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ギルティメイズ  作者: 碓井旬嘉
第二章「深淵と深淵」
14/16

4

 暗闇が拡がっている。どこまでも果てしなく続かのような闇。一寸先すら見えない。

 そんな夢を見るようになっていた。いつからだろう。前からではない。ここ最近だ。どうしてだろうか。どうして、先が見えなくなってしまったのだろうか。

 いや、元々先なんて見えてはいなかった。目の前のことだけを熟してきたのだ。やるべきこと。やりたいこと。やらなくてはいけないこと。

 それだけが自分を構成しているのだ。それだけが自分の存在証明なのだ。

 祈咲はふう、と息を吐いた。ずっと微笑む形を作っていた顔の筋肉に疲労を感じることはない。慣れだろう。いつしか、そういった表情を作ることに慣れてしまっている。

 しかしそれは好んで慣れたものだ。生きていく上で必要な行為だから。それが出来なければ周囲に馴染むことは出来ないから。

 こんな見た目だ。周囲に溶け込むことは出来ない。だからこそ、打ち解ける必要があった。そうしないと、存在が浮き彫りになってしまうから。

 浮き彫りになって得なことなど何もない。

 ちか、ちか、と暗闇の中でスマートフォンが受信を報せる光を放った。なるべく手から離さないようにしている。仕事中や人と会っているときはさすがに無理なので、それは一人のときの習慣だった。

 受信メールを開く。

『たすけてください。ぼくをたすけて』

 短い言葉に必死さを感じた。

『君を苦しめているのは誰? 教えて。そうしたら君を助けてあげられる』

 本来は一通目で全てを報せてくれるのが望ましい。しかしそれが出来ないことから、ある程度幼いことが窺える。これは急いだほうがいいかもしれない。

 次のメールが来るまでの時間が非常にもどかしく感じられた。スマートフォンはまだメールの受信を報せない。

 ただそこには真っ暗な画面があるだけだった。夜の闇の中ではそれは祈咲の姿を映すこともしない。

 ぶる、と小さくスマートフォンが震え、祈咲は急いでメール画面を開いた。そこには小さな悲鳴が書き込まれていた。

 拙い言葉達が懸命に助けを求めている。祈咲はそれを一読すると、『待っててね』と、短いメールを返信した。

 不意に足元に闇が拡がる気がした。まるで奈落に落ちるかのような感覚だと思った。ぽっかりと自分がいる空間だけが闇に染まり、底をなくす。どこまでも落ちていくような感覚の中で、焼けるような痛みを思い出した。

 気付けば、自分の腕に触れていたのだ。一年を通して長袖に包まれた腕。

「早く行かなきゃ」

 祈咲の譫言のような呟きは夜の闇へと溶けていった。


 新たな事件が起きた。

 今度は学童の職員が殺されたのだ。四十代の女性。

「預かっている生徒に躾と称した折檻を行っていたらしいよ」

 藤立が眉間に皺を寄せる。折檻の内容は真冬に水風呂に入れたり、塩を大量に投入したスープを飲ませたりと、身体に傷がつかないものだったようで、挙句に親に言ったら仕返しをすると脅しまでかけていたらしい。

「一連の事件で何が驚くって、これだけの児童が傷付けられていることよね」

 二ノ瀬が溜め息混じりに言う。それは捜査員の誰もが思っていることだった。

 実際、そういった事件での検挙例は幾つでもある。実の子を虐待で殺したり、保育士が預かっている幼児を虐待していたり。決して少なくはない。

 それでも、こんなふうに次々とそういった者達が殺害されていくのは正直驚きしかないほどに数が多い。そしてこれはまだ、そういった事例の氷山の一角に過ぎないのだろう。こういった被害を受けている児童の全てが救いの手を求めているわけではない。

「そういった事件の担当の課とか作ったほうがいいんじゃないかしら」

 二ノ瀬の言葉に藤立が頷く。そういった専門の相談施設はある。しかしそこに連絡をするのだって、こどもたちからしたら勇気がいることだろう。それは今回の犯人へ救いを求めるのも同じだと思う。 

 だからこそ、犯人に連絡をするということは彼らが逼迫した状態だというのは窺える。だからといってそれは勿論褒められたことではない。しかし責められることでもないのだ。

 これをどう対処していくべきなのかも問題として圧し掛かっている。そこまでは警察の仕事ではないのかもしれない。けれどどうしてもこの事件とそのことは切り離せないのだ。

「それは他の役所の仕事だろう」

 國原が溜め息混じりに言った。

「まあ、それもそうなんだけどね」

 藤立までも溜め息を溢す。

 自分達警察がするべきことは犯人の逮捕だ。

「……犯人、逮捕出来るのかしら」

 ぽつりと、二ノ瀬が弱音を吐いた。二ノ瀬が弱音を吐くのを初めて聞いた。二ノ瀬はいつも凛とした佇まいをしていて、強気な態度で何事にも挑んでいた。そんな二ノ瀬が弱音を吐いている。

 手詰まり感は捜査本部全体に広がっている。手詰まりどころではない。少しも犯人に近付けていない状況なのに被害者だけが増えていく。この状況を打破できる空気もない。

「こども達がどこからその情報を入手しているかもわからないんですよね」

 千里の言葉に藤立が頷く。

「一貫して口を割らないんだよね。まあ、力ずくで口を割らせるっていうのは不可能なんだけど」

 盛大な溜め息が会議室に漏れる。

 相手がこどもなだけに、無理を通すことが出来ないのだ。これが大人相手であれば多少の無理も可能だ。しかしこども相手に無理を押し通せば児童保護がどうだとか言い出す連中も出てくるし、そもそも親がそれを許さないことも多い。

 そうなると児童達がどういった経緯で「助けを求める」という情報を入手しているかすら明らかに出来ないのだ。

「完全に手詰まり」

 國原が溢す。今の状況をそれ以外の言葉で表しようがない。現状として捜査本部は機能を停止している状態に近いのだ。

「目撃情報も特に出てこないままなんですよね?」

 千里の質問に二ノ瀬が頷く。今まで何人と殺害されてきた。だというのに、目撃情報はひとつもない。これは犯人が相当手慣れているというのが窺える。手慣れているから、短時間で犯行に及ぶことが出来る。だからこそ、人目につくこともないのだ。

「取り敢えず、俺達は行ってくるよ」

 國原の言葉に千里は立ち上がった。何処、と言われなくとも行先は判断出来る。というよりも、一か所しかない。

「いってらっしゃい」

 藤立と二ノ瀬もその場所がわかっているようで何処とも訊かずに揃ってそう言った。


 電車に揺られながら、親子連れを眺めた。若い母親に幼い男の子。男の子は眠いのかぐずっている。年の頃は四歳くらいだろうか。母親は千里よりも若いように思える。

 母親は男の子を適当にあやしながらもスマートフォンから目を離せずにいるようだ。メッセージアプリか、それともネットサーフィン、もしくはゲーム。膝に纏わりつくこどもそっちのけでスマートフォンの画面を食い入るように見詰めながらも素早く指を動かしている。

 最近、こういった光景をよく目にする。一昔前、それこそ携帯電話の機能がここまで進化していないときはこのような光景を目にすることはなかった。しかし今はこういった光景が有り触れているし、寧ろこういった親子が当たり前のようになっている。

 親子でなくとも、車両内でスマートフォンなり携帯電話を手にしていない者は少ない。誰も彼も、画面を食い入るように見詰めている。

 千里にはあまりそういった習慣がない為、よくよく観察するとそれは異様な光景のように見えた。皆、こうして一人で電車に乗りながらも誰かと繋がっている状態なのだ。勿論、そうでない者もいるだろう。ゲームによっては違う場合もある。

 インターネットで繋がる。二十年近く前からでは想像も出来ないことだろう。千里としてはメールもオンラインゲームも当たり前に育った世代だ。刑事の先輩から、モノクロでメールも同キャリア同士でしかメールが出来ない携帯電話もあったという話を聞いたときは信じられないくらいだった。

 時代は流れ、便利になったはずのものが犯罪を生んでいる。それは嘆くべきことなのだろう。

 電車が揺れ、立ち上がったこどもが転ぶ。それでも母親は気付かず──いや、気付いていてもゲームやメッセージアプリの方が大切なのかも知れない──、こどもはひとりで起き上がった。

 親子の関係も希薄になっているのかもしれない。

 しかし、親というものをはっきりと知らずに育ち、今こどもがいるわけでもない千里には判断出来ることではなかった。

 

 電車を降り、オフィス街を進み、高層ビルの中にある静馬の事務所へと向かう。既に何度となく歩いた道。ここを通過する度、進展を願う。けれどいつも何の成果もなく、帰路を辿ることになるのだ。

 静馬に期待を寄せているのだろう。静馬なら、自分達に見付けられない真実を掴んでくれるだろう、と。けれどそれは人頼みだ。自分達警察が真実に辿り着かなくてはならないというのに。

「今日もこれといった情報はないまま新しい被害者が出たわけだね」

 静馬は千里と國原の顔を見るなり溜め息を吐き出した。その気持ちは痛いほどに理解出来る。それでも自分達はいつも手ぶらで此処を訪れている状態なのだ。

「……すみません」

 千里はつい反射的に頭を下げた。まるで此処までの道程で思っていたことを言い当てられたような気分になったのだ。

「まあ、謝罪の言葉が聞きたいわけではないのだがね」

 静馬はそう言い、千里に気を落とさないように言ってくれた。

「しかし、犯人が狡猾なのか、と思うが、まあそうではないだろうね」

「どういうことですか?」

 ソファに座るように促されるのに従いながら返すと、静馬は足を組んでから答えた。いつも長い足だと思ってしまう仕草だ。

「なに、簡単なことだよ。被害者と犯人に接点がないだけのことだ」 

 目から鱗だった。

 しかしよく考えてみればそうだ。犯人はこどもからのメッセージをもとに被害者を選んでいるのだ。それなら勿論、犯人と被害者は何の接点もない。

 当たり前のこと過ぎてその考えを失念していた。

「まあ、この事件の犯人は無論馬鹿ではないとは思うよ。馬鹿ならば、とっくに有益な情報を落としているだろうからね」

 事件現場にはいつも何の情報も落ちていないのだ。

「プロファイリングは終わったのかい? それも意味はないと思うけどね」

 静馬の言葉に國原が「なら聞くな」とだけ返した。実際プロファイリングも難航している。これといった犯人像が見えてこないままなのだ。統一性がないわけではない。寧ろ統一性しかないのだ。

 出てくるプロファイリングの結果は「幼少期に何らかのトラウマを抱く経験をしている」という事柄だけだ。正直そんなことは素人でもわかるだろう。

 そんな結論しか出せないチームの何を以てしてプロだというのだろうか。

「いらっしゃいませ」

 少しばかり重くなり始めた空気を打破するように特徴のない声が響く。それが祈咲の声だとすぐにわかった。

 祈咲はいつも通り手に茶を載せたトレーを持っている。千里達の訪問に気付き、用意をしてきたのだろう。

「ああ、祈咲も一緒にどうだい?」

 静馬が言うと、祈咲は失礼します、と言って茶を配り終わってから静馬の隣に腰を下ろした。その仕草は優雅で、どこか静馬に似ていると思った。

「今日も無能さを曝け出しに来てくれたんだよ」

 静馬に言われ、千里は恐縮した気分になる。対して國原はわざとらしく眉間に皺を寄せているが、それは本気ではないように思え、静馬と國原の親密さが窺える。

「まだ進展はないんですね」

 祈咲が憐憫の眼差しを向けてきたので千里は小さく頷いた。

 最近、水穂にも会えていない。捜査が忙しいことと、水穂の登校が疎らなことが原因だった。ゆかりから水穂が登校してきたときに連絡が入るのだが、聞き込みやなんやらで夕方までに小学校に出向けないことが多いのだ。

 水穂に会ったからといって、捜査が進展するわけではない。しかし、自分の決意が固まる気がするのだ。自己の為に水穂を利用するわけではないが、それに近いことは認める。それでも犯人が逮捕出来るならばいいと思う。それが水穂の未来の為になるのならば。

「いつになったら犯人が逮捕されるんだろうね」

 静馬が本気と取れる溜め息を吐いた。静馬としても本腰を入れなくてはならないのか、進展のなさを煩わしそうに眉を顰めた。

「……」

 千里と國原は黙り込み、部屋の中には沈黙が漂った。しん、と呼吸以外の音しかない部屋は千里の過去の記憶を呼び戻した。

 ──あの部屋もこんなふうに静かだった。

 それは限られた時間だけだったが、確かにそこには自分の呼吸の音しかなかった。それがまた、窮屈だった。窮屈とは違うかもしれない。しかし、恐怖はとうに越えていたのだ。

「ひとつ聞きたいんだが」

 國原が沈黙を破って口を開いた。

「なんだい?」

 國原の問い掛けは静馬に向けられてのものだった。千里は國原の視線に合わせるようにして静馬の顔を見た。視界の端に祈咲の姿が入る。鮮やかな白がちらちらと揺れる。

「お前、本気で解決に導くつもりがないだろう」

 静馬の眉がぴくりと動いた。形の良い眉は手入れをされているのだろうか。千里は國原の言葉が思いもよらないもの過ぎて、そんなことを考えてしまった。

 静馬が乗り気でないのは端から知っていた。けれど、捜査本部からの依頼に多少は事件に向き合う姿勢を見せてくれていると思ったのだ。だというのに、國原はそんなことを言う。

「どうしてそう思うのかな」

 静馬は静かな口調で返す。その声には感情が見えず、國原の言葉に対して静馬がどう思っているのか全く読み取れない。淡々とした声は冷たさすら含んでいる。

「最初からだ」

 國原は真っ直ぐに静馬を見詰めている。その視線も、何を考えているのかも千里にはわからなかった。この二人の関係はいまいち謎のままだ。幼馴染で言いたいことを言い合える仲。しかし、本当に心の内が理解しあえているようには思えない。

 恐らく、根本的に違い過ぎるのだろう。

 千里の知る國原は正義感の強い男だ。ヒーロー気質とでも言おうか、生まれつき犯罪を許せないと思っているようなタイプだ。それは千里とも違う。千里は原因があって、犯罪を憎むようになったが、國原は元からそういう性格なのだろう。

 けれど静馬は──國原の言葉を借りれば、殺人すら許容する節があるらしい。だとすれば、二人は対極の位置にいる。

 そんな二人が心から理解しあえることはないのかもしれない。

「……例えばね、この事件を解決することが、深淵を覗くことだったとしても、君は犯人を逮捕したいと思うかい?」

 静馬の問いは國原ではなく、何故か千里に向けられてのものだった。

「え……?」

 静馬の問いの意味がわからず、千里は首を傾げた。

「君は自分の過去と照らし合わせて、この事件をどう思うんだい?」

 どくん、と心臓が痛いほどに音を立てた。それは強い力で思い切り胸を叩かれたような感覚だ。

 ──どうして、そんな質問を。

 千里は心臓が物凄い速さで脈打つのを感じた。身体中に勢いよく血液が回り、頭が痛くなり始める。どくどくと、蟀谷が痛くなる。

「お前……調べたのか」

 静馬に対して不満を唱えたのは千里ではなく國原だった。國原は千里の過去を知る数少ない人物だが、彼がそのことを口にしたことは一度だってなかった。だから、見ない振りに似たことをして過ごせていたのだ。

 忘れることは出来ない。なかったことにも出来ない。自分なりに向き合う術を見付けたつもりではいた。それでもそれは、所詮「振り」でしかないのだ。

「調べるなとは言われていないしね。深く付き合っていくには知る必要があると思っただけだよ」

 なんでもないというふうに静馬は言ってのけた。確かにその通りだ。調べてはいけないことではないし、調べないでくれとも言っていない。一緒に仕事をする相手のことを調べるのは必要なことかもしれない。

 どうとでも納得させる言葉は出てくる。しかし、だからといって納得出来るものではなかった。

 人には知られたくないのだ。知る必要のない人に、知られたくなかった。

 ──あの、壮絶な日々を。

 千里は眩暈に似たものを感じ、座っているというのに足元が歪む幻想を見た。ぐにゃりと視界が歪み、足元の床であった場所は渦を巻いている。

 ぐるぐると視界が回り、立っているのか座っているのかさえわからなくなる。

 ──お願いだから、助けて。

 自身の悲痛な叫びが脳内に木霊する。幼い自分の声は今よりもうんと高い。

 ──どうして私がこんな目に。

 ──どうして私なの。

 幼い自分が何度も何度も叫ぶ。抜け出したいと、助けて欲しいと叫ぶ。

 混乱が生じる。こんなふうにいきなり過去に突き落とされるのは初めての経験だった。己で思い出すのではない。強制的に過去の出来事の蓋を開けられたのだ。

 

「千里さん?」

 その声は深い湖の底に届く、一筋の光のようだった。細いが、確りと軌道を描き、自分のところへとだけ届く光。

 一瞬にして世界が元へと戻った。驚くほどの速さで視界が開けていく。

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