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ギルティメイズ  作者: 碓井旬嘉
第一章「汝、死して償え」
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第一章「汝、死して償え」

 ────人の数だけ正義がある。

 ────正義は人の数だけ存在する。

 ならば、僕は「僕」の「正義」を貫こう────。




 恐ろしく鮮やかな白だと思った。白髪ともつかず、到底地毛とも思えない程に美しく、軽やかな白。例えていうならば、白銀。僅かな翳りもなく、透明感とはまた違う。純粋な白。何者にも染められず、汚されずに保ち続けたかのような白さ。確か、真っ白な鳩はこんな色をしていた、と思う。目映い程の青空を高く舞う白鳩。けれどそれは、真っ赤な眼をしていなかったか。そして、そこにいる彼もまた、紅い眼をしているように見えた。


「おい、影石」

 その声に、はた、と我に返った。影石かげいし 千里せんりはすみません、と頭を下げた。その先には千里の上司である國原くにはら 弘輝こうきがいる。國原は潔い短髪をした、体格の良い男だった。鋭い眼光をしていて、見る者をどこか怯えさせる。

「どうかしたか?」

 國原に訊かれ、千里はいえ、と首を横に振りながらも視線を動かした。しかしそこには、目当ての人物は既にいなかった。白髪はくはつをした少年と思える人物。白いのに鮮やかだと思える髪色が印象的過ぎて、顔立ちは全く覚えていない。

「被害者は、小学校教諭の角田つのだ 隼人はやと三十歳。死因は喉を掻き切られての失血。第一発見者は被害者が担任を務めていたクラスの女生徒で、名前は……」

「ちょ、ちょっと待って下さい」

 千里はペンを持つ手を國原の胸の位置に持ち上げた。事件の概要を國原から聞きながらメモを取っていたはいいが、早口過ぎて追い付かない。今のところ、被害者の名前までしか記入出来ていない。

「ここまでで十分待った。これ以上は待てない」

 國原はぴしゃりと言い放つ。千里はそれに対して何も返す言葉はなく、すみません、とだけ頭を下げた。

 警視庁捜査一課所属の刑事。肩書きを聞けば殆どの人間が千里のことを「女伊達らに凄い」と言うだろう。しかし、実際は凄くも何ともないのだ。二十七歳という年齢も鑑みても凄いのだろうが、本人としては凄いとは微塵も思えなかった。

 妊娠を機に所轄時代の先輩が警察官を辞め、そこにそのつてで引き入れてもらっただけ。挙げ句、年配の刑事達からは事務のおねえちゃん、といった扱いを受けている始末だ。

 女に刑事は務まらない。そんな空気の中で仕事をしているのだ。幾ら信念があって就いた仕事とはいえ、やってられないと思い、やけ酒をする夜だってある。

 ──何も、そんな日に事件が起きなくても。

 今朝まで前回の事件の後処理に追われ、散々事務扱いをされた時間が漸く終わった。明日から非番ということも手伝って、今夜は大学時代の友人と居酒屋で飲んでいたのだ。

 職業柄、言えないことは沢山ある。そのなかでも言えることだけを選んで愚痴を溢しながら、三杯目のビールを呑みきったとき、スマートフォンは鳴った。

 小学校で殺人事件があった、というものだ。非番は明日から。それに今はそこかしこで事件が起きていて、捜査一課は人手不足の状態だった。突然の召集は珍しくない。

 千里は友人達に途中で抜ける謝罪をし、コース料金より少しばかり多めの金を置いて居酒屋を後にした。スーツ姿ではなく、ブラウスにフレアスカートにヒールの高いパンプス。着替えに帰る暇はないと思い、そのまま連絡を受けた現場に直行した。

 したのはいいものの、國原から即座に注意を受けた。そして、酒臭さを抜く為にシャワーを浴び、スーツ姿に着替える為に一度帰ってこいと言われたのだ。幸い、事件現場から千里の住むアパートは近く、往復して一時間弱だった。とはいえ、現場の捜査は大幅に進んでいて、今はその報告を國原から聞いているところだ。

「お前は、信念があって刑事になったんだろう」

 國原に真っ直ぐ目を見詰められた。ただでさえ鋭い眼光をしているので、視線が交わると威圧感さえある。

「……はい」

 國原は千里の前任の女刑事と親しく、千里の事情も彼女から聞いているらしい。それは彼女の親切心で、千里が少しでも刑事として働きやすいようにとの考慮であった。事実、事情を知る國原は千里のことを他の刑事のように「女だから」と馬鹿にはしない。男性刑事に接するのと同じように接してくれる。だからこそ今も、こうして厳しい言葉を掛けてくれるのだ。

 それは理解しているのだが、やるせない気分になるのも事実だ。

 しょぼくれる千里を哀れに思ってか、國原は厳しい言葉を切り、小さく溜め息を吐いた。

「後一度しか言わないぞ」

 仕方無いな、と見て取れる表情で國原は言った。

「ありがとうございます」

 千里はそれにぺこりと頭を下げ、ペンを握り直した。


「──で、生徒や親御さんから大層評判のいい先生だったらしい」

 千里が書き留めやすいようにか、國原は先程よりも幾らかゆっくりと喋ってくれた。

「……評判いいからって、いい先生だとは限りませんよ」

 ぼそりと呟く千里の頭に國原の手が乗った。くしゃり、と頭を撫でられ、千里の細い長い黒髪が舞う。國原は普段、仕事のときは千里に対して厳しく接するが、一歩仕事から離れてしまえば兄のような表情を見せてくれる人だった。

「……すみません。事件に私情は禁物でした」

 千里は少し乱れた髪を手櫛で直しながら謝った。國原の顔を見上げると、國原はいつもの厳しい顔をしていた。

「第一発見者の少女に話を聞きに行くぞ」

 國原の言葉に千里は大きく頷いた。

「それにしても、最近多いですね」

 歩み始めて直ぐに千里は國原に向かって声を掛けた。辺りはまだ鑑識やらが出入りしていて慌ただしい。遺体発見現場は被害者が勤務する小学校の体育館。そこには大きくブルーシートが張られていている。学校の周りには野次馬とマスコミが集まってきていて騒々しい。

「ん?」

 少女がは校舎内にある保健室にいるらしく、千里と國原は並んでそこを目指した。思っていたより多くの刑事が集まっているようで、事件を終えたばかりの自分達まで駆り出されたことに納得する。

「なんていうんですかね。小さい子を相手にしている職業の人が殺されているというか」

 千里の考えに國原はそれか、と頷いた。

「上層部は、同一犯の線が濃厚だと考えているらしい」

「そうなんですか?」

 夜の学校というのは本来不気味さを漂わせるはずなのに、今の此処は昼間よりも騒々しく思える。

「ああ。まだ、一部にしか伝えていないみたいだが、だから今度の事件も捜査人数を多くしたって話だ」

 何処から、と訊いてみたかったが、訊いたところで國原が答えないのはわかっていたので千里は疑問を飲み込んだ。

 このところ、今回のような事件が立て続けに起きているのだ。小学校の教師が殺されるのはこれで三人目だし、千里がこの前に担当していたのは児童養護施設の園長が殺害されたものだった。この近辺で、立て続けにそんな事件が起きている。

 これを疑問に思わないものはいないだろう。

「まあ、トラブルを抱えていない人間なんて少ない。トラブルの大小に関わらずな」

 だから、世間は殺人事件で溢れている。それでも、と思う。他人に殺される程のトラブルを抱えている人間などそうそういないようにも思えてしまうのだ。

「殺害方法が一致してます」

 千里は國原の大きな姿を横目で見上げた。

「全部、じゃないだろ?」

 そう言われてしまうと黙るしかなかった。一致しているといっても、全てじゃない。確かに、児童養護施設の園長は今回と同じように喉を剃刀状のもので切られて死んでいたが、他の小学校教諭は違う。

「早合点ですね」

 千里は自己完結をし、言葉を止めた。

「ま、上層部がそう睨んでるなら、早合点でもないかもしれないがな」

 國原は曖昧な返しをし、校舎内へと入っていき、千里もそれに続いた。夜の為、電気は所々しか点けられておらず、外よりも暗く感じた。ぽつぽつと点いた明かりは薄気味悪い。

 保健室は一階の奥にあるらしく、國原が進んでいくのを追っていく。校舎内に入るときに来客用のスリッパに履き替えたのだが、安物なのか歩きづらい。学校で来客用のスリッパを履くというのは、嫌でも自分が大人になったことを知らされるような気分だった。

 ぱたんぱたんと、スリッパの音が薄暗い廊下に響き渡る。遺体が発見されたのは体育館なので、校舎内にはまだ捜査は及んでいないようだ。これから、校舎内にも怪しいところがないか捜査するのだろうが、今はまだ静かだ。

 ──犯人がまだいたりして。

 何となく、そんな想像をした。千里はそれを馬鹿な考えだと振り払い、保健室へと向かう。保健室は煌々と電気が点いているようで、扉の磨りガラス越しにもそれがわかる。

「失礼します」

 國原が低い声で告げ、扉を開けた。保健室の蛍光灯は想像以上に眩しく、目が痛い程だ。國原の背に続き保健室の中へと入り、成るべく静かに扉を閉める。保健室の中には高学年と思われる少女と三十歳くらいの女性がいた。白衣姿のところを見ると養護教諭だろう。

鈴原すずはら 水穂みずほちゃん、でいいかな? 」

 國原が確認するように少女に訊くと、その少女はこくり、と小さく頷いた。恐怖と戸惑いが窺える表情だ。学年は五年生ということだったが中学生くらいに見えなくもない。背が高いのと、すらりと伸びた手足のせいだろう。最近のこどもは手足が長い。

「幾つか、質問をしてもいいかい?」

 そう尋ねる國原の隣に白衣姿の女性が立つ。

「鈴原さんはまだ混乱しています。後日改めて、というわけにはいかないのですか?」

 凛とした声は気の強さを思わせる。彼女は一見派手な顔立ちに見えるが、よくよく見れば化粧は薄い。元の顔立ちがはっきりしているのと化粧映えする顔立ちなのだろう。

「貴女は?」

 國原は女性に軽く視線を向けた。

「養護教諭の灰田はいだ ゆかりと申します。彼女の事情聴取は、私が付き添わせて頂きます」

 ゆかりはそう言うと名刺を國原に差し出した。

「スクールカウンセラー、ではないんですね」

 その言葉は、ならば出てくるな、という響きを含んでいる。千里は内心はらはらしながら二人のやり取りを見ていた。

「ええ、違います。我が校には専任のスクールカウンセラーはおりません。週に三日、来て頂いていますので」

「事情聴取は早い方がいい。ショッキングな出来事というのは、忘れがちです。こどもの場合は特に。なので、今夜のうちに幾つか質問させてもらい、その後も必要あらば伺います」

 國原は背筋を伸ばし、ゆかりを見下ろすような態勢で言う。大柄な男に見下ろされれば普通の女性ならば引いてしまうところだ。けれど、ゆかりは一歩も引く様子はなく顎を持ち上げ、國原を見上げた。ゆかりは小柄ではないが、上背のある國原と並べば小さく見えてしまう。

 ──ハブとマングース……。

 千里は場違いなことを考えてから、止めに入る必要性を思い出した。

「あ、あの、鈴原さんが怯えてしまいます。その辺にしておきましょう」

 千里は二人の間に割って入るようにして上手く作れない笑顔で言った。

「──失礼しました」

 先に引いたのはゆかりだった。ゆかりは持ち上げていた顎を引き、ぼんやりとした水穂に向かってごめんね、と謝る。水穂は戸惑いを浮かべながらも、何処かぼんやりとしていた。

「では、質問しますよ」

 國原はゆかりに形だけの確認を取り、椅子に座らされた水穂の前で片膝を付く。

「まず、どうしてこんな時間に学校にいたのかな」

 國原は普段とは違う、柔らかい声で水穂に質問をした。こどもへの接し方をきちんと心得ているようで、いつものような強面でもない。

「君が、角田先生が死んでいるのを発見したのは、七時くらい、ということだけど、どうしてこの時間に学校にいたの?」

 確かに、小学生が学校に残っている時間ではない。これが中学生や高校生であるならば、部活や委員会、といった可能性はあるが小学生ではないだろう。

 水穂はぼんやりとした表情を、考えるかのような表情に変えた。

「……忘れ物を、取りに来ました」

「忘れ物?」

「はい。明日の、宿題のプリントを忘れてしまって……それで……」

 小学生にしては丁寧な言葉を使う。親の教育がしっかりとしているのか。

「うん、それで?」

 國原が続きを促す。千里は会話の内容を手帳に記入しながもスマートフォンにも録音させていた。これは、書き逃しがないようにする為の千里の癖だった。

「そしたら、学校は開いてなかったんです。それで、どうしようかな、て困っていたら、体育館から声が聞こえました」

「どうして、体育館の近くにいたの?」

「五年生の下駄箱、体育館の近くなんです」

 千里と國原が校舎内に入ってきたのは来客用の場所だったので、体育館とは離れていた。けれど、高学年用の昇降口は体育館の側ということか。

「声って?」

「……叫んでいるような、怒鳴っているような」

「それで、見に行ったのかな」

「はい」

 受け答えは非常にしっかりとしている。それが千里が水穂に抱いた印象だった。しかし、これは別段おかしなことではない。いきなり非日常に放り込まれる。それに誰もが錯乱するわけではない。いや、錯乱しているからこそ、異様に落ち着いてしまう場所もあるのだ。

 こんな仕事をしていると、嫌という程事件関係者に話を聴くことがある。それが仕事だからだ。そういったとき、こうして落ち着いている人は意外と多い。

「……そしたら、角田先生が──」

「そこまでにして頂いていいですか」

 ゆかりが水穂の言葉を遮る。それを國原が睨み付けた。

「鈴原さんが怯えています」

 千里はその言葉に疑問を持った。事情聴取中、千里はずっと水穂の様子を観察していた。けれど水穂に怯えた様子はない。むしろ、淡々と説明しているように見受けられた。それでもそれは、非常時の冷静さなのだろうが、とはいえ怯えとは違う。

「まだ訊きたいことがあります」

「発見時のことはお話出来ましたよね? それなら十分なのでは?」

 ゆかりは威嚇するような目付きを國原と千里に向けてきた。千里はそれに僅かにたじろいでしまったが、國原は少しも動じた様子はない。

 千里は一歩引き、睨み合うかのような二人を交互に見た。國原とゆかりは互いに譲らず、無言の攻防を続ける。攻防というより、互いに無言で攻めているように思えなくもない。

 結局、國原が根負けをして、大きな溜め息を吐いた。恐らく此所が警察関係の場所であれば國原は引くことはしなかっただろう。此所は学校。あくまで相手──ゆかりのテリトリーだ。

「はぁ。では、最後に一つだけいいですか」

 國原は微かに眉間に皺を寄せた。

「内容によりますが」

 ゆかりは毅然とした態度のまま返す。

「……不審な人物を見なかったかだけ尋ねても?」

 極当たり前の質問。ゆかりはそれに、ええ、と頷いた。

「じゃあ、最後に、怪しい人とかを見なかったかな」

 國原はゆかりに対して取っていた憮然とした態度とは違い、先程までと同じように柔らかい口調で水穂に訊いた。

「……見てないです」

 そのとき、千里は水穂の視線が僅かに揺れるのを見逃さなかった。ゆら、と本当に僅かだが、揺れたのだ。それは、一体何を表しているのか。

「もう、いいですよね。お引き取り下さい。今後、鈴原さんに訊きたいことがあるときは、必ず私を通して下さいね」

 何故、親御さんではなく? と自然な疑問が千里の頭に浮かんだ。けれどそれは水穂の身辺を調べればわかることだ。今ここで、ゆかりに問いを投げ掛ける必要はない。千里と國原は一度顔を見合わせてから、一度撤退することを決めた。

「色々とありがとう。今夜はゆっくり休むといい」

 國原は水穂の頭を撫で、ゆかりには挨拶せずに保健室を後にした。千里は水穂とゆかりに頭を下げ、その後に続いた。

「──何か、知ってますね」

 この表現が正しいかどうかはわからないが、國原の背に掛ける。

「多分な」

 國原も同様のことを思っていたらしく、頷く。

 水穂だけではない。恐らく、ゆかりも何かしら知っていて、それは警察に知られたくないことなのだろう。もしかしたら、水穂が千里達が訪れる前にゆかりに何か言ったのかもしれない。そして、それを警察には言わないように、と言ったのか。

「調べてみる価値はあるかもな」

「そうですね」

 事件を知らされた職員達が集まってきたのか、校舎内は先程と比べ明るくなり、騒々しさも漂っている。校庭の方に目を向ければ

 野次馬もマスコミも増えている。

「よし、やるか」

 國原の意気込みに千里は大きく頷いた。


 翌日は当然学校は臨時休校となっていた。目当ての人物の到着を待つ間、千里はスマートフォンでネットニュースを確認した。トップページに今回の事件が載せられている。先週起きた児童養護施設の園長が同様の手口で殺害されたことから同一犯の可能性も視野に入れての捜査──。これは今朝の捜査会議で捜査員にも告げられたことだ。

 喉を剃刀状のもので切り裂いて殺害する。相当手練れの犯行だろう、と監察医は言っていた。そこから過去にも、似たような事件がないか、今、他の捜査員が洗っている。

「お待たせしました」

 待たされていた応接室に灰田 ゆかりが姿を現した。臨時休校の為か、白衣は羽織っていない。シンプルな薄いグリーンのツーピースだ。

 ──もっと、暗い色合いでなくていいのか。

 そんな疑問を千里は抱いた。普通、職場内の人間が死ぬと、周りの人間は無意識に暗い色合いの服装を選ぶ。喪中、というのが日本人の中に根付いているからだろう。なのに今日のゆかりの服装は、暗い色合いどころか鮮やかな色だ。

 別に、そういった服装がいけないというわけではない。ただ、なんとなく不自然というか、気に掛かるのだ。ゆかりはそんな千里の視線に気付かず、千里太刀の向いの席に腰を下ろした。タイトスカートは丈が短めなのか、座ると太股の半分近くを晒してしまっている。ストッキングを穿いた脚はどこか艶かしい。

「鈴原さんではなく、私で宜しいのかしら?」

 ゆかりが脚を斜めに伸ばした。元々綺麗な形の脚をしているが、その姿勢は更に美脚に見せる。

「ええ。貴女にお伺いしたいことがあります」

 國原はそんなゆかりの美脚には一瞥もくれずに口を開く。

「答えられることでしたら」

 相変わらず毅然とした態度で臨むゆかり。千里は此所に来る前に國原に言われたことを頭の中で反芻した。

 ──灰田 ゆかりの一挙一動を観察するように。

 國原が質問をし、千里がそれを観察する。少しでも怪しいところやおかしなところがあれば、すかさず書き留める。千里はそれを胸に刻み、ゆかりの姿だけを目に映した。

「貴女は、何故昨夜あの時間に学校にいたんですか? 他の職員は全て帰られていましたよね?」

 夜の七時。絶対に誰もいないと言い切れる時間ではないが、夕べに限ってはゆかり以外の職員は出払っていた。いたのは用務員である年配の男性一人だ。

「仕事が残っていましたので」

「仕事とは?」

「労災の書類です。授業中に怪我をしたこどものものです」

 ゆかりは単調に受け答えをしていく。今のところ、おかしなところは何もない。視線も真っ直ぐに國原に向いているし、瞬きの数が多いということもない。手の位置も、ずっと腿の上で重ねられている。

「そういったことは普段はあまりないとお聞きしましたが?」

 これは昨日のうちに他の教職員に訊いていたことだ。保健室を後にし、その足で教職員の集まる職員室へと向かった。今後のマスコミや保護者への対応に頭を悩ませる教職員の数人を捕まえて訊いたのだ。

 教職員達は突然の出来事に戸惑いを隠せておらず、こちらの質問について考える余裕もなさそうに答えられることは答えてくれた。そのうちのひとつが、ゆかりの滞在についてだった。ゆかりは他の職員達と違い、事件の連絡を受けて学校に戻ってきたのではなく、ずっと学校にいた、ということだったからだ。

 いつも、そんなに遅くまで彼女は残っているのかと訊くと、答えてくれた全員が、それはない、と返してきた。彼女はいつも定時には帰っていく。それが全員の答えだった。

「たまたま、です。滅多にないというだけで、全くではありませんから。私、これからスクールカウンセラーの先生と打ち合わせがありますので、失礼しますね」

 ゆかりは答えるとこちらの返答を待たずに、応接室を出ていってしまった。残された千里と國原は思わず顔を見合せた。

「……完全に何か隠してるな」

 千里はそれにですね、と頷きながらも、妙な引っ掛かりを覚えた。いや、妙な引っ掛かりどころではない。完璧に引っ掛かる。ゆかりと話したのは、昨日今日と少しだけ。しかも、話した、と言えるのは國原であって先生ではない。それでも彼女が頭の良い──賢い人間だというのは肌でわかった。

 顔付きも知性が感じられるし、毅然とした態度もそうだ。そんな彼女ならば、こちらに不信感を抱かせないことなど容易いことではないのだろうか。何か物事を隠すならば、もっと上手く立ち回りそうなものだ。なのに、ゆかりからは何かを隠し立てしている気配しかしない。だとするならば、それはきっと、わざと、ではないか。

 千里は行き着いた結論を國原に告げたが、メリットがない、と一蹴されてしまった。

「そう……ですよね。下手すれば、自分が疑われかねないですもんね」

 そんなリスクを犯す人間などまずいないと言っていいだろう。だとしても、ゆかりの行動は気になるものがある。

「うーん、行ってみるか」

 悩んだ表情を隠せずにいた千里に、國原がぽつりと言った。

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