えてみるがこれといって思いつくことは何もない。
「聞き方がなってないわよ。先月、捜査情報を漏らした人間がいるって話、覚えてるかしら」
ニノ瀬がまた藤立の頭を小突いた。幾らニノ瀬も背が高いとはいえ、藤立はもっと高い。そんな藤立を小突く為にニノ瀬は細い腕をかなり伸ばしていた。
「はい、記憶してます」
確か新米の刑事が友人に捜査状況を話してしまい、その友達がSNSにそのことを書き込んでしまった、というものだ。事件はひったくりとさして大きな事件でなかったことと、本人が書き込んだわけではないということから、三ヶ月の減俸といった処分が下されていたはずだ。
「あ、そういう形で漏れた可能性もあるということですね」
漸く、答えが見えた。
「正解」
藤立がにっこりと笑う。
確かにその可能性がないとは言えない。情報漏洩イコール内部に共犯者がいるという思い込みが邪魔をしてしまっていたのだ。昨今の若者はやっていいことと悪いことの区別がつかないものが多い。それは警察という組織においてもだ。
だからこそ警察の不祥事は後を絶たない。
「だとすると、捜査員を全員調べる必要があるのでは?」
「まあ、やるだろうな」
答えたのは國原だった。
「藤立、お前大丈夫か? 疚しいことがあるなら、今のうちに退職願書いとけよ」
「そうよ。同じ班から問題がでるとか嫌よ?」
國原とニノ瀬が立て続けに藤立を責めるようなことを言った。千里としても二人の言葉の意味がわかるだけに何とも言えなかった。
「何処の女に話したんだよ」
「ちょっと待って。話したりしないから。ベッドの中でそんな物騒な話なんてしないから」
國原の言葉に藤立が反論をする。
藤立は相当の女好きで、特定の恋人という存在はいない。誰彼構わず口説くということはしないが、女性であるならば誰にでも優しい。それは相手の美醜を問わず。だからこそ藤立には女性が寄ってくるのだ。
「信用ならいなわね」
ニノ瀬が冗談と思えない口調で言う。捜査の最中とは思えぬ和やかさだ。今日が特別というわけではない。事件は毎日、どこかしらで起きている。内容は様々だとしても、何かしらの事件に追われる日々を過ごす。それが刑事という仕事なのだ。
捜査員全員、同じだ。
確かに中にはこの事件で初めて捜査に携わるという者もいるだろう。しかしそれは少数であり、殆どの者がそうではない。そうなると、感覚は麻痺するのだ。初めてのときは千里も勿論緊張したし、携わる事件以外のことは何も考えられなかった。それは過去のこともだ。
しかし幾つかの事件の捜査に加わっているうちに何時しか感覚は麻痺していった。緊張が全く失われたわけではない。事件に対する嫌悪がなくなるわけでもない。それらは未だに確実に存在する。けれど、それだけではなくなったのだ。
事件のことだけが頭と心を占領し、それ以外のことが考えられない、ということはなくなったのだ。こういった空時間に談笑出来るようになったし、友人からの連絡に応える余裕も出来た。とはいえ、最初の頃はそれが出来ず、現に友人は刑事になりたての頃より減ってはいるが。
「千里ちゃんからも何か言ってよ」
藤立が千里の後ろに隠れるようにして言ってきた。長身の男に背後に立たれると視界が仄暗くなる。千里は今、椅子に腰掛けているので尚更だ。不意に翳る視界。
「私からは何も」
藤立は何処となく静馬を彷彿とさせる。それは彼らの持つフェミニストという特性のせいだろう。それと、立ち振る舞いから感じる育ちの良さ。
「いつもクールだよねえ」
藤立は千里の援護を諦めたようで、そっと離れていった。すると視界がふっと明るさを取り戻す。それだけで会議室の蛍光灯の灯りがやけに眩しく感じた。
クールだという自覚はない。熱血というタイプでもないが、クール──冷静というわけでもない。寧ろ、冷静さは欠いている方だと思う。しかし感情を率直に表に出すのが少々苦手なところがある為、他人からはクールだと言われることが多い。
「話を戻すわね」
ニノ瀬が落ち着いた声で言う。凛とした声は耳障りがいい。
「情報漏洩の件についてだけど、ただの偶然という可能性もあるわ」
「偶然、ですか?」
千里はニノ瀬の確りと化粧の施された顔を見上げた。顎のラインが理想的で、そこに色気を感じる。
「そう、偶然。情報なんて漏洩していない。たんに犯人が警察を煽ろうと思ったタイミングと警察が連続殺人を疑ったタイミングが重なった。後、もうひとつの可能性」
ニノ瀬は二本の指を真っ直ぐに立てた。綺麗にマニキュアの塗られた指。ニノ瀬はキャリアという道を進みながらも、常に女性としての身形をきちんとしている。キャリアでもなければ、取り敢えず身形を整えているだけの千里とは全く以って違うタイプの女性だった。
「もうひとつ?」
國原と藤立はニノ瀬が言いたいことを既にわかっているようで、首を傾げているのは千里だけだ。千里はこのことを口惜しく思いながらも、埋められない経験の差を痛感していた。そしていつかは自分も三人のようになりたい、ならなくては、と決意を固める。
「私達警察が犯人の手の内で踊らされている可能性」
ニノ瀬は今度は人差し指だけを立てた。その指は顔やスタイルから想像するに、少し短いように思えた。
「全ては犯人の思惑通り、てことよ。連続殺人を疑うタイミングも、犯人が連続殺人であることを報せてきたのも、それを私達が情報漏洩だ何やらと議論を交わすことも、全てが犯人の予定通りのことかもしれない」
そんな、と千里は声を漏らした。
本当にニノ瀬の推論通りだとしたら。全てのことが犯人に仕組まれたタイミングだとしたら。自分たちはそんな犯人に辿り着くことが可能なのだろうか。
「まあ、どれが事実かなんて犯人にしかわからないことなんだけどね。願うべくは、三つ目だけではないことね」
ニノ瀬の言葉に國原と藤立が頷いた。全員、思うところは一緒なのだろう。
「一個目の可能性だけ、潰せるね」
藤立が一人で頷く。それは調査さえすればわかるだろう。しかし、二つ目と三つ目の可能性だけは絞りきれない。後は願うしかないのだ。
「君らの割り振りは?」
「鈴原 水穂の事情聴取のままだ」
水穂とゆかりが何かを隠している様子なのは捜査会議でも報告している。なので千里と國原の仕事はその二人からそれを聞き出すこと。しかし未だその成果は挙げられずにいる。あれから二度ほど、水穂とゆかりに話を聞きに行ったが二人別々に、といのは叶わなかった。ゆかりによって阻止されたのだ。
事情聴取は受けるが、第一に水穂の精神状態を考えること。それが出来ないのであれば聴取には応じない。そういった提示をされてしまったのだ。今回の事件では水穂もゆかりも被害者でも被疑者でもない。そうなると相手の任意がなければ事情聴取を行うことは出来ないのでその条件を飲むしかないのだ。
「特に進展はないって顔だね」
藤立が言って肩を竦めた。そんな藤立とニノ瀬の担当は一番新しく起きた事件だ。会社員の男性が殺され、犯人が連続殺人を明記してきたもの。
「どっちも大変ね」
ニノ瀬がふう、と溜め息を漏らす。先程までふざけていた空気は何処にもない。
「ま、お互い頑張ろう」
藤立は言うと軽く手を挙げ、千里達の側から離れていった。それにニノ瀬がついていく。自分達のやるべきことをしに行ったのだろう。
「俺達も行くか」
國原の言葉に千里は、はいと頷いた。そろそろ学校は夏休みに入る。そうなるともしかしたら水穂への聴取は行えなくなるかもしれない。今は小学校へと足を運び、ゆかりの許可の下で聴取をしているが、それが自宅、親へと変わるのだ。水穂の親には一度会ったが、厳しい印象を受けた。特に母親が神経質そうなタイプだった。
それを考えると、あの母親から水穂への聴取への許可が下りるとは思えないのだ。ならば、小学校が夏休みに入る前に出来るだけの話を水穂から聞き出す必要がある。
千里は心の中で決意を固め、一歩を踏み出した。