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非番の午後、千里は水穂の通う小学校へと足を向けた。水穂に会う為だ。今日の午前中、ゆかりから水穂が登校してきたという連絡があったのだ。それで午後の、クラブ活動の時間を狙って水穂に会うことを決めた。
気付けば、事件の進展もないまま秋は深まり始めていた。まだ風が冷たいということはないが、陽射しの強さはなくなっていた。青々としていた草木はどことなく色が薄くなっているようにすら思える。ついこの間まで熱帯夜が続いていたというのに。
茹だるような暑さは消え失せ、涼しささえ感じる。
「お待ちしてました」
まずは保健室へと足を運ぶ。そこではゆかりが白衣姿で待っていた。今日は落ち着いた色合いのパンツスタイルだ。彼女が足を出しているときは所謂武装なのだろう。こうして隠すことも何もないときは自然な格好なのだろう。
「鈴原さんは?」
千里はゆかりに簡単な挨拶を済ませてから訊いた。水穂のクラブ活動はバレーボールだと聞いている。
「クラブ活動には参加しないようなので、こちらでお預かりしますと現担任には言ってあります」
現担任とは以前水穂を連れてきてくれた若い男の教諭のことだろう。やる気のなさと面倒臭さを滲ませ、それを隠すこともしなかった男。彼が水穂の担任というのは些か不安がある。彼では水穂を巧く気遣うことが出来ないように思えてならないのだ。
「では、こちらでお持ちしていればいいですかね」
千里の問いにゆかりが頷く。相変わらず化粧は綺麗に施されている。
「……貴女の過去をお伺いすることは出来ますか」
ゆかりは千里に長椅子に腰掛けるように促してからそう、言いづらそうに訊いてきた。もしかしたら、ゆかりなりに千里がどれだけ水穂の気持ちがわかるか知りたいのだろう。
──不意に蘇る。
明る過ぎる部屋。どこもかしこも白かった。そのせいで更に明るく思えた。
「申し訳ありません……」
千里は言い淀んだ。到底人に打ち明けられることではない。──人に話したいことではない。
「いいえ。こちらこそ申し訳ありません」
ゆかりは深々と頭を下げてきた。顔の横に垂らした髪がはらりと揺れる。
「あ、頭を上げて下さい」
話せないのは千里の勝手で、ゆかりが悪いことなど何もない。人に話せることではないし、人に聞かせる話でもない。
ゆかりは静かに頭を上げ、もう一度申し訳ありません、とだけ呟くように言った。國原と牽制しあっているときには気付かなかったが、本来の彼女はわりと大人しい性格なのだろう。
何を返したものかと悩んでいると、コンコン、と小さく扉がノックされた。その音はあまりに小さくて、会話をしていたら聞き逃していただろう。
「鈴原さんですね」
ゆかりが言って、扉へと近付いた。からりと扉を開けると、そこには小さな姿があった。水穂の背格好は同世代では大きい方だろう。しかし、身を縮こめるようにしているその姿は実際よりも遥かに小さく見える。それはまるで水穂の心の内を表しているかのように思える。
「……こんにちは」
水穂は千里を見てぺこりと頭を下げた。学校か家でそういった教育をしているのだろう。千里もそれに応えるようにこんにちは、と挨拶をした。
「バレー部なんだってね」
ゆかりに促されるようにして近寄ってきた水穂に尋ねる。上手い会話の糸口など見付けられない。だから、今のタイミングに相応しいと思える題材を選んだつもりだった。
「バレーボール、好きなのかしら」
千里は訊きながら、水穂に長椅子の隣に腰掛かるように手で示した。水穂は促されるまま座りながら、首を横に振った。
「……沙奈ちゃんに誘われたから」
「沙奈ちゃんとは仲が良いの?」
「一年生から同じクラスです。一番お話しします」
所謂親友というものだろうか。
「今は、クラブ活動をする気にはなれない?」
核心を突くのが早いかもしれない。そう思いながらもその質問を口にした。
「……体が、動かないんです」
水穂は小さな声で答えた。その声は湿りを含んでいて、小学生のものには思えなかった。女の子でも声変わりはする。男の子ほど顕著ではないが、甲高い声が落ち着いたものには変化する。水穂は既に声変わりを済ませているのだろうか、それとも元々こういった声なのか。それは千里には判断出来なかった。
「体が動かない?」
千里が首を傾げると水穂は小さく頷いてみせた。
「ボールが飛んできても、全く体が動かないんです」
心因的なものだろうか。しかし千里は大学でも特に心理学を専攻していたわけではない為、詳しくはわからない。
「だから、暫くクラブ活動はお休みしようと、思ったんです」
水穂はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そうなの」
千里は上手く言葉を見付けることが出来ずにいた。水穂本人の口から話を聞いたわけではない。彼女が悩んでいること、彼女が感じている罪のこと。
まずはそのことから聞き出さなくてはいけないのかもしれない。千里はちらりとゆかりに視線を向けた。するとそれでゆかりは千里の言いたいことを察してくれたようで、静かに保健室を去った。午後の保健室で水穂と二人きりになる。
「角田先生のこと、灰田先生から聞いたわ」
千里は敢えて小さな声で言う。二人の間だけの話だと思わせる為だ。これは事情聴取をしていく上で学んだことだ。
千里の言葉に水穂が僅かに目を見開いた。人に知られてしまった。しかも、警察に知られてしまったという表情だ。
──恐ろしいのだろう。
警察に知られてしまったことで、自分が何らかの罪に問われるのではないか、罰せられるのではないかと思っているのだろう。
「……私を、逮捕して下さい」
逮捕がタイホ、と片仮名の響きに感じられた。恐らく、漢字での表記を知らないのだろう。
「え……?」
今度は千里が驚いた表情をする番だった。
「お願いです。私を、逮捕して下さい」
水穂は千里に縋り付くようにして、懇願してきた。千里の手を握るように掴み、頭を深く下げている。そして、その声は震えている。
「鈴原さん……?」
これが、水穂の抱える罪の重さなのだろう。こんなに幼い子が、逮捕してくれと懇願をする。千里はそれを上手く受け止めることが出来なかった。
──私はここまでの感情を知らない。
千里は過去の出来事を想起しながら絶望に近いものを感じた。厳密に言えば絶望とは違う。しかしそれに似ていることも事実だった。
「私が、角田先生を、殺してしまったんです」
どうやってそれを否定すればいいのか。 何を言えばいいのか。掛ける言葉すら見付けられない。
「鈴原さん、あまり自分を責めないで」
漸く掛けられた言葉はそれだけだった。在り来たりな発言だと、自分でもうんざりするものだ。
「貴女は、悪くないわ」
しかし、本当にそうなのだろうか。本当に水穂に非は全くないと言えるのだろうか。いや、と千里は心の中で頭を振った。水穂は知らなかったのだ。あれが、殺人依頼だということに。
しかし、本当に? と思ってしまう。
大人を排除してくれる、という言葉。そこから本当に排除イコール死だという認識はなかったのだろうか。これが小学校低学年ならばそういった可能性もあるだろう。しかし水穂は高学年だ。理解していた可能性は十分にある。
もしかしたら、わかっていたのかもしれない。だからこそ、こんなことを口にするのかもしれない。
「鈴原さん」
千里の呼び掛けに水穂は微かに頭を動かした。しかし、視線が交わることはない。千里はもう一度、水穂の名を呼んだ。
「水穂ちゃん」
今度は苗字ではなく、彼女の名前を呼んだ。水穂が今度はそれに真っ直ぐに千里を見詰めてきた。幼い瞳は水気をたっぷりと含み、それは今にも零れだしそうだった。
「貴女が悪くないとは言えないかもしれない。でもね、私達は貴女を逮捕することは出来ないの。それは、貴女が角田先生を殺したわけではないからよ。そして、貴女が明確な殺意を持っていたとも証明出来ないから」
我ながら難しいことを口にしているとは理解していた。相手は大人ではなく、まだ小学生というこどもだ。しかし、だからこそだ。上っ面だけをなぞるような言葉を重ねて慰めたところで、彼女はきっと納得しないだろう。そして己を責めることもやめもしない。だからこそ、こうして正直な気持ちを口にすることを選んだのだ。
それが一番、水穂に伝わると思ったから。
「……」
水穂は瞳に涙を浮かべたまま、千里の言葉を聞いている。その水はあまりに透明で美しく、そこには無垢さしか感じられなかった。
彼女は心の底から救済を求めたに過ぎないのだ。そしてそれは彼女だけではなく、この事件に関わる全てのこども達がそうなのだ。
「だからね、自分を責めないでとも言えない。貴女はこれから先もずっと、自分を責め続けるかもしれない。一生、罪の念に苛まされるかもしれない。でもね、覚えておいて。これは消えることはないことなの」
きつい言葉かもしれない。けれども、言う必要があると思った。今何を言ったところで、水穂の気持ちが晴れることはないだろう。だったら敢えて現実を教えようと思ったのだ。彼女が逃避を始めてしまえば、この言葉が届くことはなくなるから。
「でも、約束はするわ。必ず、角田先生を殺した犯人を、貴女を苦しめる人を逮捕する」
それが今、千里に言える全てのことだ。これ以上のことは何も言えなかった。口にする言葉を持ち合わせてはいない。
「……宜しくお願いします」
水穂は震える声でそれだけを言った。
夜の闇が広がっている。公園の奥の方は何も見えない。公園の入り口付近に「痴漢に注意」という看板があり、だったらこんな見通しの悪い公園などなくしてしまえばいいのに、と思わずにはいられなかった。
世の中は危ない物事が多過ぎる。危ない人間が多過ぎる。世の中に平穏など存在しないのではないかと思えてくる。そして実際、平穏など存在しないのだろう。いつ、どこで悲惨で壮絶な空間に身を置くことになるかわからないのだ。
「何見てるの?」
甘ったれたような声が耳に届いた。
「闇だなって」
答えると、少女が首を傾げる。さらりと黒髪が揺れ、思い出さなくていいことを思い出した。そういえば、あの人の黒髪も揺れた。
「いつも言うことが難しい」
頬を膨らませられ、ごめん、と謝ると、少女はいいよ、ところりと表情を変えた。可愛らしい娘だと思う。彼女に教養がないのは本人のせいではない。彼女が悪いことは何もない。
「辞書引くのは面倒」
「そんなこと言わないで。君の為だよ」
「教えてくれればいい」
「いつもいつもというわけにはいかないでしょう?」
「そうだけど……」
「隣にいるときは教えてあげるよ。だから、一人のときは辞書を引いて」
「いつも隣にいて」
「そう出来ないってわかってるよね」
いつか彼女は一人になる。そのときの為に、出来る限りのことを教えてやりたいと思っている。彼女が一人でも生きていけるように。
「人助け、だものね」
それをまるで覚えたての言葉のように口にする。
「そうだよ」
「わかった。だって、それで助けてもらったんだもの」
少女は納得したように頷いてくれた。
「じゃあ、帰ろう、祈咲。闇を見てても仕方ないわ」
「そうだね、小毬」
夜の闇にはたった二人分の影すら地面に落とすことは出来なかった。
鮮やかな白が広がったような笑顔だった。
「お久し振りです」
祈咲の笑みに思わず見惚れ、千里は直ぐに挨拶を返すことが出来なかった。
「……久し振りね」
確かにアパートの近所で会うのは久し振りだった。捜査が忙しく、いつも家に帰る時間は疎らだったからだろう。朝に近かったり、夕方だったり。そして祈咲の方も必ずしも決まった勤務時間ではないようで、そうなると遭遇することもなかなかない。
「お忙しいみたいですね」
祈咲が僅かに憐れみを表情に出し、そう言った。
最近は頻繁に静馬の事務所を國原と共に訪れていたが、そこでも祈咲に会うことはなかった。しかし静馬から話は聞いているのだろう。
「そうね」
忙しいだけで捜査は進展はしていない。それが悔やまれるところだった。
水穂にも必ず犯人を逮捕すると誓ったというのに、それは果てなく遠いことのように思えた。
「早く、犯人を逮捕することが出来るといいですね」
祈咲は形の良い眉を下げて言う。
「この後、空いてる?」
千里は不意に話題を変えた。警察関係者でない人と、進展のない事件の話をしても仕方がない。気が滅入るだけだ。
「え? ああ、はい、空いてますよ」
祈咲は一瞬虚を突かれたように目を見開いた。その表情は可愛らしいものだった。
「じゃあ、ご飯食べに来ない?」
気分転換のつもりだった。本来なら友人を誘って飲みにでも行きたいところだが、そんな気力はない。しかし、誰かと気分転換はしたかった。
「今日、非番なんですか?」
今は昼間だ。陽が高いとはいえ、秋になっているせいか眩しさはない。気温はさして低くはないが、陽射しの強さがないだけで一気に暑さを感じなくなるものだ。
「そう、非番なの」
本当は今日は水穂に会いに行く予定だった。ここ最近、千里の非番は水穂に会うことに費やされていたが、今日は水穂が欠席しているとゆかりから連絡があったのだ。どうやら発熱したらしい。季節の変わり目、こどもは風邪をひきやすいだろう。
「最近、料理してなかったからしようと思って。でも、一人分作るのも面倒だと思ってたところなのよ」
少し前までは出来る限り料理をしていたが、ここのところは忙しくてコンビニで買って食事を済ませてしまう日が続いている。だから今日こそは久し振りに料理をしようと思い、スーパーで食材を買ってきたのだ。しかし、いざアパートに近付くにつれ、なんとなしに面倒な気分に変わり始めていた。
──疲れているのだろう。
疲労を感じない日はない。それは勿論肉体的なものもあるし、精神的なものもある。精神的なものに関しては、焦りが一番大きい。犯人に全く以て近付けていないという焦りだ。
「では、お邪魔させてもらいます」
祈咲は少し悩んでから、綺麗な笑顔で言った。その笑顔を見てから、部屋は片付いていたか気になってきた。けれど、最近は寝に帰るだけの日々が続いていたので散らかりようがないのも事実だ。
「嫌いなもの、あるかしら」
千里と祈咲は自然に並び、足を進めた。昼間近。太陽はすっかり昇り切っている。後は沈むだけだろう。
「特にこれといって好き嫌いはないですよ」
祈咲はそれが当たり前なことのように答えた。確かに祈咲にはあまり好き嫌いがあるようなタイプに思えない。良くも悪くも無難に見えるからだろうか。その、白い髪以外は。
「何を作ろうとしていたんですか」
少し離れた公園からこどもの泣き声が聞こえてきた。男女はわからないが、その子は火が点いたように泣き叫んでいる。転びでもしたのだろうか。その泣き声は千里の耳に深く止まることはなかったが、祈咲はそれに対して足を止めた。
「……何があったんですかね」
祈咲が静かに訊いてきた。
「え、ああ、転んだのかしら」
幼い子は軽く転んだだけでも大泣きすることがある。しかし、祈咲の問い掛けはそんな軽い感じではないように思えた。
「ああ、そうですよね。きっと、そうです」
祈咲は一人で納得するような素振りで頷き、止めた足を動かし始めた。千里もそれに合わせる。並ぶと身長差はさしてない。それでも肩幅などは全く違うことがわかる。小柄に見えても意外と逞しいようだ。
「すみません、行きましょう」
「そうね」
ふいに祈咲が違う人のように思えた。しかしそれは本当に気のせいだったようで、今隣に並ぶのは千里の知っている祈咲だった。
「それで、何を作ろうと思っていたんですか?」
「ああ、簡単なんだけど、ポトフとグラタン。違うものが食べたいとか、ある?」
千里の問いに祈咲は笑顔で首を振った。
「よかった」
食事に誘っておいて好みでないものを押し付けるのはさすがに気が引けるので祈咲の答えに安堵した。とはいえ、祈咲が気を遣っている可能性も否めはしない。
「楽しみですね」
祈咲は笑顔のままそう言う。何だかこちらまで楽しみだという気持ちになってくる。その場の流れで誘ってしまうという、よくよく考えればかなり失礼なことをしたというのに、祈咲は嫌な顔ひとつしない。そこには祈咲の性格の良さが表れているような気がした。
並んで、他愛のない話をした。犬より猫が好き。夏より冬が好き。夜の散歩は気持ちがいい。本当に些細な話だったが、祈咲とそういった話をするのは初めてだった。いつも口を開けば事件の進展についてのことが多かったように思う。
そもそも事件を通じて知り合ったのでそれも当たり前なのかもしれないが。
「お洒落な外観ですね」
千里の住むアパートの前に来ると、祈咲はアパートを見上げてそういった感想を漏らした。
「そこが気に入って借りたのよ」
千里はそう言い、階段に足を掛けたく。千里の借りている部屋は二回部分の端だ。しかし、祈咲が後をついてくる気配がなかった。
「どうしたの?」
段差に足を掛け、振り返る。祈咲は階段から少し離れたところで足を止めていた。
「あ、いや、ついてきておいて今更なんですけど」
祈咲の言い掛けた言葉に一抹の不安が過る。勢いでついてきたはいいが、途端に面倒になったとかだろうか。だとしたら迷惑なことをしてしまったと思う。千里は急いで謝罪の言葉を口にしようとした。
「僕が部屋に上がって、彼氏さんとか怒ったりしませんか?」
「え?」
祈咲が千里を真っ直ぐに見てきながらそんなことを言うので、思わず間抜けな声が出てしまった。
「いや、僕も一応男なので、彼氏さんとかいたら嫌だろうなと思いまして」
祈咲は何故かえらく真面目な顔で言う。その表情を見ていたら笑いが込み上げてきた。千里は笑いを堪えることが出来ず、吹き出してしまった。それに祈咲が驚いた顔をする。
「え、と、何か笑われるような発言でしたか?」
祈咲が小首を傾げる。それはどこか幼いこどもようで愛らしい。祈咲には悉く愛らしいという表現を使いたくなることが多い。仕草や動作のせいだろう。
「ううん、ごめんなさい。笑うことじゃなかったわ」
寧ろ褒めて然るべきようなことだろう。紳士的とは違うが、好感の持てる発言だ。
「気遣い、ありがとう。でも、気にしなくて大丈夫よ。怒るような相手はいないから」
残念というか、千里には恋人という存在はいなかった。それは、今はということではなく、生まれてこの方だ。誰かを好きになったことがないわけではない。しかしその相手と恋人同士になりたいと思ったことはなかった。
好意を寄せる相手から告白されたこともある。それでも千里はそれを受け入れることはしなかった。男性恐怖症というほどではない。それでも付き合うということには踏み切れないのだ。
「意外ですね」
千里の言葉に祈咲は黒目がちな瞳をぱちくりと瞬きさせた。
「そうかしら?」
そう言われても自分のことなのでなんとも言えない。
「ええ。千里さん、素敵な方なので、当然恋人がいるものだと思ってました」
祈咲の言葉に心臓が小さく動いた。世辞だとわかっている。それでも心は素直に反応してしまうのだ。
「そんなことないわ」
それだけ返すのがやっとだった。ありがとう、とか、そう言ってもらえて嬉しい、とかもっと気の利いた言葉は幾らでも存在するだろう。それでも、千里の心にはそれしか浮かばなかったのだ。
「早く入りましょう」
戸惑いを隠すように祈咲から顔を逸らして言った。最近気付いたのだが、祈咲は話す相手を真っ直ぐに見詰める癖があるようだ。だからか、祈咲と話していると言わなくてもいいことまで口走りそうになるし、秘めようとしていたことまで声に出してしまうのだ。勿論それが助かることもあるし、困ることもある。
少しばかり火照ったかのような頬に軽く触れながら階段を昇っていく。後ろから僅かに距離を開けて祈咲が後に続いてくる気配を背中に感じる。背後に視線を感じるというのも緊張するものだ。早く部屋に辿り着こうと、足早になってしまう。
「ここよ」
自身の部屋に前に着き、祈咲に示す。影石、という表札が扉の横にある部屋。鉄製の扉は外壁の煉瓦調に合わせて赤胴色をしている。
「扉もお洒落ですね」
祈咲はその扉を見て微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
そう返し、千里はバッグから鍵を取り出した。直ぐそこに買い物に行くのでも千里は必ずバッグを手にしている。必要なものがそこには全て入っているからだ。近所に買い物に行くだけなら鍵と財布が入る程度の小さなバッグがあれば十分なのだが、入れ替えをするのが面倒だった。なので、いつも同じバッグを持ち歩いているのだ。
自分でももう少し女らしくてもいいとは思う。でもその必要性を感じないのも事実だ。料理が出来るだけましだと、いつも自分の女子力の低さを誤魔化している。
それでも祈咲は素敵だと言ってくれた。それは千里の表面しか見ていないからだろう。もっと親しくなれば話は別だ。
「あまり片付いてないけど」
一応前置きはしてみたが、このところ部屋にいる時間はとてつもなく短い。なので散らかりようがない為、部屋の中はわりと綺麗な状態だ。
「気にしませんよ」
祈咲はまた微笑んで言う。祈咲は本当に微笑んでいることが多いように思う。彼の性格が穏やかなのか、それともそうしていることで人間関係が円滑に進むことを知っているのか。常に微笑んでいる人というのはそのどちらかが多いというのは千里が人生で学んできたことだった。
しかし祈咲はそのどちらでもないように思えるのだ。祈咲が穏やかでないというわけではない。寧ろ、穏やかな性格と言えるだろう。けれど、だから彼が常に微笑んでいるかと言われればそれは違うように思えるのだ。そして、人間関係を円滑に進める為でもないように思える。
祈咲とは確かに仕事上の付き合いと呼べる関係しかない。だから、彼が微笑んでいるところしか見たことなくとも何の不思議はない。それでも、それも違うと思えてしまうのだ。
彼の何を知っているわけでもない。何も知らない。知らないからこそ、どれもこれも、通常のことがしっくりとこないのかもしれない。
「どうぞ」
扉をゆっくりと開け、祈咲を部屋の中に招き入れる。閉め切っていることが続いたせいか部屋の空気は少し淀んでいるような気がする。
滞在する短い時間、窓を開けることをしていないせいだろう。夏の暑さが和らぐと、途端に風が冷たくなる。外にいる分にはいいのだが、部屋にいて窓を開けると寒さを感じるのだ。だからここ最近ずっと窓を開けることをしていなかった。
千里の後に続いて祈咲が部屋の中へと入る。玄関先では丁寧に靴を端に揃えて寄せている。親の躾がよかったのだろうか。
そう思ってから祈咲が青年と呼べる歳だということを思い出す。どうも祈咲の年齢を失念してしまうことが多い。年下だからということだけではないだろう。何故か彼を少年だと思ってしまうのだ。




