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千里は水穂の気持ちを考えてみた。彼女はきっと自分のせいで角田が殺されたと思っているのだろう。だからこそ自分を責めている。それに対し、ゆかりはどう接していいのかわからないと正直な気持ちを告げてくれた。
──それもそうだろう。
水穂の気持ちは水穂本人にしかわからないのだ。周りがいくら貴女のせいではないと言ったところで彼女の気持ちが晴れることはないのだろう。それはもしかしたら永遠に。
「……確かに私は貴女の推測通り、こどもの頃に人には打ち明けづらい経験をしています。もしかしたらそれは鈴原さんが経験したことより壮絶かもしれません」
とはいえ、それは周りが計ることであり水穂からしてみれば何よりも辛い経験だろう。水穂が角田からされたことは簡単に消えるものではない。辛い経験というのは誰かと較べたところで軽くなるものではないのだ。
「けれど、私に何か出来ることがあるとは思えません」
千里は正直な想いを口にした。それにゆかりが落胆するのが見える。
「私がどんな言葉をかけても、例え犯人が逮捕されたとしても、鈴原さんが抱いた感情を消すことは出来ないのだと思います。随分と薄情な言い方になりますが、鈴原さん本人が折り合いをつけて生きていかなくてはならないのだと思います」
勿論、角田が殺害された件に関して水穂に罪はない。これが水穂が大人であって、誰かに殺人を依頼したというならばそれは罪に問われるだろう。しかし今回はそれとは違う。水穂はまだ刑事罰を受けられる年齢でもないし、そもそもそれが殺人依頼などとは知らなかったのだ。知らなければいい、というものではないのも理解してはいる。
けれど水穂の精神状況を考えてみたら、それは極自然なことなのかもしれない。しかし、と千里の思考は留まることを知らずに動いていく。
兎も角、水穂が何らかの罪に問われることはないだろう。しかしそれがまた彼女を苦しめるのかもしれない。
千里は考えをゆかりに対し、次々と言葉にしていった。
「私個人の考えではありますが、鈴原さんは一生自責の念に囚われて生きていくようになると思います。それほどに重いことですから。でも、彼女は悪くない。誰だって助けを求めたくなる。それが見ず知らずの他人であっても。その気持ちはよくわかるつもりです。だから、私は犯人が許せない
初めてだった。今回の事件はどこか他人事であり、それでいて身内を抉られるようなものだった。だからこそいまいち捜査に身が入らず、様々なことを悩んだ。しかし今ゆかりから水穂の話を聞き、初めてこれらの事件の犯人が憎いと思えたのだ。
こういった悩みを抱えているのは水穂だけではないだろう。きっと多くの児童が同じ感情に苛まれているはずだ。劣悪な環境に身を置いていた児童などは最初のうち安堵して暮らすのだろう。けれど成長したとき、己の犯した罪の重さを知るのかもしれない。
これは罪と呼べるものなのかどうか疑わしいところではあるが、本人はきっとそれを罪だと感じるのだろう。救われた後に訪れる自責の念。もしかしたら後悔も自責もない者だっているかもしれない。切り拓かれた未来だと思う者もいるかもしれない。それでも水穂のような感情に囚われて生きていく者もいるのだ。
それを思うと犯人のしたことが許し難いことに思えてならない。無論、被害者達が児童にしたことだって許されることではない。現に児童達は誰かに救いを求めるほどに傷付いていたのだから。
「私は犯人逮捕に尽力を注ぎます。それと同時に、鈴原さんとも出来る限り接見しようと思います。私が掛けてあげられる言葉などたかが知れていますが、少しは彼女の気持ちがわかりますから」
千里が言うと、ゆかりはありがとうございます、と深く頭を下げた。
「私が隠していたのはそのことだったんです。角田先生が殺された夜、鈴原さんからその話を聞きました。そこで私は黙っているよう言いました。角田先生から受けたことも含めて。そのことは誰にも言ってはいけないと。そうすることで鈴原さんの気持ちが軽くなれば、と思ったのですが反対に彼女を追い詰めてしまったようですね。私としては執拗に警察から聴取を受けたりするのを避けたかったのですが」
ゆかりはそう言って自嘲的な笑みを浮かべた。確かにあの夜にそれらのことを聞いていれば急いで事の真相を水穂から聞き出そうとしただろう。水穂の気持ちも考えずに。それは水穂を深く傷つけることを意味している。
捜査の結果としては変わらなかっただろう。あの夜に水穂の話を聞いていたとしても、犯人が捕まっているということはないように思うのだ。そんなこと程度で簡単に状況は変わらない。そんな程度の時間差で捕まるような犯人ではないだろう。
だとしたら、ゆっくり水穂から話を聞き出せただけよしとするしかない。角田を死に追いやったという水穂の気持ちも、あの夜に話を聞いていたとして何も変わらないのだ。
「出来る限りのことをします」
千里はその言葉を強い口調でゆかりに告げた。
祈咲の姿が視界に飛び込んできた。鮮やかすぎる白。それはあまりに眩しかった。
「祈咲君」
今日は迷うことなくその名を呼んだ。するとそれに祈咲はゆっくりと振り向いた。声の主が誰かわかっている振り向き方だ。
「千里さん」
祈咲は千里の姿を認めると微笑んだ。幼さの残る笑顔だ。
「仕事帰り?」
夕暮れの住宅街は人がまばらだ。少なくもないし、多くもない。制服姿の少女達と買い物袋を提げた中年の女性。それと犬の散歩をする老爺。
「そうです」
千里の問いに祈咲は微笑んだまま答えた。祈咲を見て、この間静馬の事務所で会った少女の存在を思い出した。小毬、と呼ばれていた少女だ。彼女は祈咲と一体どんな関係なのだろう。そう思ったところで訊けない。
「千里さんもですか?」
祈咲に訊かれ、千里は頷きながら手にしたスーパーの袋を見せた。
「そういえばお料理されるって言ってましたね」
「久し振りにしっかり作ろうかと思って」
返しながら祈咲の手元も見るとそこにはドラッグストアの袋が提げられていた。半透明の袋の中には栄養固形食が大量に入っていた。それと同じくゼリー状の栄養食だ。祈咲はいつもこんなものを食べているのだろうか。
「いつもそんな食事なの?」
つい、訊いてしまった。長袖から覗く祈咲の手首が細過ぎて訊かずにはいられなかったのだ。千里の質問に祈咲は苦笑いを浮かべてから口を開いた。
「料理出来ないので、どうしてもこういったものになってしまうんですよね」
男性の独り暮らしならそんなものなのかもしれない。とはいえ、それでは栄養が偏ってしまうだろう。
「……もしよかったら、今度、食事を届けましょうか」
不意に口から出た言葉だった。端からそんなつもりでこの話題を選んだわけではない。
言ってからしまった、と思った。どう贔屓目に見ても自分達の関係は親しいとは言い難い。祈咲だって親しくもない相手にこんなことを言われても困るだろう。
今のはなし。そう言いかけたとき、祈咲の唇が動いた。
「本当ですか? 嬉しいな」
予想外の科白だった。まさかそんな返しが来るとは思ってみなかったので千里は驚きのあまり言葉を失った。
「あ、もしかして社交辞令みたいなものでしたか? すみません、図々しく勘違いしてしまって。恥ずかしいな……」
祈咲はそう言って首の後ろを掻いた。その頬はうっすらと赤く染まっている。
「あ、いいえ、違うの。言ってからもしかしたら迷惑だったかしら、と思ったから驚いたの」
「そうでしたか。よかった、勘違いでなくて。迷惑なんかじゃないですよ」
祈咲は照れたように笑った。その笑顔に胸がざわりと妙な音を立てた。心臓が動くのを感じた。そんなことは初めてで自分でも驚いた。
「どうかしましたか」
黙り込んだ千里の顔を覗き込むようにして祈咲が訊いてきた。あまりに突然のことで千里は思わず身を引いてしまった。突如視界に飛び込んできたのは目に痛いほどの白だった。
「え、ああ、なんでもないわ」
千里は驚いたのを隠すように首を横に振った。しかし祈咲は千里の様子に気付いたようでくすくすと笑っている。少しばかり笑いを堪えたかのような仕草が彼をいつもより更に幼く見せた。
「すみません」
祈咲は一頻り笑い終えてから目に浮かんだ涙を拭って謝罪の言葉を口にしてきた。笑いながら、涙を拭いながら謝罪をする姿は怒る気を削ぐ。
「……いいわ」
千里は眉を下げて笑った。それを見た祈咲は何やら楽しそうに笑っている。一気に距離が縮まったような気がした。そんなことはあるはずもなく、錯覚なのはわかっている。それでも今このときは確かにそう感じたのだ。
「はあ、千里さんと話すの、楽しいです」
祈咲は再度笑い、その後に小さく息を吐いた。
──楽しい。
そう言われ、頬が僅かに熱くなるのを感じた。夏の暑さのせいとは違う。それは自分でもわかる。
「そう、かしら」
千里は熱を帯びた頬に軽く触れながら返した。祈咲が小さく微笑むだけで鼓動が強くなる。こんなことは初めてだった。祈咲の一挙一動に心臓が動く。それの意味がわからないほどこどもではない。しかし簡単に認めるわけにもいかなかった。
まだ出会って間もないし、会話だって数えるほどしかしたことがないし、それも濃い内容ではなく他愛ないどころか実のない話だ。それでも、と思い当たる節もあった。
静馬の事務所で背中を押してもらったこと。自分を普通の女性だといってくれたこと。自分に笑いかけてくれるところ。挙げ始めれば幾つも出てくる。
きっかけは存在していた。それをずっと見ないようにしていただけ。だから何故祈咲を見付けると声を掛けたくなるのかもわからない振りをしていた。それでもまだ素直に認められない自分がいる。そんなことに現を抜かしている場合ではない。
自分にはやるべきことがあるのだ。水穂の為にも、必ず今回の事件の犯人を逮捕しなくてはならないのだ。
千里は自分の感情に蓋をした。するしかなかったのだ。
「すみません。失礼でしたよね」
祈咲は僅かに眉を下げる。顔を揺らしたせいか、綺麗な白髪の髪がはらりと揺れた。黒目がちの目が彼を実年齢より幼く見せるのだと思っていたが、それは間違いだったようだ。彼が実際の歳より幼く見えるのは表情のせいだろう。
祈咲の表情はどこかこどものようなときがあるのだ。
「いいえ、気にしてないわ」
千里は答えながら祈咲のころころと変わる表情を見た。目を大きく見開いたり、細めたり、笑ったり、すまなそうな顔をしたり。それはまるでこどものようだった。
祈咲はよかった、と微笑んだ。
まるで、自分が真っ直ぐに育った姿を見ているようだと思った。自分があの出来事を経験せず、何事もなく普通の経験だけを積み重ねていたら。そうしたならば、こんなふうな人間になったのではないかと思えたのだ。
だからこんなに気になるのだろうか。だから、こんなに心が動くのだろうか。
「じゃあ、僕は帰りますね」
祈咲の言葉に我に返った。何処か遠くの空で烏が鳴いている。不安を煽るような、それでいて切なさを含んだ鳴き声だった。
千里も祈咲に別れを告げ、居住を構えているアパートへの道程を歩き出した。
まだまだだ。まだまだ辿り着くことは出来ないだろう。
そもそも辿り着けるはずはないのだ。辿り着けないようにしているのだから。
闇が濃くなる。何処までも拡がるような闇はいつしか、拡がることをやめ、濃さを増すことを覚えた。次第に濃くなる闇はもう、一歩前すら見えないほどだ。
何も見える必要はない。見えてはいけないのだ。
なのに。なのに、遥か遠くに何かが見えた。それはまるで一筋の光のようではないか。
そんなことはあるはずもない。あるわけがないのに。
ならば、目を閉じてしまおう。何も見なければいいのだ。そうすれば、それはないことと同じになるのだから。
またひとり、またひとりと被害者が増えていく。
己の罪は死を以てして贖え。それしか償いの術はないのだと言わんばかりに殺されていく大人達。
『汝、死して償え』




