香、聞く、
「……いい、なぁ」
「何?馨――、ああ、チェリーブロッサムのね」
ぽつんと呟いた声を香奈に拾われたらしい。
香奈は、馨が軽く目を向けていた淡い櫻色の液体が入った桜の形が浮き出た透明なボトルをひょいとばかり掴むと「ふーん」と呟く。
「そうだね、馨には合うかも。こういう可愛いの。あたし向きじゃないな」
そう言うと香奈は馨の手を引き寄せ、ボトルの前においてあった同じシリーズの試供品のハンドクリームをぺたぺたと手の甲に塗りたくった。ひんやりとした感触のすぐ後にふわっと、桜の青く淡い香りがひろがった。手の甲に鼻を近づけて、くんくんする馨を見ながら香奈はにやにや笑う。
「買えば?……と言いたいけれど、ちと高いよね」
「うん。そうなんだよね。ハンドクリームでも3千円近いし。あ、でもこの練り香水なら1,500円かぁ。でもでも、どうせならハンドクリームとシャワージェル、ううーん、もう秋だしボディミルクがいいかなー。欲しいなぁ」
物欲しげにチェリーブロッサムの薄いピンク色の瓶を見つめる馨に小首をかしげて、香奈が問う。
「へぇー。馨、あんまりこういう香りもん興味なさそーだったけど」
「あのね、香奈がこういうの好きでしょ。だから、なんか、その、興味でてきたの」
「なるほどね」
友人の 真柴香奈は、名前にちなんでか昔から香り物に敏感だったらしい。
お母さんと一緒に香道のお教室にも通っているし、自分でオイルを買ってきて調香する事もあるのだという。
「だから、同じ香の字が入ってる馨の事、クラス一緒になった時から気になってたんだよね」
そんなきっかけとなった自分の名前が馨にとって、有り難かった。
引っ込み思案な馨は、行動的でけれどどこか繊細な雰囲気も持っている香奈に憧れていたので。
そんな香奈が好きなのは、爽やかな香り。学生だから重たい香りは付けられないしという理由もあるのだそうだけれど、香奈が選ぶ香りは全て彼女に合っていると思う。清々しく颯爽とした燐とした香り、近くによると馨は、何時も一瞬うっとりしてしまう。それは馨だけではなく、同性の後輩や先輩、そして男子達も同じようで、香奈は人気があった。
「あ、あのね。それと私、桜の香りが好きなの」
「――あれ。ああ、そうなんだ。そっか」
頷く馨にふーん、と呟くと、香奈は棚の他のシリーズの試供品たちに熱心に鼻を近づけたり、ボトルやパッケージを楽しんでいた。香奈は将来香り関係の職につきたいのだ、とある時真剣に私に言った。
「香り関係?」
「そう、香り関係。調香師、ああ、化粧品会社のとかね。アロマセラピー、キャンドル屋、もちろんアロマキャンドル専門で。ソムリエ、ほら、ワインって香りも味わいつくすんでしょう?まぁ、でもこれはわかんないよね、私まだアルコールが好きかわかんないし。お線香やら蝋燭の会社。香道の講師。ああでもこれも難しいかもなー。とにかく、ま、まだまだわかんないけれど、香り関係の職、ね。決めてるの」
将来の事なんて、馨は全く考えた事がなかった。
今年の初めは、なんとか高校生になる事、しかも公立に受かる事、と受験の事で頭がいっぱいだった。受験の事を考えている事はイコール将来を考えているではないか?と思う人もいるかもしれないが、なんだか違うように馨は思う。義務教育は中学までだけれど、大体の人間は、高校まで進学する。もちろん、馨を今育ててくれている両親も馨にそれを望んだ。周りがそうするから、それが普通だから。だから、高校に行く。自分の学力に合った学校を選ぶ。それは、将来のことを考える、香奈の話してくれる‘将来の事’とは違うように思う。
(やっぱり、香奈は、すごいなぁ。私がのんびりしてるだけでホントは皆もう考えてるのかなぁ)
気持が焦った。不意に桜の香りが鼻をくすぐった。
手の甲に鼻を近づける。淡い桜の香り。落ち着く、匂い。
この香りを纏っていたら、あの想い出の夢のような子ども、多分男の子、の顔を想い出すかな?その想像は馨のこころを甘く、淡く、ほんのりと温めてくれた。
瞬間――、ずきっ!とした。
首筋にずきっと、鋭い痛みが一瞬走ったのだ。痛む場所、首筋に手を近づけようとした時、香奈の言葉が耳に響いた。
「あ!馨、もう6時だよ!あんた、今日夕食当番なんでしょ!?」
「……あ」
鞄の中をがさごそ漁り、簡単携帯を取り出し開けると、確かにすでに午後6時をまわっていた。馨を急き立てるように香奈が言う。
「ほらほら、もう帰んな!私は、もう少し見てくわ」
「う、うん!又明日ね!香奈」
駆け出そうとした馨に、頷きながら香奈が不思議な事を言った。
「でもこれで謎は解けた!だよー。馨、たま~に、うん、桜の香りしたもんね。なんか桜のコロンとか練り香水とか、ハンドクリームつけてたんだねー」
え?
桜の香りの匂い袋は確かに持っているけれど、学校に持っていった事はなかった。練り香水もコロンも持ってないよ。訂正しようと思ったけれど、すでに駆け出していた馨はスーパーで買う本日の食材の事ですぐに頭がいっぱいになってしまった。
****
「馨、おせーよぉ」
帰宅し、台所に直行した馨を出迎えてくれたのは義弟である手島優羽のよく通る声だった。本人をみやると、手にはスナック菓子があり、すでに半分近く食い散らかしているようだった。
「あれ?優羽くん、今日部活じゃなかったっけ」
「3年はもうお役ご免だよ。そんでも顔出しとかしてたけど、2年もしっかりしてきたし。そろそろ受験追い込み」
「受験かぁ~。優羽くん、そういえば、どこ受けるの?私訊いたことなかったよね」
使わない食材を冷蔵庫や食料庫にしまい、本日の料理に使用するものを並べていく馨の背中につまらなそうな声が届いた。
「お前といっしょんとこー」
ちょっとびっくりした。
「優羽くん……、嫌じゃないの?私と一緒のところって」
「あー、まだ気にしてんの、馨」
豚肉にさっさと塩こしょうして、片栗粉をまぶしながら小さく呟いた。
「少し?」
「だよな。オレも悪かったし、お前の性格じゃなー」
キャベツを切りながら、次の義弟の言葉を待つ。
「小、中とさ、高校じゃ違うだろ?オレらの事知らん人間のが多いし。それに高校入学を期にお前うちの姓に変えたし。なんていうか、いいじゃん別にっていうか。でもさー、なんだって、今まで名字守ってたのに高校になって変える事にしたんだよ」
フライパンにオリーブオイルを垂らし、あたためる。
「――心境の変化?区切り、とか」
「ふーん。他にもうちの名字になる方法あったのにねーって、オレらのマザーはゆってたけどね」
「他の方法?」
お味噌汁作りにとりかかる私に優羽が言う。
「馬鹿馬鹿しい方法だから。――気にすんな」
私の名前は手島馨。
でも、今年の2月までは淸瀨馨という名前だった。
「ところでさ、馨。お前、生理?」
お味噌をとかしいれていると、優羽が失礼な事を言った。
時々、優羽はこういう無遠慮というか、とんでもない事を言う。まずいと思う。
「ちっ、違うけど!優羽くん、女の子にそんな事言っちゃだめだからね!」
「他の人間に言うかよ、身内だからだろ。……違うんか。匂いがしたんだけどな。でもそうだよな、お前先週終わったばっかだよな」
「優羽くん、それおかしいから。身内の生理周期知ってるって、おかしいんだからね!」
失礼な。……そ、それとも匂うのかな?私生理中。
「ぶ、豚肉のせいじゃない?――ね、ねぇ、優羽くん、私生理中、その、に、匂うの?」
「うーん、そういうんじゃないんだけどさぁ」
お味噌汁作りながら思った。
やっぱり、やっぱりあの桜の香りシリーズで買おう!どうしよう、今まで私そんな事言われた事なかったけれど、匂うのかなぁ。歯磨きもいっぱいしよう!お風呂も少し長く入ろう!
なにより馨の頭の中には、一人の男の子が浮かんでいた。
(遠峰くんにも……、そう思われていたらどうしよう)