(7)
ようやく終わりました。これで心残りなく年が越せます。
舞子は少し寂しそうに微笑んでいた。以前、私が〝闇の夢〟を見ていたころによくしていた笑顔だった。
ふわり、と舞子が動いた。
私の前へ来ると、舞子は私に抱きついた。瞳が潤んでいた。
「ま……舞子?」
私はうろたえた。
舞子が泣いていた。声を出さずに泣いていた。肩の震えが伝わってきた。
今まで私は、舞子がこんな風に静かに泣くのを見たことがなかった。
彼女はいつだって、私と正反対にはっきりしていた。笑う時も、怒る時も、泣く時も……いつも感情と一緒で、どうしてそうなるのかよくわかった。だから、私は今の舞子の涙の意味がわからなかった。そしてどうしていいのかも、わからなかった。
ひとしきり泣いた後、舞子が抱きついたまま口を開いた。
「私、花生里が好きよ……。だから、自分を嫌いにならないで」
「へ?」
我ながら、間の抜けた声が出た。
意味がわからなかった。
それぞれの意味は、わかる。しかし、どうしてそれが「だから」で続くのかわからなかった。
舞子は言葉を続ける。
「生まれてから今まで、ずっと一緒だった。これからもずっと一緒にいる。だから私の好きな花生里に、自分を嫌いになってもらいたくない。そんなことになったら、私、花生里を嫌いにならなくちゃならない」
私は思わず舞子を抱きしめた。漠然とした不安が心臓を締めつけた。
「花生里の良いところは、他の誰がわからなくても、私がわかってるから、自分を卑下することないのよ。花生里には花生里にしかできないことがあるはずだから……。それが十年や二十年で見つかるはずないんだから、ゆっくり探せばいいのよ。たとえ、辛いことや悲しいことがあっても、人生の決算は必ず差引ゼロになるようになってるの。だから、途中で放り投げないで」
ドキン、と心臓が脈打った。舞子の言葉が別れを含んで聞こえる。
舞子が涙にぬれた顔を上げた。
「……ま、舞子……?」
思わず知らず、声がかすれる。
舞子は唇を震わせ、それでも微笑んだ。
「今まで花生里が経験したことを、プラスに取るか、マイナスに取るかは、あなたしだいよ……。でも、これだけは忘れないで。私は花生里が好きなの、嫌いになりたくないの。だから、自分を嫌いになるようなことだけはしないで……」
舞子の声が少しずつ小さくなる。それと同時に体から滲むように光が出て、少しずつ強くなっていった。
あまりのことに呆然としている私の腕の中で、舞子は――舞子であったものの体は小さくなっていった。
気が付くと、私は小犬ほどの大きさの動物を抱いていた。黒目がちの大きな瞳の灰色の――――『獏』。
ぺろり、と『獏』が私の頬をなめた。
「まいこ……?」
呟くように呼ぶと、『獏』の目が笑ったように見えた。そして――。
ゆっくりと『獏』の体が透けていった。やがて『獏』は溶けるように見えなくなった。手に感触と重みだけを残して……。
驚いて目を見張っている私の耳に、舞子の声が聞こえた。
――ずっと、一緒よ……。
◆◆◆
「おはよ!」
どん、と肩をたたかれて我に返った。
何度か瞬きをする。――私はどこにいるんだろう?
戸外にいた。まわりは明るい。右手に学生鞄を持って、制服を着ている。
「なあに、また歩きながら眠ってたの? 器用ねえ……」
声の主が、笑いながら私の顔を覗き込んだ。
じっと顔を見る。知っているような気が、する……いや、知っている。私の幼なじみで唯一の親友。名前は――。
「……奈々? ……」
「そうよ! まったく、寝ボケるのなら布団の中でになさい」
呆然と呟いた私の背を、ばしん! と叩いて彼女は笑った。奈々の性格そのものを表している底抜けに明るい、ひまわりみたいな笑顔だ。その笑顔が心配そうな顔になった。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど、また徹夜で原稿を書いてたの?」
「原稿?」
「初めての投稿でいきなり佳作貰ってデビューした学生作家って言われたり、昔っからなりたいって言ってた夢がかなったから嬉しいのはわかるけど、体壊しちゃ何にもならないんだからね。花生里って頼み事されると多少無理でも引き受けちゃうお人好しなとこあるから」
奈々は少し怒ったように言って、それから何かを思い出すように、
「でも確かにあの話はおもしろかったし、読んだ後ちょっと不思議な感じがするから、高い評価受けるのも肯けるけど。『灰色の獏』って、昔花生里が話してくれたやつでしょ? あの時は主人公が夢に飲み込まれて終わってたけど、投稿した方はラストが夢から覚めて自分で歩き出すっていうのに変わってたよね。あたしもあの方が良いと思うよ、ポジティブで」
奈々が思い出しながら言う言葉に、私はビックリしていた。『灰色の獏』という話を私がどこかの雑誌に投稿したという事だろうか? しかも、昔私が話した? 夢に飲み込まれる?
「ちょ、それって……」
「その時の主人公の名前が、確か……そう、『舞子』って言ったわよね。今度のは『私』の一人称で名前出てこなかったけど。『舞子』って花生里の話によく出てくるよね。自分の中に住んでるもう一人の自分だ、って言ってたわよね」
その時の事を思い出したのか、奈々はクスクス笑いながら言った。でも私は相槌を打つどころの話ではなかった。まるっきり覚えていない。私にとってついさっきまでの舞子との事が現実だったのに、いつそんな話になったのだろう。
私の混乱に気付いていない奈々は、今度は軽く私の肩を叩くと、
「ほら、行くわよ」
そのまま私の脇を通り抜け、先導するように歩き出した。
「……じゃあ、今の……夢……?」
私は呟くと、ぼんやりと自分の左手を見た。『獏』の感触と重み――確かに残っている。あれが……夢?
目を閉じるとはっきり浮かぶ笑顔、耳に残っている声――あれが……?
「花生里、何してんの」
奈々が少し先で立ち止まって私を呼んだ。
「あ、うん」
我に返った私が小走りで奈々の側まで行くと、奈々は並んで歩きながら言った。
「今もそうだけど、花生里ってば昔からよく独り言を言うよね」
「そお?」
「うん。そんな時って周りの事なんて目に入ってないみたいで、側で見てるとちょっと怖かったんだよね。特にいじめに遭ってた頃って、横であたしが何言っても返事もしないでぶつぶつ独り言言ってた」
「ごめん……。私、すごく迷惑かけたよね」
「なに言ってんの、今更。過ぎた事でしょ。それに、花生里は自分でちゃんと克服して来たんだから、そこは凄いと思うよ」
何でもないみたいに奈々が言う。私は思わず奈々の顔を見た。
「いじめが原因で自殺する人って今でもいるじゃない? そういう人達に何かしてあげられないかなあって、あたし最近思うのよ。ほら、花生里の時は何にもしてあげられなかったじゃない? あれって、すごく歯がゆかったの」
「そんな事はないよ。側にいてくれるだけでも一人じゃないんだって、感じられて心強かったんだから」
私は慌てて言った。奈々は照れくさそうにちょっとだけ笑うと、
「ありがと。だからね、話を聴いてあげるくらいしかできないけど、それで少しでも負担が減るんならそうしてあげたいなって思うのよ。あなたはここにいてもいいんだ、必要としている人がいるんだって」
「そうだね。自分の存在意義って言うの、よく考えた。自分にしかできない事を探して、見当たらなかったら誰も自分を必要としてない、いなくなっても構わないんじゃないかって、よく思った。自分の周りに味方なんて誰もいないんじゃないかって」
ふと、舞子と同じような話をした事を思い出した。それともあれも夢だったんだろうか?
「?」
誰かに呼ばれたような気がして、私は立ち止まると声の主を探してまわりを見回した。該当者はいない。少し前を歩く奈々は、立ち止まりもせず鼻歌なぞ歌っている。それにあの声は……。
「舞子……?」
胸に手を当てて小さく呟くと、くすくす笑う声が確かに聞こえ――いや、頭に響いた。
(ずっと一緒にいるから……。私は花生里なんだから……)
(うん)
私は目を閉じて、心の中でもう一人の自分に返事をした。
(私は舞子に嫌われないようにする。大丈夫、私は舞子が好きだもの)
「ちょっとォー、花生里ってばぁ、遅刻するよォ!」
ずいぶん先へ進んだ奈々が、振り返って私を呼んだ。
「うん、わかった!」
私は返事をすると、走り出した。私の中でもう一人の私が笑った。
何だか説教臭い話になってしまいました。まぁ、多少体験談も入っているので、そこのところは許して下さい。読んで下さった方、感謝です。




