香、つく、
「しかし嬉しいなぁ……。手島がこういうものに興味を持っているとは知らなかったが、嬉しいなぁ」
担任の数学教師、普段はどちらかというとぼんやりした無口な人なのに、今馨の前での先生は格段に饒舌になっていた。内心の後ろめたさをなんとか隠して、馨は先生から借りていた絵本を返しに数学準備室にいた。
「先生ありがとうございます。この絵本とてもわかりやすくて、あの、ありがとうございます」
頭を下げ、絵本を先生に捧げると、それを受け取った先生がにこにこと続けた。
「うん。統計関係は安野さんの『赤いぼうし』『3びきのこぶた』は本当にいいと思うんだ。特に手島は数学なぁ……、初歩の初歩をわかりやすくといえば決定版はこいつだからなー。あ、うん、わかりやすかったろう」
こくこく頷く馨に先生も同じくこくこく頷きかえしてきた。
先生が貸してくれたのは、子どもにも確率や統計がわかるようにと書かれた絵本だった。数学の成績がどちらかというと心許ない馨にも理解できた凄い絵本。読み終えると、先に購入し先生に訳がわからなくて訊きにいった『運は数学にまかせなさい』という本の中身がなんとかわかるようになった。
「そ、それでですね、先生。じ、実は次はこれなんですけど……」
おずおずと馨が差し出した書籍を見ると数学教師は眉を寄せた。
「手島……、お前さ、どうしちゃったんだ?」
馨の差し出した書籍は『戦略的思考の技術』
先生に言わせるとゲーム理論の本、だった――。
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「ふーん。で、憧れの遠峰が買った本を馨も購入して、読んでるって訳ね」
「う、うん……」
最近馨が読む本があまりに普段と違い過ぎるため、とうとう香奈にも気づかれ問い詰められた。話しているうちに耳まで赤くなってきた。耳がい、痛い。
「しっかし、何のためのバイトよ。洋服やらソープやら買いたくて始めたんでしょ?バイト」
言えない。
確かにそれもそうなんだけれど、バイトを始めたかった動機。
1.本屋――遠峰くんがよく買いに行く本屋でバイトして、知り合いになる。
2.お弁当屋さん――遠峰くんがよく買いに行くお弁当屋さんでバイトして、知り合いになる。
なんていうのが、希望だったなんて、言えない!!!
しかも、とりあえず挨拶するまでの仲になれたなんて、私凄い!凄い!
でも、なんか、きっと、ここまで話したら香奈にはばれている気がする……。
「あ!で、でもね、全部じゃないの。遠峰くん凄いいっぱい本読むし、買うの。全部は、無理。おこずかいもない、し。だから安いのだけ、たまに、その、ね、買ってるんだけど、どれも難しくて訳がわからないの。だからわからない処ノートに書いてね、先生に訊きに行ってるの」
「――あー、そうね。あいつ、いっつも何か本読んでるよねぇ。そんだけ本買うなんて。なんかでっかい家に住んでるって言うし、金持ちなんじゃないの」
「ど、どうなのかな?でもね、お父さんが学者さんなんだって。今アメリカの大学に教えに行っちゃってるんだって。でね、でね、お母さんはその、なんかいな、くてね。で、今一人暮らしなんだって……。きっと、大変だよね」
香奈があれ?という顔をして、それからにやにやした。
「何?馨、そういう話、遠峰とする位の仲にはなったわけ?」
「ううん。あのね、と、遠峰くんが友達と図書室で話してるのを聞いたの!」
へへへ、と笑う馨に香奈が真顔で溜息ついてから、言った。
「やだー、ちょっとおー、ここにストーカーがいる-」
「なっ!!あ、あたしストーカーなんかじゃないもん!!」
思わず大声で返す馨を教室に残っていた数名が凝視した。
********
違う!断じて、私はストーカーじゃないもの!
家より二駅違いの大型スーパーで籠を片手に馨は今日の香奈の言葉に憤慨した。
目の前、柱や商品棚に隠れ隠れ――、
遠峰くんの姿を確認しながら。
たっ、たまたま!
たまたま、ここの大型スーパーは品揃えが豊富で、今日は優羽くんがお肉食べたいって言っていてっ!で、ここのスーパーはもともとはお肉屋さんが出発点だからか、お肉が良くて、だから、私はここに来たの!
断じて、遠峰くんの家の近くのスーパーで、遠峰くんに会えないかな、とかそういう考えを持ってきたんじゃない!
本屋さんでバイトして、遠峰くんと挨拶を交わす程度の仲にはなった。学校で遠峰くんと目が合って、ちょこんと頭を下げると遠峰くんも下げてくれる。同じクラスじゃないから、廊下や階段、食堂や屋上、そんなすれ違いで。その度にどきどきして、嬉しくて、その日一日本当に幸せだ。
私きっと今遠峰くんに会いに行くために学校に行ってるんだと思う!
「で?馨はさ、遠峰とつきあいたいんでしょ?とりあえず告っちゃえば?」
でも、今日の香奈の言葉を想い出す。
途端に沈む馨に香奈が疑問を口にした。
「そこまで積極的になるんだからさ。あっちだって、なーんとなく気づいてるよ。ここはだめ押ししていいと思うんだけどなー。遠峰、誰ともつきあってないのは馨も知ってるでしょ?」
「う、うん。知ってる」
「ならさー。言ってみなって」
香奈は好きな人ができると、今までもすぐに告ってきたんだという。
「……私、つきあいたい、とかは思ってない、よ」
香奈が目を見開いて「はぁ?」と驚いてた、っけ。
「ただ、仲良くなりたいだけなんだよ」
「――怖いだけじゃなくて?振られたくないとかさー」
それも、あるのかもしれないけれど。
よくわかんないけど。つきあうとか、そもそもよくわかんないし。
でも、もっと遠峰くんと仲良くなりたいって、そう思う。話聞きたいなーって、思う。なんか、まだ、つきあう、とか、そーゆーんじゃなくて……。
まだ、知りたいというか、仲良くなりたいっていうか。
それとも。
「――やっぱり、怖い、のかなぁ」
「何が怖いの?」
え?
おそるおそる振り返ると、遠峰くんが籠を手に立って、て。
「ぎゃあっ!!!」思わず一歩退いた私にびっくりしてる……。
「えーと、驚かせちゃったみたいだ、ね?」と言いながら、次にくすくす笑い出した。笑われてる笑われてるよ、私。なんでせめてもっと可愛いびっくり声だせなかったんだろう。
「う、うん!ちょ、ちょっとび、びっくり、したの!そう!」
「そっか、ごめんね」そう言いながらまだ笑ってる。
いつの間に後ろにいたんだろう。
前にいたはずなのにっ!
遠峰くんは、たまーにこうだ。私がそれとなーく、遠峰くんを見つけて、隠れても、大概遠峰くんは、私をわかっているみたいだった。だから、私は絶対に遠峰くんのス、ストーカーにはなれないんだよ!香奈!
「手島さんの家って、この近くなの?」
笑いを収めた遠峰くんが私に訊いた。さっきっから考えていた言い訳(じゃない、けどね!)を披露すると、遠峰くんがへぇーと感心してくれた。
「知らなかった。そうか、このスーパーそうなんだ。僕、家がこの近くだから、ここ辺りでしか買い物してなかったんだ。なるほどなぁ。そういえば、お肉新鮮かもしれない」
「そ、そうなんだよ!私、色んなスーパー行くの。す、好きなのね。だから、その」
「そうなんだ」
顔は赤くなっているだろうけれど、それはさっきの遠峰くんに驚いたから。そうやってこころで何時も言い訳を作って、私は遠峰くんと会話してる。
「でも大変だね。家族の分も食事作るのなんて」
ぱたぱたと手を振り言う。
「そ、そうでもないよ。一人分も三人分も一緒だよ。と、遠峰くんこそ大変じゃない。一人暮らし」
「うーん。もう慣れちゃったからね。小さい時からだから……、あれ?よく知ってるね。僕が一人暮らしなの」
ど・う・き・り・か・え・す!?
こ、ここは、素直に人から訊いたという。あっでも勝手にプライベート知ってるのやだな、とか思われたらどうしよう。でも他に言い様が……、頭が真っ白になっていると遠峰くんがなんてことないように続けた。
「クラスの人間は皆知ってるみたいだしね。集まりがある時は、うち使われる事もあるからなー」
「う、うん!!そ、そこらへんから知ったの!」
にこにこ笑ったまま、遠峰くんが「じゃあね」と去っていく。
つ、つかれ、た――。
「ああ、そうだ」
あれ?と思ったらいつの間にか遠峰くんが私のすぐ側に来ていた。遠峰くんって、なんだろう、気配がないっていうの?きょ、とんとしてる私に遠峰くんが、又、なんてことないように言った。
「今度、料理教えてくれないかな?簡単にできるもの、とか。どうしても一人だとレパートリーが単調になっちゃって。よかったら、で、いいんだけど」
ぶんぶん頷く私にやっぱりにこにこ笑うと遠峰くんが今度こそ「さよなら」と去っていった。
安野光雅『3びきのこぶた』『赤いぼうし』(童話屋)
ローゼンタール『運は数学にまかせなさい』(早川書房)
梶井厚志『戦略的思考の技術』(中公新書)