5
視界に入り込むのは、祈咲の心配げな顔。普段は綺麗な弓形の眉が今は下げられている。大きな黒目に自分の顔が映り込み、それは今の自分ではなく、幼い頃の自分に見え、また動揺が振り返しそうになる。
──大丈夫。私はもう、大丈夫。
震えそうになる体を抑え込む為に、自身に嘘を吐いた。お前はもうあのときの自分ではない。もう、大人になったのだ。もう大丈夫なのだと言い聞かせてやる。
「大丈夫ですか?」
己への言い聞かせを助長してくれるかのような祈咲の声が届くと、すう、と下がり掛けた体温が戻っていくのを感じた。
「あ、うん、大丈夫よ」
出した声が震えていないことに安堵する。
「先生、やり過ぎですよ」
たしなめるような祈咲の声に、静馬が大袈裟に肩を竦めて見せた。
「すまないね。悪気があったわけではないんだ」
静馬の謝罪に、千里は頭の隅でそうだろうな、と思った。心はまだ正常を取り戻してはいない。しかし、静馬の言葉の意味はやけに理解出来た。
静馬は何も、自分を追い詰める為にそんなことを言ったのではない。それは、ある種の警告のように思えた。それが一体何の警告なのかまではわからないが、事件を深追いすることはやめるべきだ、と暗に言われたのだと思える。
深追いすることが自分の首を絞めることになる。深追いすれば、見なくていいことに、知らなくていいことに直面するだけだ。
静馬はそういった意味合いを込めて、千里の過去に触れてきたのだろう。
それは一体どうしてなのか。
「大丈夫です」
千里は額にうっすらと浮かんだ汗を拭いながら静馬へと言葉を向けた。それに静馬が今一度、謝罪の言葉を口にする。
「お前が何を思って、影石を苛めたいのかは知らないが、必要以上に人の過去を知ろうとするのはお前の悪い癖だ」
國原が静馬を詰るような素振りを見せたので、千里は慌てて大丈夫ですから、と國原を止めた。確かに、勝手に人の過去を調べあげるのは誉められた行為ではない。けれど、今はこの話題を終了させてしまいたかったのだ。
國原は不満を露にしながらも、お前がいいなら、と口を閉ざしてくれた。
「私は自身の深淵など知りません。ですが、この事件の犯人は必ず逮捕したいと思っています」
自身の深淵など、ない。
あれは、深淵などではない。深く沈んだりせず、常に浮上しているのだ。それを無理矢理抑え込んでいるのに、深淵であるはずがないのだ。
「成る程ね」
静馬はそれだけ言い、長い足を組み換えた。綺麗な折り目のついたズボンはいつもクリーニングに出しているのだろうか。着ているスーツにも皺ひとつない。
「しかしね、僕は既にお手上げ状態なんだよ。情報の少なさもあるが、これは人間が止められることではない」
人間が。
その言い回しは不思議なものだ。警察が、ではなく、人間が、と静馬は表したのだ。
「どういうことだ?」
静馬の言葉にいち早く反応を示したのは國原だった。
「修羅の所業、という言葉があるだろう? これは、まさに、それなんだよ」
言葉としては知っている。確かに、今回の事件は残忍でもあると思う。──本当に?
千里の中に疑問が芽生えた。
残忍且つ狡猾、という言葉を刑事という仕事を始めてから幾度となく耳にした。けれど、この事件はそうではない。
被害者は殆どが即死状態だし、なぶられたような痕跡もない。遺体を損壊されているわけではないし、その殺しには──正しい表現とは思えないが──理由がある。
「その表現は違わないか?」
國原も千里と同じことを思ったようで、静馬に対して異論を唱えた。
「この事件の犯人は、正義の味方気取りだ。犯人は、児童を傷付ける大人を殺し、正義の味方だと悦に入っている」
──それも、どこか違う。
國原の意見は捜査本部でも持ち上がっているものだ。確かにそういった見方もあるとは思う。何より、犯人本人がこれは正義だと言っているだから。
しかし、だからといって「正義の味方気取り」だとは思えなかった。
「だから、だよ」
静馬はやけに静かな口調で言った。
「人殺しを正義だと宣われるのは、修羅しかいないのさ」
どうやら、静馬と國原は同じ考えらしい。
「お前がそんなことを言うなんて、珍しいな」
國原は驚きを隠せないといった表情で静馬に視線を向けている。國原曰く、静馬はゲームとして推理を楽しめるのであれば殺人すら許容する節のある男。だというのに、静馬の今の発言は殺人を否定しているように思えた。それは道徳として当たり前のことなのだが、静馬の発言とすると不思議なものだ。
「そうかい? 別に珍しい発言ではないさ。これがね、愉快犯であるならば、修羅だなんだとは言わないさ。それは、頭がイカれているだけだ。──失礼、言葉が悪かったね。精神異常者、或いは精神崩壊している、精神に異常をきたしている、といったところかな。あとは、僕のような常識欠落者だね」
静馬は自身に足りないものを自覚しているようで、自嘲的な笑みを浮かべた。
「しかし、この犯人は、そのどれでもない。殺人を善の行いだと思っている──いや、言葉が違うな。児童を助ける為ならば殺人をもいとわない。寧ろ、それは必要なことだとさえ思っている」
静馬の考えはよく理解出来た。その通りだ。
この犯人は嬉々として殺人を犯しているわけではなく、児童を助ける為に人を殺している。そしてそれを、人助けのように思っているのだろう。
「行き過ぎた義賊、とでもいうところかな」
かつての時代劇でそういったものがあったように思う。人助けの為に、人を殺す。しかし、それは本当に人助けなのだろうか。
「話を蒸し返してしまうようで申し訳ないのだが、君は当時、どうだったんだい?」
「え?」
思考がぐるぐると渦を巻いているところに突然質問をされ、千里は場違いな間の抜けた声を出した。
「おい」
それを國原が諌めるように制止の声をあげる。
「君は当時、誰かがそいつを殺してくれたなら、救われたと思うかい?」
ぐるり、と視界が反転するような気がした。
真っ白な部屋。何もない部屋。気持ちの悪い息遣い。撫でられる肌。殴られる顔。蹴られる腹。
それらが一気に感覚として蘇ってきた。
「……私は」
何度も同じところを突かれると、隠し覆っていたはずの膜は破れ易くなる。
千里は一生懸命膜の破れが拡がらないように意識を今に集中させた。
「私は、そうは思いません」
──本当に?
今の自分の声とは違う声が脳内で重なる。これは、誰の声なのだろう。幼い頃の自分の声とは少しばかり違っている。
きっとそれは、犯人と同化しかけている幼い頃の自分の声なのだろう。
それを無理矢理に振り切ろうとする。
「……あのとき、あいつを殺してもらっても、あの時間がなかったことにはなりません」
自分でもそれが的外れな返しだとは気付いている。静馬が尋ねてきていることは、そういうことではないのだ。自分を傷付ける者がいなくなったら、お前の心は救われたのか、と尋ねているのだ。
制裁をしてもらえることに意味はあるのか、と尋ねられているのだ。
それは、正直なところ、わからなかった。
現にあの男は今も何処かで生きているのだろうし、もしかしたら同じをことを繰り返そうとしているかもしれない。刑期は既に終了しているはずだ。
「それに、苦しむ児童だって、いるはずです」
「苦しむ?」
千里の言葉に静馬が反応をした。
水穂のことをどこまで口にしていいのか悩む。これは、國原にも報せていないことなのだ。祈咲にはこの間、少しだけ話してしまったが、それは今は考えないことにした。
「仮定の話ですが」
千里は迷い、そう前置きすることにした。
「自分を傷付ける相手を殺してもらい、今は解放されたように思え、安堵感を得るかもしれません。けれど、いつしかそれに苦しむようになる可能性だってあります」
少しばかり、水穂の現状とは変えて話した。
「思春期になり、大人になり、あのことは正しかったのかと悩み、苦しみ、罪悪感に苛まれる可能性だってあります」
自らの手ではないとしても、それは間接的に人を殺したことになるのだ。
「そうですかね?」
そう言ったのは、静馬でも國原でもなく、祈咲だった。
「え?」
「だって、殺してもらえたことで、そのこどもは自由を得るんですよ? 大人になることが出来るんです。傷付けられたままでいたら、自分が殺されたかもしれない。自分のないまま、暮らし続けなくてはならなかったかもしれない。それならば、あのとき、救いを求めておいてよかったと思うこどもだっているかもしれない」
祈咲は真っ直ぐに千里の目を見ながら少し早口で述べた。
その意見に関しては、確かに、と思わずにはいられなかった。全ての児童が罪悪感に苛まれるとは限らないのだ。
「お前は犯人の行いを肯定するのか」
國原が詰問するような口調で祈咲へと視線を向けた。祈咲は千里の向かいに座っていて、國原の言葉に対して顔を動かすことはしなかった。
「そういうことではありませんよ」
祈咲の声はいつもより低く、無表情に見えた。黒曜石のように、艶のない瞳がちらりと國原を見やる。
「じゃあ、貴方達は犯人が逮捕された後、千里さんのようなこども達を救えるか、と言っているんです」
祈咲の言葉に、彼もまた、千里の過去を知っているのだと知る。あの日々のことを。それに軽い目眩を覚えた。
「しかし、犯人だとて、全ての児童を助けられているわけではない」
それでも、少なからず犯人の手に因って命を救われた児童がいるのも事実なのだろう。
「そういう、鼬ごっこな会話はやめないかい?」
目線だけで睨み合うようにしている祈咲と國原に、静馬が冷ややかな声を浴びせた。
「失礼だが、その会話に終わりはないよ。救う、救えない、どちらでもないんだ」
静馬の言う通り、二人の会話に終わりはないだろう。一人でも多く救えればいいのか。一人も漏らさず救えるならば意味はあるのか。そんなことは、神様にだってわからないことなのだろう。
いや、この世界に神様などというものはいないのだ。それは、千里自身、痛感している。
「すみません、先生」
祈咲は國原に向けていた視線を静馬へと移し、小さく頭を下げた。はらり、と白髪が揺れる。
「いや、祈咲の言うことにも一理はある。けれど、問題はそこではないんだよ」
静馬はそれだけ言い、続きを口にすることはなかった。
その後はこれといった話が出ることもなく、その日は解散となった。
──本当に、そんなことになるのだろうか。
祈咲は暗闇で自身のスマートフォンを見詰めながら思考を巡らせた。
今日は何の通知もない。
「もっと、上手くやればよかったのかな」
ぽつりと言葉が漏れる。
最初はそれも考えた。そうしてみたこともあった。実際、最初の頃はその手段を選んでいたのだ。
けれど、それにあまり意味がないことに気付いたのだ。それでは、救いを求められることはない。
決して、崇め奉って欲しいわけではない。寧ろ、そんなことは望んでいないのだ。自分が神様などだと思うことないし、この世に神様なんてもなのはいないと知っている。
ふと、鏡に映る自分の姿が視界の隅へと入り込んだ。暗闇にいることが多いせいか、目はそれに慣れていて輪郭程度なら容易に掴むことが出来る。
そして何よりも、その「白」は暗闇の中で浮いている。ぼんやりとそこだけが浮かび上がり、顔立ちは見えない。
それはまるで、自分そのものを映し出しているかのようだった。
自分の為になど生きていない自分。
そこに、感情などはもう、ない。だから、顔の中身などあるはずもないのだ。
「後悔なんて……しないよ?」
誰ともなく、言った。それは、千里に向けてなのか、それともこども達に向けてないのか。それは、祈咲にもわからないことだった。
少なくとも、自分は後悔などしたことはない。あのことが間違いだったなどと思ったことはない。
しかしこの間、千里に手料理をご馳走になった日、苦しんでいる少女がいることを聞かさせた。そのとはそれは、一過性のものだと思い込もうとしたし、今もそう思っている。
──救ってあげられればよかった。
不意にそんな考えを抱き、パソコンを立ち上げる。僅かに焦れったい時間が流れ、パソコンは起動する。暗闇だったそこは、パソコンの辺りだけが異様に明るくなり、その光は周囲にも手を伸ばすようにして、暗闇というものを減らす。
かちりとファイルをクリックすれば、そこには文字の羅列が浮かび上がる。
『影石千里』
そのファイルは、千里に関するものだった。静馬が調べたものをこっそりコピーしたものだ。そこには、千里の産まれたときから、今に至るまでの経歴がある。
この間聞いた、祖父と二人暮らしというのも載っている。あのとき千里はその事情を口にはしなかったが、祈咲は既に知っていた。
千里なら、自分を理解してくれる。そう思えたのだ。
それは千里の過去に起因するものだが、そんなふうに思う相手は初めてだった。
──きっと、あの目だ。
千里のアーモンド型の目を思い出した。それは、過去を決して許していないという目。だからこそ彼女は、刑事という仕事を選んだのだろう。
だから、千里は犯人に辿り着ける、と口にしたのだ。自分を理解してくれるであろう彼女なら、きっと犯人に辿り着けると思ったから。
しかし、彼女は否定の言葉を口にしている。それでも自問自答している様子はあった。
恐らく、過去の自分が語りかけるのだろう。それは祈咲にはない経験だった。自分はもう、片が付いているからだ。
罪悪感に苛まれることなど、ない。苛まれたことなど、ない。だって、今自分がこうして、自分の意思で動けているのは、あのことがあったからだ。でなければ、こんなふうに生きていられることはなかった。
いつまで続くともわからない、地獄の日々を彷徨い続けるだけだっただろう。そしてきっと、精神はどこかで壊れてしまっていたはずだ。
──間違ってなど、いない。
きぃ、と心の奥にある何かが音を立てたように思えた。しかし、祈咲はそれに気付かない振りをし、パソコンの電源を落とした。
そこにはまた、暗闇が拡がった。
祈咲が自分の過去を知っているということに、少なからず動揺をした。こんな自分を、普通の女性だと称してくれたからだろう。それに、過去のことを知られていない以上は、「普通の女性」として接することが出来ると思っていたからだ。
しかし、過去のことを知られてしまったからには、そうはいかないだろう。些細な会話の端でも、地雷を踏んだのでは、と思われてしまうのだ。
國原は千里の過去を知っているが、そういった変な気の回し方をすることはない男なので、一緒にいても苦ではないし、申し訳ない気持ちになることもなかった。けれど、祈咲はどうなのだろうか。
祈咲に気遣われる様を想像し、気が重くなるのを感じた。こればかりは、静馬を少々恨んでしまう。静馬が千里の過去を調べたりしなければ、祈咲がそれを知ることもなかったのだ。
「はぁ……」
空は気持ちが良い程に晴れているというのに、千里の心は暗い雲が覆っていた。
──そんなに些細なことではないというのに。
これが相手が祈咲でなければ、こんなふうにはならないのだろう。知られてしまうのは避けたいことではあるが、気が重いというよりは、不愉快に近い感情を抱くだろう。
相手が祈咲だからこそ、知られたくなかったと思うし、知られてしまったことに気が重くなるのだ。
「どうしたんですか?」
突然背後から掛けられた声に、千里は心臓が痛む程に驚いた。どくん、と思い切り心臓を胸元を殴られたかのような痛みだ。
「……祈咲君」
それは、声の主が祈咲だったからだろう。千里が振り返ると、祈咲は整っているにも関わらずこれといった個性のない顔に微笑みを浮かべていた。
「なにか、嫌なことでもありましたか?」
祈咲は小さく首を傾げる。それは幼いこどもがする仕草のようでやはり彼が青年だということを忘れさせる。
「ああ、ううん。何もないわ」
まさか、貴方のことを考えていた、などと言えるはずもなく千里はそう嘘を吐いた。
秋を過ぎ、冬を目前に控えた空気の冷たさは、太陽の照りとは不釣り合いに思え、実際、太陽の暑さなどは全くない。
「……この間のこと、ですか?」
祈咲が僅かに眉を下げた。左右非対称になった眉から、彼が自分を心配しているのだということが伝わってくる。
正直に言うべきなのだろうか。知られている以上、隠すことなど何もない。けれどやはり知られたくなかったという想いが湧く。
「そうね。急に思い出したから、心の整理がつかなくて」
まさか、貴方に知られてしまったことで悩んでいるなどとは朽ちには出来ず、そういう形で誤魔化した。少なからず嘘ではない。
自ら記憶の蓋を開けたわけではないそれは、簡単に箱の中に納まってはくれない。
「……どんな言葉が適切なのかはわかりませんが、大変だったと思います」
他人からすれば、その程度の言葉しかないだろう。もし、自分が逆の立場であったとしても、それくらいしか掛ける言葉はない。
だって、人は経験していないことは想像しか出来ないのだ。それが想像の余地を越えるものであれば、それをわかることなど出来はしないのだ。
「ううん。もう、昔のことだから」
そんな言葉で片付けられることではない。過ぎたことだと笑えってしまえることではないのだ。
「僕は、紙面上でしか、その出来事を知りません。そのときの、貴女の気持ちまでは知らない。──よかったら、話してくれませんか?」
祈咲は真っ直ぐに千里の瞳を見てきた。いつもは艶のない黒目が、今は潤んだように艶やかだ。瞳の黒さと、髪の白さはどこまでも正反対だ。決して交わることのない色。
「え?」
千里は祈咲の申し出に躊躇った。あれは、人に聞かせるような話ではない。況してや、祈咲に。
「すみません、失礼なことを言って。それで、少しでも心の整理がつけば、と思ったんです。……いえ、ごめんなさい。嘘です。僕がたんに、貴女のことを知りたいと思っただけです」
祈咲は場に似合わず、少し照れたような表情でそう言った。
自分のことを知りたい。祈咲にそう言われ、千里も場違いに胸が高鳴るのを感じた。
「……聞いて、気分の良い話ではないと思うけど」
生憎、本日は非番で時間は幾らでもある。予定も何もない。数分では語れないことを話すだけの時間はたっぷりとあった。
「貴女が良ければ、聞かせて下さい」




