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ギルティメイズ  作者: 碓井旬嘉
第二章「深淵と深淵」
16/16

6

「寒くないですか?」

 木々が葉をなくした公園は晴れの日だというのにどこか物悲しく感じられる。覆い繁るかのような夏の緑が途端に恋しくなった。

「大丈夫よ」

 千里は小さく笑みを浮かべて返した。肌寒いが、我慢出来ない気温ではない。それに、祈咲がカイロ代わりに、と買ってくれた缶のミルクティーが掌をじんわりと暖めてくれている。

 千里の過去の話はカフェなどで話せるような内容ではない。なので、こうして近くの公園を選んだのだ。

 そういえばまだ夏の暑い盛り、祈咲と此処で会ったことがある。それは遠い昔のようでもあるし、つい最近のことのようでもある。それは、祈咲の服装のせいかもしれない。

 彼は夏場でも肌の露出が全くない。今はそれに厚手のパーカーを羽織っているだけだ。だから妙な感覚になるのだろう。

「知っていると思うけど、それは、私が小学校四年生のときだったの」

 千里は手の中で温かい缶を回しながら口を開いた。冷えたベンチが体を冷やすような感覚がする。それでも、自らの体温でそれは忽ち消えた。

 祈咲は千里の隣に腰を下ろし、同じようにミルクティーの缶を手にしている。その横にはスーパーの白い袋があり、彼が買い物帰りだというのが窺える。

 それは、暑い夏の日だった──。

 千里は祖父に買ってもらったばかりの真白のワンピースを着ていた。ノースリーブで、スカート丈は膝が出る程度。ふんわりとしたシルエットに、祖父にねだって掛けさせてもらったパーマが合わさると何処かのお嬢様になったような気分が味わえた。

 両親が蒸発し、祖父は住んでいた家を手放し、今は安い借家に住んでいる。周りの大人からは「可哀想」にだとか、「大変ね」と言われるが少女の頃の千里にはそんな自覚はなかった。

 祖父の年金は決して少なくないし、家を売って両親の借金を肩代わりはしたが、それでもまだ金は残っていた。多額ではないが、二人が暮らすには多少の贅沢は出来る程度。

 それに何より、祖父は優しかった。千里は両親の記憶に、良い感情を抱いてはいなかったのだ。いつもピリピリし、事ある毎に叱られた。それは些細なことでもだ。

 借家で金がないせいか、新しい服を買ってもらえることも、皆が持っているゲームや玩具を買ってもらえることもなかった。

 洋服はいつも母親の知り合いから貰うどこかセンスの古いお下がりで、流行りのゲームを出来ないばかりに友人もいなかった。

 しかし、祖父はそんな両親とは正反対だった。本当に、父親の父親なのかと疑いたくなる程に、祖父は優しく、千里が望むものは買い与えてくれた。

 祖父はセンスが良く、彼が買ってくれる洋服が千里は大好きだった。この日着ていたワンピースも、一目で気に入り、汚したくないが為に学校に着ていくことはしなかった。

 日曜日に袖を通し、緩く巻かれた長い髪を靡かせて近所を散歩する。それが千里の楽しみだった。

 両親と共に東京にいた頃は「貧乏の子」と呼ばれ、学校や近所

 に友達は一人もいなかった。けれど、祖父に引き取られ、静岡の学校に転入すると世界は変わった。

 可愛い服に身を包み、毎朝祖父が器用に結わえてくれるツインテール。クラスの子は千里を「可愛い」と口を揃えて言い、近所の大人達は微笑んで「美人ね」と言ってくれた。

 だから、こうしてお気に入りの服を身に纏い、長い髪を靡かせていると、とても気持ち良かった。世界には嫌なことなど何もなく、毎日が楽しかった。そう、あの瞬間までは──。

 いつも日曜日にしているように、遠くに見える茶畑を横目で見ながら道を歩いていた。昼過ぎからは友達とお菓子作りをする約束をしている。祖父にあげたなら、笑顔で喜んでくれるだろう。

 千里は出来上がったカップケーキを祖父に渡すところを想像し、頬が緩むのを感じた。

 いつも人通りは多くない道だった。しかし、近所の家に来訪があれば車が停まっているのもいつものこと。土日になれば都会からの来訪が多い。

 だから、そこに車が停まっていることに何の疑問も抱かなかった。確かに、初めて見るグレーのワゴン車だった。けれど、その家の息子さんは以前にも車を買い替えていた。息子さんが勤める会社のギョウセキがいい、と近所のおばさん達が話していたのを覚えている。

 ギョウセキとは何だろうか、と思ったから覚えていたのだ。

 千里は目新しい車に興味はなく、その隣を通り過ぎようとした。窓には目張りのシールがあり、中は見えない。しかし、そういった車は別段珍しくなどない。

 車を通り過ぎ、道を真っ直ぐに進もうとしたそのとき、ワゴン車の扉が静かに開いた。中から人が出てくる、と避けようとしたそのとき、強い力で腕を掴まれた。

 何が起きているのかわからず、それでも無意識に悲鳴が出そうになったが、それが外に響く間もなく、扉は閉められた。

 ──何が、起きたの?

 千里は転がされたように車内に引き摺り込まれ、最初は確かに座席の上に背中をつけていたはずが、直ぐに足元の部分へと押し込まれた。そのとき、運転席のシートに額をぶつけた。擦るようにしてぶつけた為、人より少し広めの額がひりひりする。

 誰かが、後部座席から運転席へと移動する影が過った。運転席と助手席の隙間から器用に移動する様は慣れているかのように見えたが、一回だけ足を千里にぶつけてきたので、ぼんやりと何度か練習したのだろう、と思った。

 何故か、声をあげることはしなかった。それは千里が状況を把握出来ていないからだった。本来ならば足を置くところに押し込まれ、簡単に起き上がることが出来ない。きっと、シートを最大限前に持ってきているのだろう。

 ぶぅん、と車体が微かに揺れ、それがエンジン音だと気付いた瞬間、千里は急いで体を起こした。狭いところに強く押し込まれたせいで肘の骨と背骨が僅かに痛い。

 どうにか体を起こしたタイミングで発車してしまった。

「降ろして下さい」

 千里は運転席に向かって叫んだ。そこでは、二十代半ばくらいの男がハンドルを握っている。野球帽を目深に被っている為、顔はよく見えなかったが、半袖から伸びた腕や服装から若い男だと思えた。

「ねえ、降ろして」

 一言目で車が止まることはなく、男は千里の言葉を無視した。いや、無視したというより、耳に届いていないといったふうだ。男の顎や腕はふるふると小刻みに震えている。そして、何やら小声でぶつぶつと呟きを繰り返していた。

 その頃には千里の中にはっきりとした恐怖心が芽生えていた。

 ──浚われた。

 知らない車に、知らない男。これは、誘拐だ。

 車内は冷房で寒い程だというのに千里は背中にびっしりと汗をかくのを感じた。

 ──嫌だ。怖い。

 単純な言葉だけが脳裏を埋め尽くす。

「お願い、降ろして」

 頼むことに意味はあるのか。それでも千里は声を出した。けれど、男に千里の声が届いている様子はない。

 ──どうしよう。どうしよう。

 千里は自身の体が震えていくのがわかった。それでも車は止まらない。千里はもう無理矢理降りるしかないと思い、扉に手を掛けた。その手は酷く震えている。

 飛び降りる覚悟を決め、扉を引いてみたがそれはびくりともしなかった。鍵がかけられているのだ。

 千里はそれすらわからず、がちゃがちゃと取っ手を何度も動かした。それと同時に、窓を開けるボタンも押す。けれど窓が開いてくれることもなかった。

「嫌、嫌。開いてよ。降ろしてよ」

 千里は半ば錯乱しながら、何度も取っ手を引き、何度もボタンを押した。

「お願い、開いて、開いてよ」

 車はスピードを上げ、どんどんと進んでいく。目張りをしているせいで薄暗い外の景色は知らないものへと変わっていく。それがまた千里の中の恐怖心を煽る。

「嫌だ、降りたい。おじいちゃん……助けて」

 千里は譫言のように同じ言葉を繰り返しながら何度も同じ動作を繰り返す。それでも状況が変わることはない。涙が自然と溢れ、全身が震え出す。

 これから先に何が待ち受けているのか想像も出来ないが、恐怖だけが千里の心を覆っていく。

 不意に、停車した。どうやら、信号に掴まったらしい。千里は漸く止まった車に僅かな安堵を覚えた。そして、扉から離れ、運転席へと近付いた。

「お願いします、降ろして下さ──っ」

 がつん、という初めて経験する衝撃に、目の前に火花が散ったような映像が見えた。真っ暗なところに、ぱちぱち、と小さな火花が飛ぶ。

 千里は咄嗟に掌で顔面を覆い、それで漸く裏拳で鼻を殴られたのだと気付いた。鼻骨は痛み、鼻血が垂れていることに気付いた。掌に垂れた、真っ赤な血液。初潮もまだ迎えていない千里にとって、小さな傷口から滲む程度しか血液には馴染みがなかった。

 それなのに、今、千里の白い掌には小さな血溜まりがある。五百玉サイズの血液。

 それだけのことで、恐怖が全身に蔓延した。

 躊躇のない暴力。真っ赤な血。それは、幼い千里の心を一瞬にして蝕むのには十分な要素だった。

 これ以上騒いだら殺されるのではないか。しかし、このまま連れ去られても殺されるのではないか。

 連れ去られる恐怖から、死の恐怖へと変わる。殺されるとは、一体どんな感覚なのか。どんなふうに殺されるのか。

 そもそも何故、自分がこんな目に遭っているのか。

 次々と湧いていく恐怖は千里の中を埋め尽くし、その口を閉ざさせた。

 その間にも車はどんどんと道を進め、周りの景色は全く知らないものになっていた。

 口の中がからからに渇いていて、舌が上顎に張り付くのが気持ち悪かった。だというのに、背中や掌にはべっとりと汗をかいている。そして、全身が震えた。

 後部座席に腰を下ろすことも出来ず、足元の部分に踞るようにして身を潜めていたのは再び殴られることを恐れてだった。鼻血がお気に入りのワンピースに滴り、赤黒い染みを作っている。

 それは身を屈めると丁度視界に入り、そこからまた恐怖が込み上げる。胃液と共にせり上がる恐怖に、思わず口許を覆った。すると、掌で乾きかけた血液の臭いが鼻の奥に届く。

 状況すら理解も把握も出来なかった。一体、自分の身に何が起きているというのか。エンジンの振動が下半身に響き、更に吐き気が込み上げる。それと、車の中は異様に臭かった。何の臭いかはわからないが、何かが腐敗したような臭いがする。

 今まで気付かなかったのは混乱していたせいだろう。今だって勿論混乱してはいるが、少しずつ脳の奥が冴えてきた。

 ──誘拐、されたのだ。

 先程よりも、はっきりとそう思えた。自分はもう、家に帰ることは出来ないのかもしれない。祖父に会うことも二度と叶わないのかもしれない。

 涙が溢れた。それは恐怖によるものだったのが、そのときの千里の中では、哀しみだった。自分はもう、二度とつい先程まで当たり前だと思っていた生活には戻れないのだ、と。

 再び殴られることを恐れ、千里は小声で泣いた。小さな嗚咽を洩らし、このあと訪れるであろう恐怖にうちひしがれた。

 ──きっと、殺されるのだ。

 毎年、何件かは報道される誘拐のニュースを知っていた。どの児童も皆、生きては帰っていない。殺されて、山中に棄てられたりするのだ。

 涙は止まらなかった。帰りたい。死にたくない。嫌だ。

 喚きたい気持ちが止めどなく溢れてくるが、ワンピースに落ちた血がそれを許さなかった。

 短い人生で経験したことなどない恐怖が、千里の全てを埋め尽くしていた。


 どれだけの時、身を屈めて泣いていたのか。不意に車が停まった。車体が乱暴に揺れ、エンジンの振動が伝わらなくなった。

 ──ああ、殺される。

 千里は更に涙を流した。しかし、諦めるには至らなかった。もし、車を降ろされるならば、その隙に走って逃げることは出来ないだろうか。どうにか、男の腕を振り払うことは出来ないだろうか。

 帰りたかったのだ。祖父が待つ、あのアパートに。その思いだけで、恐怖が全身を支配し、思考が停止しそうになるのをどうにか抑えた。

 男が車から降りるのが視界の隅に入り、千里はそこから必死に逃げ出すシュミレーションを脳内で繰り返した。扉が開いた隙がいいか、それとも腕を掴まれたならそれを思い切り振りほどくべきか。そして、取り敢えず、駆け出す。

 闇雲にでいい。何処かに家があれば飛び込む。山中などであれば、ひたすら走る。どうか、ここが住宅街などであればいいのだが。

 恐怖で外の景色を確認していなかった自分を恨んだ。しかし、それは悔やんでも遅いことだ。取り敢えず、男から離れることを考えるしかない。

 千里は意を決して、震える手を抱え込んだ。

 すると、背中側の扉がスライドして開いた。ねっとりした風を腕に感じる。

 ──怖い。

 自分を拐った男が近付いてきたことに震えた。男が運転しているというのは、千里にある種の安心感を与えていたのだ。運転している限り、そうそう自分に対してその手が伸びてくることはないのだ。

 ──でも、逃げなきゃ。

 そう思った瞬間、ぐい、と髪の毛を引っ張られた。背中を向けていたせいで腕を掴めなかったのだろう。

「痛……っ」

 ぷちぷち、と何本か髪の毛が抜けたのがわかる。その痛みと、予想していなかったことに一瞬思考が止まる。

 髪の毛で引き摺られるようにして車から降ろされた。あまり抵抗せずにいたのは、車中に籠っても助からないからだ。本当は怖いし、気持ち悪かった。

 見ず知らずの男にこうして触られることは怖い。出来れば車中で踞って抵抗したいが、それでは逃げられない。

 車から引き摺り降ろされ、外へと転がった。地面は砂利で、腕が擦れた。尖った小石があるのか、二の腕に刺さり、小さな痛みを感じる。

 ──今だ。

 男が髪の毛から手を離した隙に、千里はどうにか身体を起こし、立ち上がろうとした。

 ──今しかない。

 後少しで立ち上がるというそのとき、思い切り顔を殴られた。そしてまた、地面へと落ちる。左頬に強すぎる衝撃を感じ、目が回った。

 しかし、そこが住宅街であることだけはわかった。家が、ある。家が建ち並んでいる。辺りはすっかり暗くなっていたが、家々の窓から灯りが漏れている。

「だれ……」

 誰か助けて。

 そう叫ぼうとした瞬間、地面に背中を押し付けられ、口を塞がれた。大き過ぎる力は、こどもの千里に抗えるものではなかった。それでも、塞がれた口から声をあげた。

 小さな唸り声のようなものが二回程自分の耳に届いた後、今度は腹部に衝撃を感じ、何が起きたのかわからないまま、千里を意識を手離した────。


 そこからは、地獄だった。

 千里を拐ったのはまだ若い男で、どう見ても二十代半ばくらいだった。千里を──恐らく──自分の家の中に運んだ後、その足を鎖で繋いだ。それは風呂場で、トイレは目の前にあり、動ける範囲で用は足せた。

 戸建ての家だとは思うのだが、家の内部は全くわからなかった。動けるのは風呂場とトイレの範囲だけだ。

 着替えもなく、食事は一日に二回、朝と夜に与えられた。最初は食事をする気にもなれなかったのが、無理矢理口に突っ込まれた。拒否するように口を閉ざすと、殴られた。

 自分の身に何が起きているのか、それでもまだ理解出来なかった。いや、千里の脳は理解することをやめていた。

 拉致監禁。

 自分の身にそんなことが起きていると、理解したくなかったのだ。

 男は毎日背広を来て仕事に行き、帰ってくるのは遅い時間だった。時計もないので正確な時間は不明だが、夏場の空が真っ暗になってから帰宅してきていた。

 風呂場とトイレには磨りガラスがあり、そこからだけ時間の経過がわかった。

 冷たい風呂場で眠り、冷たい風呂場で一日を過ごす。それでも夏の暑さ暑さに参りそうになることはあった。それでも与えられて水を飲み、浴槽の水で足や手を冷やして凌いだ。

 途中からは腹が減り、与えられたコンビニ弁当やパンを無言で食べた。けれど、恐怖がやむことはなかった。

 男は千里に性的な暴行を加えることはなかったものの、殴ったり蹴ったりすることは多かった。理由は何もない。

 帰宅したと思えば、真っ先に風呂場に来て千里を殴った。風呂場から去ったと思えば、少し時間を置いて蹴りに来た。

 その度に、千里の身体には痣が増えた。その度に、恐怖が心を蝕んででいった。

 しかし、朝から殴られたり蹴られたりすることは一度もなかった。朝は風呂場に顔を出したと思うと、食事だけを置いていった。

 男が口を開くことはなかった。一度も、ではないが、殆ど男の声を聞いた記憶はない。あるとすれば、帰宅したとき、臭い、と言われて頭からシャワーの水を浴びせられたことくらいだ。

 臭いのは仕方無いのに、と千里は麻痺し始めた心でそう思った。

 この夏場、冷房もない風呂場に閉じ込められ、身体を洗っていなければ、服も着替えていない。下着だって取り替えていないのだ。自分でも、自身からすえたような臭いがするのを感じていた。

 殴られたり蹴られたりするとき、その都度死にたい、いっそ殺してくれと願った。それほどまでに男の暴力は一方的で強いものだった。千里の小さな身体は、いつも痛んでいた。

 しかし、千里が死ぬことを望んではいないのか、死ぬまでの暴力は与えられず、反対に食事と水分だけは確りと与えられた。死ぬな、と脅されている気分になった。

 腹が減るのも、喉が渇くのも防げることではなく、与えられるものを摂取した。生存本能もあるが、男から脅されているという意識が強かった。もし、与えられた食事や水を口にしなければ、それだけで酷く暴力を振るわれる気がしてならなかったのだ。

 男は完全に、暴力で千里を支配していた。

 監禁されて何日が経過したのかもわからない。男が仕事に行っている間だけが安息を得られる時間だった。

 殴られることも、蹴られることもない。なので、磨りガラスから入り込む光が翳ると千里の心は怯えた。

 また、殴られる。また、蹴られる。

 暑くてこのままでは死ぬと思い、シャワーを勝手に浴びた日があった。熱中症になりかけたのか、頭が重く、吐き気がした。だから、水を浴びた。

 それが知られたとき、いつもよりも多く殴られたし、蹴られた。その度に、足に繋がられた鎖がちゃらちゃらと鳴り、千里は痛みから意識を逸らす為にその音だけを聞いていた。

 何故か、叫ぼうとは思えなかった。

 ここは住宅街だ。叫べば誰かが気付いてくれたかもしれない。それでも叫ぶ気が起きなかったのは、恐らく初日のせいだろう。

 男は千里を監禁した初日、もし騒いだら殺す、とだけ言って盛大に暴力を振るったのだ。そうだ、そのときも男の声を聞いた。何の特徴もない、記憶にも残らない声だった。

 執拗なまでに暴力を振るわれ、千里の精神はそこで一旦崩壊したのかもしれない。だから、殴られても蹴られても声をあげることもせず、男が留守にしている間も助けを叫ぶこともしなかった。

 平和な日常から、地獄へと突き落とされた日。

 気付けば、夏の暑さは更に増していた。

 身体中が痛くて、それなのに心は何も感じず、しかし暴力を与えられているときだけは強い感情が芽生えた。いつしか、景色は真っ白になっていた。

 いるのは確かに風呂場だというのに、そこは真っ白な部屋にしか思えなかったのだ。

 真っ白な空間に身を置き、既に千里の血などで汚れたワンピースも真っ白に見えた。色がなくなっていたのだ。

 ──それから後のことははっきりと記憶出来ていない。

 ただ、ひたすら与え続けられる暴力のだけを身体が覚えている。腹を蹴られる度に一瞬止まる呼吸。頭を叩かれる度に感じる目眩。頬を殴られると口に広がる血の味。それらだけはやけに鮮明に覚えていた。

 誰か、助けて。

 誰か、私を救って。

 何度も心の中で叫んだ。

 痛む身体を縮こまらせて、泣いた。

 ──いっそ、殺してやろうと思った。

 こいつさえ、殺してしまえば、この地獄は終わる。

 ──けれど、殺せるものがなかった。

 いや、躊躇ったのだ。人間を殺すということを。

 恐らく、無我夢中になれば相手が大人の男であろうが殺すことは出来ただろう。けれど、それは千里には出来なかったのだ。

 だから、何度も頭の中で男を殺した。殴られているとき、蹴られているとき。男をぐちゃぐちゃにして殺した。原型を留めない姿に変えた。

 けれども、男は生きていて、また、千里に暴力を加えた。死にたくるほどの暴力を。

 いつの間にか、どちらが現実かわからなくなっていた。

 この手で殺したのか。それとも、殺していないのか。殺す度に、誰かが駄目だと叫び、それでも殺せと言い、でも男は生き返る。

 千里の意識が朦朧とし始めていたからだ。


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