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ギルティメイズ  作者: 碓井旬嘉
序章─始まりの始まり─
1/16

序章

Attention!!

いきなり残虐描写から始まります。序章は全て残虐描写となっております。苦手だという方はお読みにならないことをオススメします。

苦手だけれどこの作品を読んでみたい、という方は序章後の後書きをお読み下さい。

 己の咆哮で覚醒するのは何度目だったか。

「ねぇ、痛い? 痛いよね?」

 まるで甘えるかのような声で問い掛けられ、腹の底から吐き気が込み上げる。しかし、もう何十時間も水分しか喉を通過していない為、外へと出されるのは胃液混じりの水のみだ。水が一緒の分、喉が焼けるような感覚はない。ただ、先程大量に飲まされた水がそのまま食道を上がってくるということは時間は然程経過していないということだ。

 次に、鋭い痛みが襲ってくる。間違いなく、この痛みによる叫びで目を覚ましたというのに、吐き気と未だ続く恐怖から一瞬痛みを忘れていた。

 二の腕のところが、ぴりり、とまるで分厚い紙で深い切れ目を入れられたかのような痛みが走る。小さくも、大きくもない痛み。けれど、既に他の傷が化膿を始めているので、その付近に刃を当てられると、そこまでもが疼く。

「う…………あぁ」

 もう、言葉は、ない。直に声も出なくなるかもしれない。

 化膿した傷達は熱を持ち始め、全身が熱い。しかし、それを察知されてか、白い錠剤を二回前の覚醒時から飲まされるようになった。そのときが唯一、水を口に出来るときだった。全身が熱い為、貪るように水を飲んだ。水だけは、気の済むまま飲ませてもらえた。

「まだ足りない? 痛みが弱い?」

 相変わらず吐き気をもよおさせる声色に、いやいやをするように首を振る。泣き声なのか、呻き声なのか自分でも判断出来ない声が漏れる。痛みは麻痺することがない。恐怖も麻痺することはない。

 体は自身の血にまみれて、鉄臭いし、凝固した血液というのは固い。それらが肌に纏わり付き、まるで皮膚が鱗のようになったみたいだと思う。かさかさと、凹凸がある肌。

 眠りに落ちれば──正確に言えば、気を失えば、痛みで起こされる。しかし、痛め付けは長く続くわけではなく、断続的だ。少し傷を付けられ、深く傷を付けられ、それを延々と繰り返される。

 ──何日が経過しているのか。

 窓は雨戸で塞がれ、外の様子は一切わからない。ただ、ずっと暗い。しかし、目は既に暗闇に慣れてしまい、状況だけはよく見える。次に光を見るときは、この両面は焼けつくように痛いのではないかと思い、直ぐにその考えを頭から振り払った。次に光を見ることなど、きっと、ない。もう、ずっと、此処にいるしかないのだ。そして、このまま死んでいくのだ。

 ──殺して。殺して。お願いだから殺して下さい。

 痛みに呻きながら声を振り絞ろうとするも、喉を通過して外に漏れるのは妙な音だけ。懇願の科白は表へとは出てくれないのだ。

「どうかした?」

 妙な声に反応され、視線を動かす。頭ごと動かす気力は既にない。胃の内容物を吐き出すときも、頭を床につけたままなので、それらは全て頬へ、瞼へと張り付く。けれど、臭いは気にならなかった。それは、水ばかりを吐き出すせいではない。

 この部屋の汚臭のせいだ。悪臭、汚臭が充満していて、自分の胃液の臭いなど大したものではない。

 腐敗の臭いと、死の臭い。

「何か言いたいの?」

 顔を覗き込まれ、目を逸らす。自分の体で唯一正常に動くのは眼球だけだった。手足は弛緩したように重く、そして少しでも動かせば傷が痛む。頭など、鉛のようにずしりと重い。恐らく、栄養失調と恐怖から来るものなのだろう。

 ──死にたくない。殺さないで。殺さないで。

 目線を動かした先にある塊を見てしまい、咄嗟に先程とは真逆の思考へと陥る。

 ──殺さないで下さい。

 恐怖を感じ続ける証。未だ絶望を喰らえない証。

 恐怖を失うには少ない痛み。絶望を知るには浅い傷。

 事の始まりは、幾日前なのか────。


 ぐっすりと眠っていた。こども特有の熟睡。しかし、ふと、目が覚めたのだ。目が覚めた際に頭に浮かんだのは、明日の運動会のこと。小学校に入ってから、四回目の運動会。今年の参加種目は徒競走と障害物競争。来年、高学年になれば騎馬戦と組体操があるのが何より楽しみだった。

 体を動かすのは好きだ。先月からスポーツクラブにもなった通わせてもらえて、少し体が柔らかくなってきたばかり。もう少しで前屈がマイナス五センチに到達しそうだった。

 運動会が楽しみで目が覚めてしまったのか。明日──正確に言えば今日は、母親がウインナーと卵焼きを入れた弁当を作り、父親がビデオカメラを持参して朝から学校に来てくれることになっていた。とはいえ、そんなこと程度の楽しみで目が冴えてしまう程もうこどもでもない。

 少しばかり不思議に思いながらも、喉の渇きを覚え、部屋を出た。

 一昨年、父親が三十五年という途方もなく長く感じられるローンを組んで購入した、念願の一軒家。まだ父親は三十五歳。しかし、ローンを払い終える頃には定年退職を迎えているので、退職金で残りのローンを支払うから、お前にはローンは残らないよ、と引っ越してきた日に優しい笑顔で言っていたのをはっきりと覚えている。

 決して広いとは言えないが、新築の家は家族四人で暮らしには十分だった。リビングに、両親の寝室、姉の部屋、自分の部屋。それと、仏壇を置ける床の間のついた和室。庭もあって、来年辺りには犬を飼おうかと、動物が大好きな母親が言っていた。姉と自分は大喜びし、何の犬がいいか、慣れないパソコンの前で相談しあった。

 何の変哲もない家族。それが、自分達だった。

 しかし、その、変哲もないが、幸せに溢れているはずの家に、不穏な空気を感じ取った。はっきりと、不穏だと思ったわけではない。水を欲して暗闇の中、ゆっくりと階段を下りているとき、妙に心臓が早鐘を打つのだ。まるで、悪いことをした後、何故かそれが既に親にばれてしまっているのに気付いたようなとき。あの感覚は常々不思議だった。何故、親が知っていることを知っているのだろう、と。謂わば、第六感というものなのだろうが、幼い知識にそんな単語は加わっていなかった。いや、第六感というより、罪悪感から芽生える錯覚のようなものなのだろうが、今はそんなことの真意などどうでもいい。

 ただこのとき、それと似たような感覚が体を取り巻いていたのだ。

 ──部屋に引き返さなくては。

 強く、そう思った。しかし、体は言うことを聞かず、勝手に階段を下りていく。物音がするわけではない。それだというのに、妙な気配だけが家中を漂っていたのだ。

 階段を下りきり、キッチンに向かう為に体の方向を変えた。そのとき、リビングの灯りが点いていることに気付いた。薄く開いた扉から、一筋の灯りが漏れていたのだ。まだ両親、もしくはどちらかが起きている。それに安堵し、リビングへと早足に向かった。

 怖い思いをした。そう告げれば、怖い夢でも見たか、と頭を撫でてもらえることを知っていたから。もう抱き締めてもらう程こどもではないが、頭を撫でてもらえば安心出来る程には幼かった。

「お父さん、お母さん」

 一秒でも早く安心したくて、大きな声で呼びながら扉を開けた。どうしたの、と微笑みながら迎えてもらえると信じて。大好きな両親の、大好きな笑顔がそこにあると信じて。早く、早く安心して、それで眠って、明日は運動会で────。

 全ては、一瞬にして崩壊した。

「来ちゃ……駄目。来ないで……」

 そこにあったのは、両親の笑顔ではなかった。涙と鼻水で顔を汚した母親と、恐怖に顔を引き攣らせながらも、ゴルフクラブを構える父親の姿。それと、ソファの上で肢体を縛られた、一つ上の姉の姿だ。

 父親が構えるゴルフクラブは、去年亡くなった、母親の祖父から譲り受けたものだったはず。ホールを回るのは、定年後の楽しみにでもしようと、父親は月に数度、近所で打ちっぱなしを楽しんでいた。たまには連れていって、と頼むと、いいぞ、と一緒に行ってくれた。その後、近くのファミレスで夕飯を食べさせてもらうのが楽しみで──……。頭に浮かぶのは、この場にそぐわないことばかり。

「わぁ。起こしに行く手間が省けたね。でも、まだ、準備の途中だったのに」

 ──見知らぬ男が、いた。

 まだ若い。短い髪は清潔さを感じさせ、細い目は几帳面さを思わせた。背は高いが、こどもの目線なので確かなことはわからない。体も大きく感じるが、実際は半袖から伸びた腕の肘の部分は骨が目立つ。きっと、恐怖心がその男をとてつもなく大きな化物に見せているのだろう。

 保育園のときの節分を思い出す。赤い鬼の面を付けたのは、いつも優しい由希先生だとわかっているのに、いつもの由希先生よりもずっと大きく見えたのだ。

「本当は、三人とも縛り上げてから起こしに行くつもりだったんだよ」

 場違いな程、にっこりと微笑まれた。悪い顔だちではない。むしろ、整っているだろう。それだけにその笑顔は恐ろしく見えた。まるで、地獄で大量の屍を踏みつけながら微笑む天使のようだ。

「逃げて……」

 母親が大粒の涙をぼろぼろと溢しながら這いずってくる。腰が抜けているのだろう。

「ちょっと、勝手に動くなよ」

 男がこちらに来ようとする母親の顎を蹴り上げた。あまりに一瞬の出来事に、何が起きたのか理解するのに時間を要した。母親はが、と声を漏らして後ろに倒れ込む。

「逃げなさいっ。走ってっ。お前だけで……もっ」

 父親の悲痛な叫びは鈍い音で途切れた。ど、と重たい音がする。

「五月蝿いんだよっ。この子がいないと始まらないんだっ」

 男が怒鳴る。その足元では父親が頭を抱えて蹲っている。男が何かで父親の頭を殴打されたようで、額には鮮血の筋が流れている。男の手に目を向けると、そこには金属バットが握られていた。

「お願い……。お願い、だから、こども達だけは……」

 母親がどうにか起き上がり、よろよろと頭を下げる。

 ──自分達だって恐ろしいはずなのに。

「だからさぁ、言ってる意味わかんないの? この子がいないと始まらないって言ってんじゃん」

 男は床に額を擦り付けている母親に近寄る。母親は肩どころか、全身をがたがたと震わし、男が近付くと、ひ、と細い声を上げた。それでも震える声でお願いします、とひたすら懇願する。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ。親なんてな、いらないんだよ。この子には、これから、僕がずっといてあげるんだ。だから、お前らなんていらないっ」

 彼が何を言っているのか全く理解出来なかった。けれど、何故か自分が彼に執着されていることだけはわかる。理由まではわからない。ただ、彼にとって今、自分が必要らしいということだけは、嫌という程はっきりとわかるのだ。

 しかし、何が始まらないというのだろう。何が、自分がいないと始まらないのか。

 恐怖心に支配されていた。動くことも困難で、両親の逃げろという言葉に従うことすら出来ない。その場に座り込み、震える全身を縮めることすら出来ないのだ。そんなとき、ううん、と小さな唸り声が耳に届いた。それは、縛り上げられ、ソファの上に転がされた姉のものだった。

 姉は、寝ていたのか、気を失っていたのか、ゆっくりと目を開ける。その様を、まるで観察でもするように見ていた。姉は目を開けると、途端に顔色を青ざめさせた。一瞬で、何が起きているのか理解したのだろう。彼女は、同年代の誰よりも頭がよかった。それは、勉強が出来るというだけではなく、頭の回転も早く、利口だったのだ。そんな彼女は、今、この場で何が起きているのか瞬時にわかってしまったのだろう。

 真っ青な顔で、家族を見回し、それから男を見た。

 体が自由でないことには気付いていないのか、身動きは取らずにいる。それとも、大人しくしていなくては、と無意識に自身で動きを封じているのか。

「よし、決ーめた」

 男は言ってから、上唇を舐めた。赤い舌がちろりと覗く。軟体動物みたいな動きは気味が悪い。

「最初は、愛結あゆちゃんにしよう」

 男の言葉に、母親と父親が息を飲むのがわかった。姉も自分の名を呼ばれ、これから起こることを想像してか、漸く体を動かそうとした。しかし、両手を後ろで縛られ、足は体育座りの要領で脹ら脛と腿が密着して縛られている為、芋虫のように動くことしか叶わない。それでも、必死にもがき、ソファから滑り落ちた。

「はい、いきますよ。よーく見ててね」

 目を逸らさなくては。目を塞がなくては。そう思うのに、脳から筋肉に指令は行き届かず、反対に目を見開いてしまっていた。姉はずりずりと、妙な生物のような動きで逃げ惑っていて、それを男が酷くゆっくりと追い掛ける。姉は泣くことはせず、歯を食いしばって、それでも逃げようとした。男はにやにやと口角を上げ、そんな姉の前に立ち塞がる。そして、行動に移した。

「やめてぇーっ」

 母親の悲痛な叫びが耳に木霊こだまする。それと同時に、ごん、と鈍い音。姉は体を縛られたまま、背中を金属バットで殴られていた。うう、と低い呻き声を上げ、痛い部分を摩ることも出来ないまま、それでも動きを止めない姉が恐ろしく見えた。恐らく、凄まじいまでの生への執着なのだろうが、姉は他の家族の誰も見ていなかった。きっと、縛り上げられていなかったならば、走って逃げ出していたに違いない。

 一つ上なだけで、まるで双子のように仲良しだった姉とそこにいる姉は別人のように思えた。

「大丈夫。一撃で殺したりしないから」

 男はそう言うと、再び金属バットを振り上げた。母親が絶叫する。父親はやめろ、と怒鳴りながら男に抱き付こうとするも、いとも容易く振り飛ばされた。どう見ても男より父親の方が体格はいいし、父親はその昔、アメフトをやっていたらしい。なのに、男の力には勝てない。

 父親が男に抱き付こうとした隙を見て、母親が姉に駆け寄り、庇うように抱き締める。それでも姉は、まだ逃げようとしていた。母親は姉を抱え、自分のところにも来た。そして、我が子を守るように抱き締める。母親からは鉄の錆びた臭いがした。それは、先程蹴り上げられたせいで、口から出血をしているからだ。

「邪魔すんなよっ」

 男は怒り狂った声を上げ、父親の髪を掴んだ。そして、二回程顔面を拳で殴り付け、痛みと衝撃で動きが鈍くなったところを俊敏に捕らえた。テーブルの上に置いてあるロープで素早く父親を縛り上げた。それは姉と同じような姿だった。

 余程強い力で殴ったのか、父親の鼻の形は歪み──恐らく鼻骨が砕けている─、鼻血で顔の下半分は真っ赤だった。苦痛に顔を歪ませながらも、それでも動いているのは、逃げる為ではないだろう。家族を、守ろうとしているのだ。

「次はあんただよ」

 母親の肩越しに、その声を聞いた。母親は姉のロープを必死にほどこうとしていたが、男の行動の方が早かった。

「逃げて……」

 ロープのほどききれない姉のことは諦めたのか、母親は背を肩を押してきた。

「それは駄目だって言ってんだろっ」

 男がまた怒鳴る。

 この家は周りと少し距離がある為、この騒ぎを近所が聞き付けることはないだろう。しかも、深夜だ。

「安心しなよ。この子のことは殺さないから。だから、逃がす必要はないんだよ」

 酷く優しい声だった。それが偽りではないことを証明する声色。自分だけは殺されないという確証を得た。その反面、自分以外は殺されるのだと、はっきりと理解してしまった。

「な……なら、愛結も……。愛結も殺さないで……」

 母親の泣き声に、姉の目が光る。希望の色を見出だしたのだろう。助かるかもしれない、という。

「それは駄目。駄目だよ。皆殺すんだよっ」

 男は言い、母親の首に手をかけた。細身の母親の首は細い。男の片手にすっぽりと納まってしまう程だ。

「僕はね、この子に絶望を知って欲しい。そして、絶望の中の光が僕なんだと刻み込みたいんだ。だから、一人として残してはいけないんだよ」

 母親は苦しそうに喘ぎ、必死に男の手を振り払おうとするも力で男に勝てるわけがない。みし、みし、と嫌な音がする。それでも母親は抵抗を続けていた。その顔は血色を失い、目から涙を流し、口をだらしなく開いている。

「大丈夫、まだ殺さないから」

 言葉と共に、母親の細い首は解放された。どさり、と母親は崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。がほ、と咳き込みながら、それでも尚、こども達を助けたいのか、手をもがく。

「君は、本当に大人しいね。イイコだね」

 こちらに言葉が掛けられた。大人しいのではない。動けないのだ。恐怖から、ではない気がした。どうやら自分は殺されないらしい。それは何故か最初から肌で感じていて、その恐怖だけはない。けれど、恐ろしいのだ。

 眼前の男のことが、全く理解出来なかった。行動も、言葉の意味も。到底日本語を喋っているようには思えなかった。

 ──彼は、一体誰なのだろうか。

 頭の隅に芽生えた疑問を繰り返しているうちに、母親までも体を拘束された。手慣れた行為に見えた。人を縛るのが手慣れているというのは、どう考えてもおかしいのだが、そう思えたのだから仕方無い。

「よし、準備は整ったね。漸く始められるよ。よく、見てて」

 男はそう言うと、頭を撫でてきた。細い指で、髪をすかれるように手をかけられ、ぞわり、と何かが這い上がる。嫌悪感。それしかなかった。

「愛結ちゃん。行くよー」

 嬉々としたその声は、場にそぐわず、まるで遊びを楽しむかのようだ。男は金属バットを振り上げ、姉の背中を狙い、思い切り打ち付けた。姉は、う、と声を漏らし、恐怖に顔を歪ませている。見たことのない姉の形相は、何故か自分を捉えていた。それは責めるかのような視線で、目を逸らしたいのに、出来なかった。男の言葉に従う気など到底ないというのに、体が、筋肉が言うことをきかない。

「はい、もう一度ー」

 男は今度は姉の腹を打ち付けた。母親が必死にロープをほどこうとしたので、足の拘束だけは解けていたのだ。剥き出しの腹に、金属バットが打ち込まれる。どす、と鈍い音がして、姉は苦痛以上の表情を浮かべた。そして間も無く、嘔吐をし、喘いだ。吐瀉物が床にぶちまけられ、すえた臭いが鼻につく。

 近くでは母親が身動きが取れないまま泣き叫び、父親も必死に男に近付こうとしている。それでも父親はいつの間にかテーブルにくくりつけられていて、一歩も動けない。全てを見ているようでいて、何処か曖昧だった。もしかしたら、思っているより長い時間が経過しているのかもしれない。

「うわ、汚い。それに、五月蝿い。やっぱり親からにしよう」

 男は姉の体を蹴り飛ばし、母親に向き直る。母親は姉への攻撃をやめてもらえたことに、少しばかり安堵しているようにも見えた。それでも、姉が殺されることは間違えようのない事実なのだろう。けれど、殺される我が子を目に焼き付けてから死ぬくらいねらば、せめて、先に死んでしまいたいと思うのか、母親は姉が痛め付けられているときよりも僅かに落ち着いた表情になっていた。

 ──ああ、愛されていたのだな。

 不意に、過去形で感じた。

 両親は、自分と姉に、惜しみ無く無償の愛を与えてくれていたのだ。今の今まで、彼らの愛を感じなかったわけではない。ずっと、感じていたが、これ程までに強く感じる機会など普通に生きていたらあるはずもないのだ。

 彼らは、自分達は殺されてもいいから、それでもこども達だけは殺さないで欲しいと懇願し、行動に移そうとしてくれた。

 ──もっと、一緒にいたかった。もっと、愛して欲しかった。いつか、恩返しがしたかった。

 途端に涙が溢れる。今後繰り広げられるであろう惨状を、避けることは出来ないのだと、嫌という程に理解してしまっているからだ。逃げる術もなければ、誰か助けを呼ぶ術もない。あるのは、崩壊しかないのだ。

 幸せな日常の崩壊が、これから始まろうとしているのだ。

「簡単には死なせてあげないから、覚悟しなよ」

 男は楽しそうに言いながら、リビングと繋がったキッチン部分へと軽やかな足取りで向かう。対面式のキッチンは、料理をしながら皆と過ごせる、と母親が喜んでいたものだ。以前住んでいたマンションはキッチンが孤立していて、出来上がった料理を運ぶのも一苦労だし、何より料理中、母親はキッチンで一人きりだった。手伝おうにも狭いキッチンを二人で使うのは無理があり、いつも料理が出来上がるのをリビングで姉や父と待っていた。そんなキッチンから、男は包丁を持ってきた。

 買ったばかりだと記憶している包丁は滑らかに光を帯びている。尖端は鋭く尖り、蛍光灯の明かりを浴びて一点の光となっていた。

「はい、お待たせ」

 家族中、既に気力を失っているのか、男が自分達から離れても、誰も動こうとしなかった。自分以外は簡単には動けないという状態なのもあるが、それでも声一つあげない。異様な空気だ。この、崩壊という空気に呑み込まれてしまい、正常な精神など消え失せているのかもしれない。

「何処からがいいですかー?」

 男は包丁を弄びながら、体育座りのようになった母親の前にしゃがみ込む。細身の為、しゃがみ込むと大きくは見えない。実際、上背もそんなにはなさそうだ。

 母親は眼前に掲げられた包丁に、ごくり、と唾を飲み込んでいる。何故、こんなにも鮮明に辺りが見えるのか。やはり、目を閉じることは出来なかった。

 ──その理由は、後から理解した。

 母親の絶叫がリビングに響く。男が母親の右の脛に包丁で切れ目を入れたのだ。縦に、真っ直ぐ。ぴぃ、とまるで紙にカッターで切れ目を入れるように、躊躇なく。そこからは鮮血がじんわりと流れる。何故か、血が吹き出るのを想像していたので、何処か地味な映像に思えた。このとき既に、自分の精神は異常をきたしていたのだ。逃げもせず、家族達が痛め付けられるのを、観察でもするかのように眺めていたのだから、到底まともとは言い難いだろう。それもこれも、崩壊の空気のせいだ。

 いきなり突き落とされた非日常。精神を狂わせるのに時間などさして必要ないのだ。

「ああ、五月蝿い。これでも入れとけよ」

 男は母親の悲鳴を煩わしく感じたようで、テーブルの上にあった布巾を母親の口に突っ込んだ。母親は、もが、とくぐもった声だけを出す。

「五月蝿いの嫌いだから、あんた達もね。なんだ、最初からこうすればよかったよ」

 ぶつぶつと言う男の姿は人間ではなかった。悪魔でもない。死に神でもない。化物でもない。もう、実体のない何かでしかなかった。

 男はキッチンから二枚の布巾を持ってきて、父親と姉の口に、母親同様に突っ込んだ。二人とも手を塞がれているし、大きめの布巾だった為、吐き出すことも難しそうだ。

「はい、再開」

 明るい声が再開を告げる。

 男は今度は、母親の左腕に真っ直ぐな切れ目を入れていく。身動みじろぎされないよう、母親の体を自身の力で固定し、深めの傷を入れた。先程よりも、包丁を引くペースがうんと遅い。母親は切りつけられる間、痛みによるくぐもった悲鳴をあげ続けた。

「手首落とした簡単に死んじゃう? それとも、それくらいじゃ死なない?」

 独り言のような科白。母親はやめてと言わんばかりに首を振る。腕からは真っ赤な血が、フローリングへと滴っている。細い傷からは、細い血の筋が出来ていた。

「でも、こんなもんじゃ弱いよね」

 男は首を捻りながら、何かを考えているようだった。がたがたと、父親がテーブルを揺らしている。まだ、家族を守ろうとしているのだろう。それに男が眉間に皺を寄せ、舌打ちをした。

「五月蝿いの嫌いだって言ってんだろっ。何度も言わせんなよっ」

 まるでこどものヒステリーのように時折叫び出す。男は父親へと歩み寄ると、顔面に膝をぶつけた。何処を狙うでもなく、何度も膝で父親の顔を蹴った。鼻、額、目、頬、と色んな箇所に当たっていく。が、が、と膝が当たる音なのか、嫌な音が耳にまとわりつく。

「大人しくしないと、お前から殺すぞっ」

 男は叫びながら、何度も何度も父親の顔を蹴る。父親は漸く暴れる気力をなくしたのか、だらん、と頭を下げた。気絶しているわけではなさそうで、血で汚れた顔は目が開いていた。

「わかればいいんだよ」

 吐き捨てるように言い、男は父親から離れる。

「んだよ、予定が狂うな。時間も掛かる」

 男が苛々しているのが手に取るようにわかった。男はぶつぶつと、呟きを続ける。

「ゆっくり殺してやろうかと思ったけど、一気にやっちゃおうかな。それからのが楽しみなわけだし。こいつらヤるのなんて、パフォーマンスみたいなもんだし……」

 聞こえた言葉に、ぞくり、と悪寒が走る。それからのが。彼らが殺された後に、何があるというのか。そしてそれは、自分に関することではないのか。何の予想もつかないが、嫌な予感だけはした。不吉な気配。

「でもな、あまりにあっさりだとな……」

 男はぶつぶつと繰り返しながらも、母親の脇腹辺りを刺し続けていた。母親はずっと、うう、とか悶える声をあげている。それらは布巾に吸い込まれ、はっきりとは聞こえない。男の単調な動きは不気味だった。ずっと、母親の脇腹を刺し続けているのだ。

 深くもなく、浅くもなく、ずぶ、ずぶ、と。

 そして、脇腹を刺すことに飽いたのか、今度は包丁を首に当てた。

「此処を切ったら、一発だよね。でも、派手に血は飛ぶんだろうな」

 嬉しそうな、楽しそうな声に変わる。母親は涙を止めどなく流しながらも、諦めた顔をしていた。虚ろな目は既に現実を見ていないように思えた。痛みと恐怖で心が壊れてしまったのだろう。あまりに呆気ない。

「まどっころしいの、少し飽きた。どうしようか」

 男は言い、母親を蹴飛ばした。それでも母親は呻き声ひとつ出さない。どさり、とだらしなく倒れたままだ。それはもう、母親ではなく、ただの塊に思えた。

「しかも、もう抵抗もしないし。早いな。もっと泣き叫んでよ」

 まるで壊れた玩具を見るような目付きだった。そしてそこには侮蔑も含まれている。男は母親に跨がると、母親の首に手をかけた。漸く、母親が反応を示す。とはいっても、抵抗をするわけでもなく、暴れるわけでもない。ただ、苦しそうに目を何度も瞬きをするだけだ。忙しない瞬きは、首を締める速度に比例しているように見えた。

 力を込めれば瞬きの回数が多くなり、力を弛めれば瞬きは減る。男はその差を楽しんでいるようだ。はは、と笑い声を漏らしながら、母親の反応を喜んでいる。しかし、直ぐに飽きが来たのか、表情を固くしだ。そのとき、ぺき、と骨が折れる音が響いた。母親の瞬きは、それと同時に終了した。

 何だか、モニター越しに映像を見せられているような気分だった。この惨状が、目の前で繰り広げられているものには思えなくなっていた。手足を椅子に固定され、見たくもない映像を無理矢理観賞させられている気分だ。

 そんなふうに、味気ない、だけれど残酷で、残虐で、恐ろしく、不気味な映像は続けられた。

 次の男のターゲットは父親だった。

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