第二章「深淵と深淵」
祈咲の姿を頻繁に見付けるようになった。仕事帰り、休みの日、早朝。これといって決まった時間帯ではない。それでも祈咲を見付けるのだ。祈咲は千里の存在に気付くと必ず声を掛けてくれた。笑顔を向け、挨拶程度の言葉だが、それでも近寄ってきてくれるのだ。
千里もそれに笑顔で返すようになっていた。挨拶から近況を報告しあうようになり、他愛ない世間話をするようになった。気付けば夏は終わりを迎えようとしていた。
事件は一向に進展を見せていなかった。それでも被害者の数はあれから二人、増えた。塾の講師の男と、幼稚園教諭の女。どちらもやはりというか、児童に危害を加えていた。塾講師は生徒に対しての言葉の暴力、幼稚園教諭は従妹への虐待。
エスカレートしているのだろうか。それとも今まで明るみに出なかっただけで、元々犯行の数は多かったのだろうか。それの判断は未だにつかないままなのだ。
このまま捜査は何の進展もしないのだろうか。捜査本部の中ではそういった声が上がり始めていた。それでも警察の威信に懸けて必ず犯人を見付けだせというのが上からの達しでもある。
「どうなるのかねえ」
藤立がホットコーヒーの入った紙コップを片手にしながら近付いてきた。コーヒーの良い香りが鼻腔を擽る。まだ涼しい時期とは言えないが熱いコーヒーを飲むのが苦ではない気候へと移っていた。
「……そうですね」
小学校が再開され、先週水穂に会いに行った。だが水穂は夏休みが明けても登校していないようで会うことは叶わなかった。ゆかりが保護者へと連絡を入れてはくれているのだが、母親は「落ち着いたら登校させる」の一点張りで水穂の詳しい状態を教えてはくれないらしい。
水穂は事件の被害者ではないので強制的に話を聞くことも出来ない。だとすると、彼女が登校してくるのを根気よく待つ他ないのだ。それに、水穂に話を聞くのは捜査の一環ではない。たんに、彼女の心を考慮してのことだ。
「千里ちゃんは、今回の犯人像、どう考えてる?」
藤立に訊かれ、千里は首を傾げた。そのことも未だに捜査本部では議論がなされている。いまのところ有力な見方は、幼少期に大人から何らかの危害を加えられそれがトラウマになっている。そして、同じように傷付けられているこどもを助ける「正義」という名目の下、殺人を行っている、というものだ。大方それで間違いはないのだろう。
犯人がこれは「正義」だと言っているのだ。あれからも被害者の側にはメモが落ちていた。「正義」と二文字が記されているメモ。そう、これらの殺人は犯人にとって正義なのだ。
「マスコミに発表はしないままみたいだね」
藤立の言葉に千里は頷いた。連続殺人である可能性は以前発表したが、メモのことと児童達が口にしている「助けを求める」という件については発表されていないままだし、今後も発表することはないだろう。
「ま、俺達に出来ることをするしかないってことだよね」
捜査が長引き疲れているのが見て取れる。実際どの捜査員もそうだった。何の成果も挙げられないまま被害者だけが増えていく。そうなると調べることが増える。さすがに今以上に人員は増やせない為、一人当たりの仕事量が増えているのだ。疲れないはずはない。
正直、千里の疲労もピークに達していた。歩き回ることも多いせいか肉体的な疲労も大きく、全身が固まったように怠く感じる朝もある。足も浮腫むし、肩や腰も痛い。そのお陰か夜はベッドに入れば一瞬で深い眠りに落ち、アラームが鳴るまで目が覚めることもない。
それと、捜査が進展しないという焦りやこれ以上被害者が増えたら、という危惧。それらは精神的疲労に繋がる。ふたつの疲労が重なり、捜査員の誰もが顔に疲れの色を滲ませていた。
「それしかないんですよね」
小さな積み重ねが必ず身を結ぶとは限らない。それがこの仕事だった。
「だったら、聞き込み行くわよ」
そこに二ノ瀬と國原が姿を現した。二ノ瀬も國原も元気溌剌、といった表情はしていない。そこにあるのはやはり疲労感だった。
「はいはい。行きますよ」
藤立はだらけたような口調で言い、コーヒーを飲み干した。束の間の休息を味わっていたのだろう。藤立は重たい腰を持ち上げるように歩き出し、千里と國原に向かって軽く手を振った。
「國原さん、私達は……」
「静馬のところに行く」
國原はきっぱりとした口調で言う。
「え」
つい、間の抜けた声が出てしまった。静馬のところにはあの一件以来足を運んでいなかったのだ。國原が行こうと言うこともなかったし、静馬の方から連絡があることもなかった。
「正式な依頼が出たんだよ」
國原は言って、一枚の茶封筒を取り出した。そこには「古味 静馬様」とひどく綺麗な字で書かれていた。きっと上層部の者からの書面だろう。
「あいつに頼むのは正直気が引けるが、行くしかないな」
國原は封筒をぴらぴらと動かしながら溜め息を吐いた。
「何故、古味さんに捜査を依頼するのが嫌なんですか?」
移動中の電車の中で千里は國原にその質問をした。静馬が捜査に加わることで犯人逮捕に繋がるならいいことではないのか。
「この間、お前も聞いていただろう」
口を挟むことは出来なかったが、話は確りと聞いていた。あのとき、國原は静馬について捜査をゲームのように思っていると言っていた。
「はい」
千里は頷きながら動いていく景色に目を向けた。ビルばかりかと思っていると、途端に緑が広がったりする。それが東京の不思議なところだ。
「あいつは昔からそうだった。事件や犯人を憎むという気持ちに欠けるんだ。なに、別に刑事全員にそういった気持ちが備わっているわけではないのは知ってるさ。出世したい奴、取り合えず刑事になった奴、色んな奴がいる。でも、静馬はそのどれとも違うんだ。あいつは、どこか特殊なんだよ」
「特殊、ですか」
言われてみなくとも、静馬がどこか人と違うのは理解している。しかしそれは表面的なことだ。千里は静馬について何一つとして知らない。
「そうだ。あいつは捜査を知恵比べのようにしか思っていないんだよ。犯人を見付けるのが楽しいだけなんだ。静馬は、殺人すら許容する部分がある」
がたん、と電車が揺れた。恐らくレールの繋ぎ目だったのだろう。立っている乗客の体がそれに合わせて揺れた。
「これは物の例えだがな。あいつは法律がどうとか考えてないってことだ。法律で殺人が禁止されてるから、それが罪だから犯人を見付けようだなんていう考えを持ち合わせちゃないってことだ」
殺人を犯すということについて、善悪という考えを持っていないということだろうか。そんな人間は稀有だ。人間というのは成長していく段階でそういった物事を刷り込まれていくものだ。しかし静馬にはそれが成されなかったということだ。
恐らく、先天性のものだろう。理由は、静馬の家族は警察庁の人間だということ。そんな環境で育ったのなら、そういった思考は自然と刷り込まれるはずだ。だというのに、静馬にはそれがない。國原が彼を「特殊」と表す所以だろう。
「だからあいつは正式な依頼がない限り、自分が面白そうだと感じた事件以外は進んで捜査はしないんだ」
「そうだったんですか」
千里は初めて知る事実に驚きを隠せなかった。静馬がそういった人物には思えなかったという驚きではない。千里はそこまで静馬の人と成りを知っているわけではないからだ。そういった人間がいるとういことだ。
確かに物事に対しての考え方は千差万別だ。それは勿論犯罪に対しても同じだろう。犯罪を憎む人もいれば、それに対しての何の感情を抱かない人もいるのだろう。
しかし、と思う。そういったケースは極稀のようにも思えた。前述の通り、人は成長段階で倫理や道徳といったもの学んでいく。それは例外なく。それでも静馬はそんななかでそういったものが培われなかったということだ。それを驚かずして、何に驚けというのだろう。
「今回の事件は不謹慎だが、あいつは面白がると思ったんだがな」
國原はそう言って大きな溜め息を吐き出した。揺れる電車の中では掻き消えてしまう。
「そうなんですか?」
先程から似たような言葉しか返していないと思いながらもそう口にした。
「ああ。あいつは犯人が直ぐに捕まるようなものには反応を示さない。だから、今回はうってつけだと思ったが、どうやら読みは外れたようだな」
國原は再度溜め息を吐く。生まれた病院まで一緒の幼馴染と言っていたが、それでも理解が追い付かないようだ。
「正式な依頼があっても請けてくれるかどうか、てとこだな」
不安が過る。正直捜査本部だけでは手詰まりの状態だ。ここで静馬のような人物に捜査に加わってもらうことで進展を望みたいというのが上層部の狙いなのだろう。しかし静馬に断られてしまったら元も子もない。
「出来るだけ下手にでるしかないか」
國原が今日何度目かわからない溜め息を落としたところで、車体は大きく揺れた。
静馬の事務所には先客がいたようで、奥の部屋で待っているように言われた。そこには祈咲がいて、千里の姿を認めるなり微笑みを向けてくれた。
「こんにちは」
祈咲は微笑んだままそう挨拶をしてきた。今日も鮮やかな白だ。
「こんにちは」
それに千里と國原は同時に挨拶を返した。祈咲はお茶を淹れてきますね、と言い更に奥へと引っ込んでいった。部屋の中は柑橘系の匂いがする。芳香剤の類か、それとも誰かの香水か。
「彼もなかなか不思議な青年だよな」
國原が祈咲の去った部屋で、ぽつりと口にする。それに千里も肯定した。肯定しない理由はない。鮮やかな白は瞼裏に焼き付く。
「お待たせしました」
去ってから幾らもしないうちに祈咲が部屋へと戻ってきた。手にはティーセットの乗ったトレー。白い陶器は祈咲の髪色とよく似ていた。
「ハーブティー、大丈夫ですか?」
祈咲はテーブルの上にティーセットを並べながら訊いてきた。ことり、と小さく上品な音が鳴る。
「大丈夫だ」
「大丈夫よ」
料理をしなくとも、こういったふうにもてなしをすることから茶には詳しいのかもしれない。反対に千里は料理をするが茶の類には全く以て疎かった。正直に言えば、紅茶とハーブティーの違いを明確に説明は出来ない。それほどに茶についての知識はなかった。
「よかった。カモミールが入っているのでリラックス出来ると思いますよ」
その気遣いは嬉しかった。連日成果の出ない捜査に疲れ果てている。恐らく、祈咲は千里達がここに来たということからそれを読み取ったのだろう。ふんわりとどこか癖のある香りが鼻腔に届く。独特の匂いはそれだけで緊張が解れるような気がする。
祈咲は自身も千里の向かいに腰を下ろし、茶を啜っている。上品な仕草。育ちが良いように思えるが、彼の生い立ちや家族構成については何も知らなかった。
この事務所の扉は全て防音になっているのか、隣の応接室の声は少しも聞こえない。ただ、静かな空間に各々が茶を啜る音だけが響いている。外はまだ暑さを残しているが、温かい茶を飲むのが苦痛というほどではない。九月に入るなり、暑さは急激に和らいだ。それでもまだ昼間は照る太陽が熱気を与えては来るが、陽が沈んでしまえば途端に暑さは失せる。
季節が緩やかに変化していく。それでも捜査は何の進展も見せていない。捜査本部全体が焦りを見せ始めた。
「捜査の状況、芳しくないのですか?」
祈咲がティーカップをソーサーに置きながら訊いてきた。静かな部屋に彼のどこか平坦な声が響いた。この声が隣の部屋に聞こえることはないのだろう。
「そうだな」
國原が短く答えた。芳しくないどころではなく、だからこうして静馬のもとを訪れているのだ。
「君は捜査に協力することは?」
國原の質問に祈咲は小さく笑んだ。口元が僅かに動いただけの笑み。それは祈咲がよく見せる表情だ。
「僕は基本的には調べごとだけです。推理する頭は生憎持ち合わせていませんので」
丁寧な口調は千里を相手にしているときとは少しだけ違う。そこには「他人」という空気が含まれているようだった。
祈咲からは人懐っこい印象を受けていたが、國原に対する態度を見る限り違うようだ。そこには明確に線引きがされているように思えた。
「調べごと?」
國原が茶請けにと祈咲が用意したクッキーを摘みながら返す。
「そうです。調査対象の身辺とか、事件であれば現場を見に行ったり、近所の人に話を聞いたりと、そういったことしかしていません」
祈咲の受け答えはまるで就職試験の面接のようだった。はきはきと必要なことだけを述べていく。しかも祈咲は背筋を伸ばして座っているので余計にそんなふうに見えた。それはこの静かな空間にはやけにしっくりとくる。
「だとすると、君は捜査の内容については殆ど知らないということか?」
國原はまるで尋問するかのような口調で訊いていく。淡々とした声が空間に吸い込まれて消えてから、祈咲は口を開く。
「重要なことは知らない場合が多いです。知る必要もないですしね」
対する祈咲の声も淡々としていた。こんな祈咲の声は初めて聞くので、まるで別人のようだとさえ思えた。
「そうなのか」
そこで会話は終了した。何故、國原が祈咲に質問を重ねたのかはわからない。たんに時間を持て余してなのか、それとも何らかの意図があったのか。千里ではそれを計りようがない。
「やあ、待たせたね」
会話が終了して幾らもしらいうちに静馬が部屋へと入ってきた。ノックもなく、静かに扉を開けた為、声がするまで入室に気付かなかった。静かな空間でも意識を集中させていなければそんなものなのだろう。
「正式な依頼が下りた」
國原は挨拶もなしに静馬に茶封筒を向けた。すると静馬は僅かに眉頭を寄せ、表情を歪めた。此処を訪れる前、國原は下手に出ると言っていたがそうやらそれは口だけだったらしい。
「まずは挨拶をするのが礼儀ではないのかい」
静馬の特徴的な声はどこか冷気を含んでいるように感じられた。どうやら、國原が挨拶をするまで封筒を受け取る気はないようで、手を腰の後ろで組んでいる。いちいち芝居がかったような動作だ。
「……お忙しいところに失礼致します」
國原がいつもよりワントーン低い声で述べた。それに静馬はいまいち納得していないという表情ながらも、渋々といった様子で國原から封筒を受け取った。そしてゆったりとした動作で封筒の中身を確認する。
「……成程ね」
静馬は中身を一瞥しただけで溜め息を漏らした。形の良い唇から漏れる吐息。封筒の中身がどんな文面なのかは千里にはわからない。けれど静馬が溜め息を吐き出したくなるものなのは確かなようだ。
「これは、断ることは許されないようだね」
静馬はそう言ってもう一度大仰な溜め息を吐いた。部屋には気鬱が立ち込めるようだ。
「今回のはお前が興味を持ちそうだと思ったんだけどな」
國原が電車でも言っていたことを再度口にした。確かに今回の事件は普通──といった言い方は不謹慎かもしれないが──のものとは違う。静馬が人とは違うのならば、こういった一筋縄でいかない事件には興味を持ってもよさそうなものだ。
「……今回の事件はこれといって興味を引かれないだけだよ」
静馬は開いた紙を封筒の中に仕舞いながら答えた。それは答えになっているようで答えになっていないものだった。
「しかし、携わらないわけにはいかないみたいだ」
静馬が本日何度目かわからない溜め息を吐いた。それを祈咲が心配げな表情で見ている。
「で、どこまで調べているんだい」
祈咲が表情を変えないまま、静馬の前に千里達に出したのと同じお茶を置いた。千里達の前にあるのとは違い、湯気が立ち昇っている。
「特にこれといった進展はないままだ。こどもが救いを求める先があるというのが判明したくらいなもんだ」
どうやらその話は静馬の耳に入っていたようで、静馬がそれに驚いた様子はない。捜査に協力はしていなくとも、捜査状況は伝わっているのだろう。
「その人物の特定に難航している、と」
そうなのだ。とはいえ、千里達はその担当ではないので詳しい進捗状況まではわからない。調査することが多い為、細かいことまではいちいち報告はされない。報告されるのは大きな進展があったときくらいなのだが、その大きな進展というものが全くない。
「絞れていないどころではない。犯人像もプロファイリングすら確定していない」
年齢も性別も絞れていないのだ。そもそも、今回の犯人が何時からこの事件を起こしているのかもわからないのだ。
幼少期に大人から何らかの虐待を受けていた。それしか挙がっていない。犯行の手口としても男性でも女性でも可能。色んなことが不透明なままだ。
「こんな情報ではさすがの僕でも推理は出来ないね。しかし、そうも言っていられないみたいだがね」
静馬へと渡った封書はそんなにも効力があるものだったのだろうか。自分には関係のないことだとしても多少は気になる。
「お茶のお代わり、いりますか?」
暗くなりかけた空気を打破するように祈咲が千里と國原に向かって尋ねてきた。それに千里と國原は同時に頷いた。祈咲はそんな二人を見て、微笑んでからテーブルの上のティーカップを下げた。
「で、君達は今回の事件をどう見ているんだい?」
自分の意見など、捜査に役立つとは思えない。しかし、静馬が訊いてくる以上、何かしら理由があるのだろう。
「正直、俺はお手上げ状態だ。犯人を逮捕したいとは思うが、それと同時に無理なのではないかとも思っている」
國原の胸の内を初めて聞いた。國原がそんなふうに感じているとは知らなかった。いつも自信に溢れた男、というわけではないが、そういった弱音に似たものを吐くタイプでもない。そんな國原がこのようなことを言うほどの難事件ということだ。
「君は?」
静馬は國原の言葉には特にコメントしないで千里に訊いてきた。
「……私は、必ず犯人を逮捕したいと思っています」
「それはどうしてですか?」
続きを促してきたのは静馬ではなく、祈咲だった。祈咲は手にトレーを持って戻ってきていた。そこには新しいハーブティーが載っており、独特な香りが辺りに広がる。
「私個人の意見ではありますが、犯人を許せないと思っています」
詳しいことは語らずに、それだけを口にした。國原は千里の過去を知っているのでその理由はなんとなしに察することが出来るだろう。そしてそのお陰で水穂のことについては話さなくて済む。
静馬は以前、千里になんらかの過去があることを見抜いているので、それを考慮それば千里の言葉の意味は理解出来るだろう。
「成る程ね」
案の定、千里の言葉の意味を深く言及してくることはなかった。千里はそれに内心安堵した。緊張するくらいなら嘘を吐けばいいのだが、生憎千里は嘘を吐くことが苦手だったし、相手が國原と静馬では簡単に見破られてしまう気がしたのだ。
それならば嘘を吐くことに意味はない。
簡単な言葉ではあるが、一番説得力があったのか、國原も静馬も納得したような表情をしている。
「まあ、やれるだけはやってみよう」
静馬は言いながら、國原に資料を渡すように指示をした。それに静馬が鞄の中から大きな封筒を取り出す。そこには本来ならば持ち出し付加の重要な資料が入っているのを千里も知っていた。
「出来ればデータにして欲しいんだがな」
國原は封筒を受け取る静馬に溜め息混じりに言う。実際捜査本部でも資料はデータ化を始めている。そのほうが印刷などの時間も短縮出来るからだ。
「どうも液晶画面上というのは味気なくてね」
肩を竦めてみせる静馬はそれだけの仕草で絵になる。
「昔から言っていたな」
「捲るという行為がね、脳を動かすんだ」
静馬の言いたいことは何となくわかる。画面を見ているだけだと、情報が脳を素通りしていくときがあるのだ。それは勿論集中力に欠けるときなのだが、そういったときも紙であれば自然と集中力が戻ってくるのだ。
「なら、さっさと脳を動かしてくれ」
「完全な人頼みだけはやめてくれないかな」
淡々とした応酬が続いていく。それを千里と祈咲が同時に眺めていた。祈咲は千里の向かいに座っていて、整った顔がよく見える。相変わらず鮮やかな白さだ。
彼の髪は本当は脱色ではないのだろうという確信があった。その理由は白さが鮮やか過ぎるからだ。こんな白さは脱色やカラーリングなどで出せないように思えてならないのだ。
「今言えることは、何もないよ。圧倒的に情報が少ない。しかし、これ以上の情報が集まるとも思えないがね」
それもその通りだ。
「犯人が今よりもっと犯行を重ねてくれ、情報が増えていくのを待つしかないのかもね」
「不謹慎だぞ」
「そう言われてもね。そうでもないと情報が増えないだろう?」
とは言え、それが最善でないことだけはわかる。本当はこれ以上被害者が増える前に犯人を逮捕するべきなのだ。急がないことには被害者は増え続ける一方だろう。決して終わることのない制裁。いや、これは私刑というべきだろうか。
これは犯人にとっては正義の裁きなのだ。
「私としては一刻も早く犯人を逮捕することを望みます」
千里は今一番に思うことを素直に口にした。それが何よりの望みだ。水穂の為にも。これ以上被害者を増やさない為にも。
「犯人を逮捕できる自信はあるんですか?」
三人の会話に口を挟んできたのは祈咲だった。祈咲の声はいつもよりワントーン低い気がした。それは少し祈咲のものとは違うように思えた。
その祈咲の一言で場の空気が水を打ったようにがらりと表情を変えた。三人とも口を噤み、祈咲へと視線を向ける。
「……正直、自信はないわ」
千里は小さく口を開く。それが今の正直な気持ちだった。自信など、あるはずもない。
「でも、それでも逮捕しなくてはならないと思うの。……それは犯人の為にも」
不意に口をついて出た言葉だった。今までそんなことは微塵も考えたことはなかった。いつも意識は被害者でも犯人でもなく、こども達へと向かっていた。
「犯人の為に?」
祈咲の形の良い唇が動く。少しばかり血色が悪く思えるのは気のせいだろうか。
「そう。犯人の為。貴方は間違っていると、伝える為に」
千里は真っ直ぐに祈咲へと視線を向けて答えた。それはまるで祈咲によって導き出された答えのようだった。そう、心の奥にその概念はきっとあったのだ。しかし、それが表面に現れることはこのときまでなかった。
「……そうですか」
祈咲はそれだけ言うと、失礼しました、と小さく笑みを浮かべた。それに静馬が構わないよ、と返す。部屋の空気はその一言で元へと戻った。しかし、千里の胸のざわつきは治まることはなかった。
「協議をするべきかな」
静馬がティーカップを持ち上げながら言葉を発した。
「何をだ」
「そうだね。協議することなど存在しないみたいだ」
静馬と國原は短く会話を終了した。また、静かな空間へと戻る。誰も特に言葉を発することもなく、時間だけが過ぎていく。かち、かち、と掛け時計の音がやけに大きく耳に届く。
恐らく、短い時間だったと思う。それでも千里にはとてつもなく長い時間に感じられた。二、三分程度が十分程の体感を味わう。
「では、今日のところはこの辺りでいいかな。他にも仕事はあるものでね」
かつ、とティーカップをソーサーに置く音がした。そこで漸く時間が動き出したのを知る。そうだ。この短い時間は止まっていたのだ。
「そうだな」
國原は静馬に同意して、立ち上がった。千里もそれに続いて立ち上がる。
「次に来るときは有益な情報を期待しているよ」
「出来ればな」
そう言い合う二人にはこの間のような険悪な雰囲気はなかった。千里はそれに心中で安堵した。




