3
暑さが増している。
千里はぼんやりと昼最中の公園を眺めた。本日は非番。仕事人間という程、仕事一色の日々を送っているわけではないが休みだからといって予定が詰まるわけでもない。刑事という仕事に就く前は、事件が起きれば休日返上で働くものだとばかり思っていたが、現実は違った。
非番という名の休日はきちんと交代で回ってくるのだ。勿論、非番の日に呼び出しが掛かることも皆無ではないが、持前の班が事件を担当している場合は確実な休みが取れる。
千里のような新米の刑事に休日まで出来る捜査などあるはずもなく、千里はぼんやりと暇を持て余していた。
探せば都合のつく友人はいるだろうが、明日からまた仕事だと考えると友人と遊びに出掛ける気も起きない。休日は日々の疲れを取るもの。そんなふうに考えるようになったのはいつからか。それに、今は誰かと楽しく過ごせる気分ではない。
事件が解決した後ならば、それもいい。けれど今は殺人事件に携わっているのだ。人が殺された。しかもそれは連続殺人事件かもしれない。そんな最中に友人達と楽しく談笑などしていられない。
千里が殺人事件を恨む気持ちは人よりも強い。だからこそ、今の職業を選んだのだ。だからといって、常日頃その考えが頭や心についてまわるわけではない。忘れているというのとも違うが、うっすらと靄がかかっているような感覚に近い。そしてその気持ちは殺人事件に関わることでクリアになるのだ。
オンとオフ。言うなればそんなところなのだろう。
平日の昼間。公園内は閑散としている。これが午前中、もしくは午後であれば幼いこども達とその親で賑わっているのだろうが、今の時分は家で昼食を摂っているはずだ。公園の中には千里の他に、昼休みらしき若いスーツ姿の男がスマートフォン片手に食事をしている。住宅街の公園で食事をしているところを見ると、営業マンだろうか。食べているのは菓子パンだ。スマートフォンを弄る為にそういったものを選ぶのだろう。
「あ、やっぱり」
千里がそんな営業マンらしき男を眺めていると、不意に声が降りかかった。千里がそれに反射的に顔を上げると、そこには白髪を靡かせた少年──もとい、青年がいた。
「椿君、だっけ」
「祈咲でいいですよ」
「祈咲君」
そんなやり取りをしているうちに、祈咲は千里の隣に腰を下ろした。公園の狭いベンチは並んで座ると距離が近い。今日は陽射しが強く、茹だるような暑さだというのに祈咲はまるで全身を布で包んだかのような格好をしていた。赤い千鳥格子のストールを首に巻き、着ている白いシャツは長袖だ。それに鮮やかなオレンジ色のパンツ。
「お休みなんですか?」
祈咲は千里に笑顔を向けてきた。あどけなさの残る笑顔は彼がもう青年だということを忘れさせる。幼いこどものような、邪気のない笑顔だ。
「ああ、うん」
千里はそれに頷いた。
「祈咲君も?」
千里が尋ねると祈咲は、はい、と笑顔のまま頷いた。
何を話せばいいのか。人見知りではないが、昨日今日知合ったばかりの人間と談笑出来る程社交的でもない。中途半端な性格というのは時に難となる。
──暑くないの?
千里はそんな質問を祈咲にしかけて、しかし直に飲み込んだ。なんとなくだが、見た目に関しての質問は祈咲にはしづらい。それは説明のつかない白銀の髪色のせいだろう。
「長閑ですね」
祈咲が不意に口を開いた。穏やかさと爽やかさが同居したような声だ。
「そうだね」
確かに、長閑だ。陽射しは強く、茹だりを感じはするが木陰にいれば時折心地いい風が吹く。夏独特の空気だ。眩しさの中にも、穏やかさがある。
「休みの日はいつもここに?」
祈咲に訊かれ、千里は曖昧に頷いた。いつも、というわけではない。なんの予定もないときや、ふらりと散歩をしたくなったときだけだ。それをそのまま祈咲に告げると、そうですか、と返ってきた。
「お仕事、楽しいですか?」
「え?」
思わず、祈咲の方に顔を向けた。祈咲の横顔があるとばかり思っていたのに、そこにあったのは正面だった。目のサイズも、鼻も、そして口のサイズも理想的。けれど個性がない。整っていると気付はするが、その顔立ちを美形とまで呼ぶことは出来ない。それでも陽の光を背景に見る彼の姿は美しかった。煌く白銀の髪がそう思わせるのか、それともそれは彼が黒髪であったとしても同じなのか。
「あ、すみません。語弊がありますね」
千里が黙ったのを自分の質問が悪かったと勘違いしたらしい祈咲は慌てた素振りを見せた。通常は綺麗な弓形の眉が今は下がっている。
「刑事さんの仕事に楽しいとか失礼でした。申し訳ありません」
祈咲はぺこりと頭を下げる。初対面のときも思ったが、祈咲は今時の若者にしては礼儀正しい。
「え、ああ、大丈夫よ」
年下の男と話すのは久し振りだ。事件関係者であれば関わることもあるが、こんなふうな会話をすることはない。
「質問を変えますね。お仕事、遣り甲斐はありますか?」
祈咲は少し照れたような表情をした。はにかむように歪んだ口許が可愛らしい。
「遣り甲斐、か。どうかな」
千里は祈咲から視線を外し、素直な感想を口にした。まだ会って二度目だというのに、それに抵抗はなかった。それは不思議な感覚で、自分でも理由はわからなかった。
「……変な質問をしてしまったみたいですね」
隣で祈咲が項垂れるのがわかった。横目で見ても、しゅんとしているのがよくわかる。今度はそれに千里が慌てた。
「ううん、貴方が悪いわけじゃないの。ごめんなさい、上手く答えられなくて」
「いえ、千里さんが謝ることじゃないです。僕が失礼なことを訊いてしまったから」
「そうじゃなくて、全然失礼なんかじゃないよ」
そこまで言ってから、互いに顔を見合わせてくすりと笑った。祈咲は僅かに口角を上げ、目を細めている。静馬が言っていた通り、綺麗な子だと思った。
「私はね、詳しくは言えないんだけど、思うことがあって刑事になったの。けれど、実際は上手くいかないことばかり。正直、向いてないのかも、て思うことも沢山ある。それでも辞めたくないし、なのに、向き合えなくなるときもある」
何故、ほぼ初対面に近い状態だというのにこんなことを話せるのか。それは、祈咲の持つ不思議な雰囲気のせいだろうと思い当たった。ふんわりとしているようで、それでいて確りとしている。祈咲はそんな空気を纏っているのだ。
「悩んでいるのは、いいことだと思いますよ」
祈咲は柔らかい口調で言ってきた。
「え?」
千里はその祈咲の言葉の意味がわからずに、首を傾げた。
「だって、悩むということは、きちんと向き合っているということじゃないですか。悩まずにこなせているのなら、それは目を逸らしているということ。なら、悩めば悩んだだけ、仕事と向き合えているということになります」
目から鱗だった。そんなこと、考えたこともなかった。悩めば悩む程、刑事という仕事が向いていないように思えていたのだ。
「そっか」
靄がかかっていた心が少しだけだが晴れた気がした。
「ありがとう」
千里は微かに口許を綻ばせて祈咲に礼を告げた。
「お礼を言われるようなこと、言えてないです」
祈咲はそれにまた照れる素振りを見せた。
「お昼ご飯、もう食べた? まだならご馳走するけど」
「すみません、もう食べてしまいました。それにこの後、用事があるんです」
やんわりと断られてしまい、少し残念だという感情が沸いた。もう少し、彼と話がしたかったのだ。
「ううん、謝らないで。また事務所に行くことあると思うけど、そのときは宜しく」
千里が言うと祈咲は笑顔ではい、と頷いた。いつも無愛想な顔ばかりしている國原と一緒にいることが多いせいか、こうしてくるくると表情を変える男性は新鮮だった。
「では、またお会いいましょう」
祈咲はにっこりと笑ってから頭を下げた。そして静かに立ち上がり、公園から去っていく。一人残された千里は、先程までとは少しばかり違う気持ちで公園を眺めた。
静馬が構える事務所の調度品はどれもこれも高級そうなものだった。千里などでは一生かかっても揃えることは出来ないだろう。そしてそれらには傷ひとつついていない。扱いに気を付けているのか、それとも定期的に新しい物に買い換えているのか。どちらだとしても千里には到底無理なことに思えた。
千里は元来、淑やかさとは無縁で、よく物を落とすし、よく物にぶつかる。独り暮らしをしているアパートに置いてある家具はそのせいで傷だらけだ。そして次に、定期的に買い換えるなど以ての外だ。値段の問題ではない。いや、無論それもあるのだが、それ以上に無駄なことをしたくなかった。使える物は限界まで使う。それが幼い頃祖父の下で暮らした千里にとって、当たり前のことになっていた。
しかし静馬はそんな内装に似合う風貌をしていた。高級そうなスーツを身に纏い、すらりと均整の取れたスタイル。静馬がいる空間だけ切り取れば、それはまるでセレブ雑誌のグラビアのようだ。
「何か、進展はあったのかい?」
静馬が耳馴染みのよい、それでいて僅かに癖のある声で國原に尋ねた。組まれた脚は異様に長い。
「いや、何も。あれば此処には来ない」
國原は淡々と返す。そう、捜査には何の進展もなかった。連続殺人事件として動き始めてはいるが、被害者たちの共通点がないのだ。あるとすれば、児童に関する職業というだけだ。それが動機に直結可能性はあるが、しかしそれの何処にかはわからないのだ。
散々、捜査会議でもこれについて議論されている。けれど、答えのようなものは見付からない。
「お前の見解は?」
捜査資料をずらりとガラス張りのテーブルに並べ、國原が訊いた。静馬はそれに対して首を傾げる。わからない、といったふうではない。己でもう少し考えろというふうだ。
「被害者たちの身辺は洗ったんだろうね?」
「それは勿論」
千里が答える。そんなことは初期のうちに済ませている。それでも見えてくることはないのだ。
──愉快犯の犯行では。
捜査本部ではそんな意見も持ち上がっている程だ。
他には幼少期に大人──それが児童に関する職業であったなどで──によって何らかの虐待を受けたものが犯人であった場合。それが愉快犯以外の線でプロファイリング班が出したプロファイリングした結果だ。
──大人への復讐。
捜査会議で有力な扱いを受けている見解はこの二つだ。それでも、千里はどちらにも閃きを感じることは出来ずにいる。どちらもこれといった否定材料があるわけではない。しかしかといって肯定する材料もないのだ。
何にしろ、情報が少ない。被害者同士の共通点がなさ過ぎるのだ。
「被害者達に共通の知人や友人はいない。そして、被害者同士が顔見知りということもない。職業が職業なだけに、仕事関係で顔を合わせたことがある者は数人いるが、それでも個人的な付き合いはないようだ」
國原は資料を丁寧に広げながら情報を静馬に与えていく。
「赤の他人も同然ってことでいいのかな」
静馬の言葉に國原が頷く。千里は傍観者になっている状態に焦りを感じた。折角念願だった刑事になれたというのに、思うように成果を挙げることが出来ずにいる。
「あ、あの」
千里は思わず声を出してしまった。國原と静馬から同時に視線を向けられた。
「何だい?」
静馬が柔らかな声で問い掛けてくれたお陰で委縮せずには済んだが、それでも続く言葉は出てこない。傍観者でいたくないと思ったが為に、勝手に喉が動いてしまったのだ。
「あ、いえ、何でもないです」
千里は慌てて顔の前で手を振った。これといって何か言いたいことがあったわけではないのだ。
「遠慮しない方がいいですよ」
千里が口を噤み掛けたとき、穏やかな声が耳に届いた。祈咲のものだ。
「すみません。突然口を挟んでしまって」
三人の視線が祈咲に集まると、祈咲は微かに顔を赤らめた。元は白い頬と耳朶にうっすらと赤みがさしている。黒目がちな瞳がきょろきょろと動いている。
「いいんだよ、祈咲。君の発言は役に立つことが多いからね」
静馬が微笑みを携えて言うと、祈咲は安堵したような表情を作った。そして祈咲は静馬に促されるまま彼の隣へと腰を下ろした。
「なので千里さん、遠慮しないで言いたいことを言うべきです。こういったことというのは、どんな発想がヒントになるかわかりませんから」
そう言う祈咲は、彼の方が遠慮がちに見えた。それでも、先の公園での出来事のように彼の意見というのはすんなりと千里の心に響く。
「……捜査会議で挙がっている二つのことなのですが、私としてはどちらも違うように思えるんです。何が、とかこれが、というのがあるわけではないのですが、ただ、どちらでもない気がします」
最初は祈咲の後押しのお陰もあり張った声を出せたものの、最後の方はどうしても萎んでしまった。どうやら、刑事としての素質云々の前に自信を持つことの方が先かもしれないと今更なことに気が付いた。
「成る程ね」
静馬がふむ、と頷いてみせた。國原も同じようにし、祈咲はにっこりと笑っている。居た堪れないとは違うが、どこか落ち着かない。まるで就職の面接を受け、その沙汰を待っているかのような気分だ。
「うん。いいと思うよ。出されたものについて延々と考えていても時間が無駄になる可能性もあるしね。否定するその姿勢はいいものだね」
別に否定をしてかかっているというわけではないのだが、特に否定はしなかった。國原も何やら思案顔をしている。
「じゃあ、君が思う犯人像はどんなものかな?」
静馬に訊かれ、千里は言葉を詰まらせた。千里は警察学校の講義でしかプロファイリングについて学んだことはない。そんな千里にこれだけの情報から犯人像など割り出せるはずもない。
「千里さん」
また口を噤もうとした千里の耳に祈咲の声が届いた。ちらりと祈咲に視線を向けると、その先では彼が唇を小さく動かしていた。
──がんばれ。
祈咲の唇はそう動いたように見えた。桜色に白を混ぜ込んだような唇の色はどんな口紅でも再現出来ないもの。
「……私怨に似たものは感じます」
千里は呟く様に言葉を紡いだ。
「私怨?」
隣に座る國原が首を傾げるのが視界の隅に入る。千里は視界のメインに祈咲を映し続けた。それだけのことで言葉が続けられる。
「はい。私怨、です。殺害方法は基本的には様々ですが、どれも怨恨は感じないというのが捜査本部の見方ではありますが」
絞殺、撲殺、刺殺。後は、剃刀状のもので喉を一掻き。どれもこれも手の込んだ殺し方ではなく、寧ろ短時間で行えるものを選んでいる。そして、遺体を損壊するなど死人を侮辱するようなこともされていない。それらのことから、捜査本部は怨恨の線は薄いと見ているのだ。
それでも千里にはそこに、明確な殺意を感じたのだ。それは確実に殺すという想いの強さだ。どの被害者にも躊躇いの痕はなかった。絞める方向も殴る場所も、刺す場所も、そして斬る場所も的確だというのが監察医からの報告だ。
それが表すものは明確な殺意ではないのかと千里は考えたのだ。確実に殺してやるという想い。そこに存在するのは「恨み」ではないのだろうか。確かに愉快犯の犯行だとしてもそこにあるのは「殺意」だ。しかし恨みを含むものとは違うのだ。しかしその感覚的なものを言葉という形にして外部へ出すのは難しい。
「確実に獲物を仕留める。そのように思えるのです」
この言葉は私怨に繋がるものではない。自分でも理解はしているが、今はそうとしか形に出来なかった。それがひどくもどかしい。
祈咲を見たまま口を閉じると、彼はよく出来ましたと言わんばかりに微笑んだ。彼の持つ独特の白さのせいか、その姿は宗教画の天使のように見えた。性別のない、穢れなく美しい存在。生き物とは形容出来ないものだ。
「獲物を仕留める、か」
静馬が細い顎に指を添える。手足同様にその指も細い。
「これらの話を統合すると、これは連続殺人であり、犯人は被害者全員に恨みを抱いている、ということになるぞ」
國原が言い、千里はそれに曖昧に首を傾げた。そういうことではない。何せ、被害者達に共通点はないのだ。もしかしたら、犯人という共通点があるのかもしれないが、だとすればその人物は捜査上に上がってくるだろう。
「そういうことだとするならば、捜査本部でも意見が出ている、幼少期に何らかの虐待を受けた者、という線が濃厚にならないかい?」
今度は静馬に指摘される。千里は自分の説明力のなさを恨んだ。
「なんと言いますか、きっと、犯人は何らかの共通項を元に被害者を選んでいるのだと思います。そしてそこには、私怨がある。それは幼少期のトラウマなどが原因だという可能性は勿論あると思われます。けれど、それだけが私怨ではない。彼らには殺される理由がきっとあったのでは、と思うのです。そこに、犯人の私怨が絡むのではないか、と。無作為に、児童に関わる職業に就いている者を殺しているわけではないのではないか、と……」
また語尾が消え入りそうになる。
「君は何か、経験をしているね?」
静馬が静かな瞳を千里へと向け、千里はそれに息を呑んだ。同時にひゅ、と喉が鳴る。
──嫌。嫌。お願い、もうやめて。お願いだから、やめて。
泣き叫ぶ少女の声が脳裏に浮かぶ。
痛い記憶。悲しい記憶。理不尽な思い。恨み。つらみ。
──殺してやる。殺す。殺さなきゃ。
「……何のお話でしょうか」
千里は震えそうになる声を必死で隠した。それでも太腿の上で握った拳は震えている。冷や汗が流れる。
「静馬。それは今回の事件には関係ない」
國原の声を聞いたのを最後に、千里の意識は途切れた。
額にひんやりとした感触を覚え、千里はうっすらと目を開けた。見知らぬ色の天井が視界に飛び込む。大理石のような模様だ。
「あ、気が付きましたか?」
抑揚をほぼ感じない声が耳に届くが、どこか水の中で聞いている感覚に近く、遠くに聞こえた。しかし、幾らもしないうちに正常に戻った。
「私……」
呟いた声が宙へと吸い込まれていく。
「貧血みたいですね」
貧血と言われても思い当たることはなかった。朝食を抜いたわけでもない、生理でもない。そもそも千里は貧血気味の体質ではない。
「血色、まだ少し悪いですね」
祈咲に覗き込まれ、身じろぐ。影のせいか、彼の髪が黒く見えた。
「でも、もう大丈夫だから」
誰かに心配されるというのは居心地が悪い。嘗て浴びせられた数々の声を想起させられるからだ。
「もう少し横になっていて下さい。何か温かい飲み物持ってきますね」
祈咲はそう言うと静かに姿を消した。千里はその背を見送ってから、仰向けになった大勢のまま顔を動かしてみた。どうやら先程までいた応接室とは異なるようだ。この事務所のプライベート的な空間なのだろうか。
千里が体を横たわらせているのはソファのようだ。それは応接室にあるものと同様に柔らかい。体がふんわりと沈み込み、気持ちがいい。
──貧血。
ではないだろう。思い当たる要因がないというのもあるが、それ以外の原因を自覚しているからだ。
過去のことを思い出したせいだ。忘れる努力を特別しているわけではない。かといって、積極的に忘れないようにしているわけでもない。忘れられないだけだ。しかしその記憶を不意に呼び起こされることには慣れていない。
──大丈夫になることはない。
だからこそ、この仕事を選んだのではないか。
千里は大きく深呼吸をし、ゆっくりと体を起こした。体を少し動かすと、急激に指先に血が巡っていくような感覚がした。一瞬だけ、眩暈に似たものを感じる。けれどそれは本当に一瞬で、直ぐに視界はクリアになった。
「起きちゃ駄目ですよ」
焦ったような声がして、千里は顔をそちらに動かした。そこにはティーカップを載せた小さなトレーを手にした祈咲がいた。
「本当にもう大丈夫だから」
声が掠れたのは喉が渇いているせいだろう。祈咲は小さく溜め息を吐いてそれ以上言うのをやめたようだった。
「麦茶、温めてきました」
トレーが眼前に差し出されると香ばしい匂いがした。湯気が鼻先を擽り、喉が鳴る。
「ありがとう」
千里はティーカップを受け取りながら礼を述べた。祈咲がそれに微笑む。柔らかな笑顔は小振りの野花を思い出させる。道端に咲いた、薄紫色の小さな花弁。千里は小さい頃その花が大好きだった。
「美味しい」
こくりと麦茶を飲むと、そう零れた。それくらいに美味しい麦茶だった。
「よかったです」
また祈咲が微笑む。
「あ、國原さんは?」
どれだけ眠っていたかはわからないが、声の掠れようからするに短時間ではないだろう。だとすると、自分のせいで先輩を待たせてしまっていることにある。
「捜査会議があるとかで、戻られましたよ」
捜査会議は夜。千里が意識を失ったのは昼過ぎ辺り。ということは相当な時間眠っていたことになる。それは紛れもなく失態だ。
「最悪だ……」
千里は頭を抱えたくなるのを抑えながらも、小さく零した。そのとき、ふ、と息が漏れるような音が静かな部屋に響いた。それは音というよりも声に近い。千里はその音がした方に視線を向けた。するとそこでは祈咲が慌てたように両手で口許を覆っている。その指は男性のわりには細い。
「……すみません」
「え?」
千里は一瞬、何故祈咲に謝られているのか理解出来なかったが、一拍も置かないうちに状況を把握した。恐らく先程のは祈咲が吹き出したものだったのだろう。
「えった、何かおかしかった?」
千里としては一体今のどこに吹き出す要素があったのかがわからない。
「あの、いや、千里さんも普通の女性だったんだなって」
祈咲はしどろもどろとでもいうように口を開く。
「私、普通の女性のつもりなんだけど」
自分から出た言葉なのに少しの抵抗を覚えた。けれど自分は普通の女性だ。そう言い聞かせるように、心の中でもう一度同じ言葉を繰り返した。
「ええと、何と言いますか、千里さんて何処か冷たい空気があるっていうか。あ、悪い意味じゃないですけど。なんとなくですが、普通の女性とは違うのかなって思ってたんです」
そんなことは初めて言われた。冷たい空気があるなど、記憶にある限りでは一度も言われたことはない。何を見抜かれたのだろうか。心外ではない。確かに自分は冷たい──いや、冷めた部分がある。それは勿論自覚しているが、誰にも悟られないようにしていたつもりだ。実際、他人にそれを指摘されたことはない。友人にも、國原にもだ。だというのに、祈咲はそれを見抜いた。彼と話したのはこの間の公園での一度きりなのに。
それも長い時間ではなかったし、仕事に対しての悩みを零した程度だ。その会話の何処から、千里の冷めた部分の片鱗を読み取ったというのだろう。それとも、会話からではないのだろうか。
「すみません、気分を害しましたか?」
黙り込んだ千里も見てそう思ったのか、祈咲がすまなそうに訊いてきた。気分を害することなどない。事実を言われただけなのだから。
「ううん、大丈夫よ」
千里は小さく微笑みを作って返した。祈咲はそれに、少し腑に落ちないような表情をしたが、千里はそれに気付かない振りをした。必要以上に接しない態度だ。
「それより、もう帰るわ」
千里は立ち上がりながら、眩暈や怠さがないことを確かめた。ふらつきなども平気そうだ。少し、頭の奥が眠いくらいだ。
「静馬さんに言ってタクシーを呼んでもらいますね」
千里は祈咲の厚意を断った。此処から自宅までタクシーで帰ったりしたら幾らかかるか。今は給料前で財布の中も寂しい。クレジットカードはあるが、電車で帰れるものに大金を使いたくはない。それを説明すると、祈咲はわかりました、と頷いた。
静馬と祈咲に謝罪と礼を告げ、千里は静馬の事務所のある高層マンションを後にした。