ハピエンは毒杯の後に
王太子の婚約者を変えることの重みについて。
「レオノーラ・クレヴァリー侯爵令嬢。貴女との婚約を白紙に戻したいと思っている」
「……左様ですか」
昼下がりの王子宮、南にある『紫の庭園』の東屋。
向かいには、わたくしの婚約者であるジョザイア王太子殿下と、ご令嬢が一人。
後ろには殿下の側近の皆様と近衛の方々が控えていらっしゃる。
この場所は、殿下が「大事な話がある」というので、わたくしから指定した庭園。おおよそ、内容の見当はついていたから。
そしてそれは大当たりだった、と。
「おそれながら、いくつかお尋ねしても?」
「あぁ」
「婚約を白紙に、ということは、殿下の意向は子爵家の血筋を王家に混ぜたいということですの?」
「子爵家の血筋ではない! 聖女の血筋だ!」
「同じことではありませんか。ねぇ、アール子爵令嬢?」
「は、はい、あの……我が家が子爵家であるのは確かですから」
「ですわよねぇ」
約一年前に聖魔法が発現して見出された、ヘレナ・アール子爵令嬢。
聖魔法はごく珍しいため、使えると分かった時点で国から聖女の地位に認定される。
かと言って、聖女を輩出した家が陞爵するわけでもないので、子爵家のままである。
そんなことでいちいち陞爵させていたら、そこら中聖女聖人を騙る家だらけになるでしょうからね。
本当に結婚するなら途中で伯爵家なり侯爵家なりの養女になる必要があるだろう。
だとしても王家に子爵家の血が混ざることに変わりはないのだけれど。
おそらくそんな事も気にせず、噂になるならなれとばかり、ここ半年ほどかしら、王太子殿下はアール子爵令嬢をあちこちに連れ回し、ダンスのパートナーに選び、わたくしを蔑ろにしてきた。
遠からず『こう』なることは分かっていたけれど。半年ねぇ……まぁ、持った方でしょう。
「それで? 聖女と結婚するためにわたくしとの婚約を解消したいと。殿下の意向は伺いましたが、陛下はなんと仰っていますの?」
「それは……陛下にはまだ話していない。まずは当事者である貴女に話をつけ、貴女からも陛下と侯爵の説得を手伝ってほしくて……」
「お断りですわ」
頭足りないんですの?
どうして婚約を解消される側が、それを手伝わないといけませんの?
うーん、かと言ってここまで愚かなら確かに、この殿下と結婚して一蓮託生なのも嫌ですが。
「何故断る? 聖魔法の使い手が出るのは、数十年に一度のめでたいことだ。そなたは臣民の一人として、王太子である私と聖女ヘレナの結婚に喜んで協力するべきだろう。聖女を娶れば、これでやっと、側妃腹だと陰口も言われなくなるたろうからな!」
「……」
言葉もないとはこのことね。
十年。十年婚約してきて、わたくしの時間を王子妃教育と、王太子妃教育に費やさせてきて。
それを今更無に帰せと言う男に、どうして喜んで協力できると思えるのだろう。
どんな教育を受けてきたのかしら。親の顔が見たいわ。多分近い内お会いするのだけど。
「……分かりました。殿下がそこまで仰るなら。元より、王家の婚姻のルールを定める法により、婚約が解消となった場合の手続きは様々に定めてあります。その法に従いましょう」
「そうか、理解してくれるか! では早速、父上の所に行こう」
「かしこまりました。当事者でございますので、アール子爵令嬢もぜひ、ご同席願います。それと『話し合い』の場に必要となりますので、そちらの花びらが大きな、濃い紫の花を五つ……いえ、念のため七つほど。手折って持ってきていただけますか? 今日の内に採っておけば、ほどよく乾くでしょうから。話し合いの当日に必ず使うものですので、今日の内に陛下にお渡ししておきましょう」
「? はい」
わたくしの指示の意味も分からぬまま、花を集める聖女。
殿下は拾った花がこぼれぬよう、ハンカチを広げて「ここに置けばいい」と示していた。お優しいこと。
* * *
三日後。
わたくしの父クレヴァリー侯爵は、内務大臣を拝命しており、基本的に王宮で勤務している。
内々に陛下から『婚約の件で重大な話がある』と知らされ、慌てて手持ちの仕事を終えたらしい。
前日は早めに帰宅して、今日のための身なりを整えた。
社交期が近いため、アール子爵夫妻も王都に揃っていた。
即日話し合いの場が設けられたのは、良かったのか悪かったのか。
我が家が揃って王族の私的な会議室に出向いた時、既に室内にはこの場に必要な全員が揃っていた。
国王陛下、王太子殿下、その生母である側妃殿下。
アール子爵、アール子爵夫人、聖女ヘレナ。
ここに父と母つまりクレヴァリー侯爵夫妻とわたくしが揃い、全九名がこの『話し合い』の必要人員となる。
テーブルの上には、三日前に摘んだ紫の花。
何のことか分かっておらず、社交期の普通の服装でやって来たアール子爵夫妻に対し、覚悟を決めて黒い式服を着こんだ我が家。
その差に王太子殿下は首を傾げ、その有り様を見て側妃殿下は悲しげに俯いた――手塩にかけて育てた息子がこれではね。
「さて、本日集まってもらったのは他でもない。王太子が婚約者を変更したいと願い出たためだ。ジョザイア、相違ないな?」
「はい。数十年に一人しか現れぬという聖魔法の使い手を王家に迎えるため、ヘレナを婚約者に望みたいと思います」
「そうか。アール子爵令嬢、そなたもそれを願うのか? ジョザイアに願われて、身分の差で断れぬだけということはないか? この場であれば、国王は王太子よりも立場が上であるからな、もしそうであれば遠慮なく言うが良い」
「いえ、その……わたしも、ジョジー――王太子殿下と同じ気持ちです。謹んで、このお話、受けさせて頂きたく存じます」
「私は一度婚約を翻した立場ではありますから、今度こそ誠実に添い遂げるため、既にヘレナと共に、大聖堂へ誓いの書類も納めております。あとは父上のご裁可を頂くだけです」
「ふむ。そうか、そこまでやってしまったか……であれば、もう、事態は後に引けぬのだな」
そこで陛下の視線がこちらを向く。
「クレヴァリー侯爵令嬢、この十年間の王子妃・王太子妃教育、実に見事であった。そなたは充分に教育を受け、王家の内情を知り、もはや野に放てぬ者となった」
「はい」
「故に、王太子が婚約者を変えるとなれば、王家はそなたの命を奪わねばならん」
「「えっ、」」
「それも承知の上で婚約を承っております。また、その際には必ず国王陛下が、直接手を下してわたくしを亡き者とするよう、王室婚姻法で定めているのも承知しております」
「「えっ……!?」」
陛下とわたくしの問答だというのに、雑音が煩いわね。
「うむ……クレヴァリー侯爵令嬢には、愚息が本当に申し訳ないことをした。十年の献身に死を以て報いるとは、我が息子ながら人の心がない……」
「仕方ありませんわ。神も精霊も完全ではありませんから、獣心の持ち主が人の身に宿ることもございましょう」
「獣心……そうだな。己の欲しか見えておらなんだのは、獣であるな」
陛下は深いため息をつかれ、それから両親の方を見た。
「王室婚姻法の定めるところにより――娘を殺された恨みによる挙兵を避けるため、今日より二年間、侯爵夫妻には王城の奥で人質として生活してもらうことになる。代わりに、領地にかかる国税を三年免除する。王都邸との連絡は許されるゆえ、家のことは家令や執事に任せるがよい。また、業務に差し障りのあるため、クレヴァリー侯爵の内務大臣の任を解く」
「心得てございます。この半年、いつこうなってもおかしくありませんでしたからな。常に手持ちの仕事は即日片付けられる量に収め、引き継ぎは優秀な者に済んでおります」
「親子ともども、深い理解を示してくれること、甚大な感謝のあまり言葉もない。国政はしばし混乱すると思うが、その咎は全てジョザイアに帰するゆえ、その責任を取って、一連の刑の執行後に廃太子とする」
「廃太子!?何故私が、」
「そなたは黙っておれ! ――失礼した。また、こんな息子に育ててしまった生母の側妃は、侯爵令嬢の死に供するため、法に則り、ジョザイアの手で毒杯を与えることとする。どうか、これで溜飲を下げてもらいたい……」
深く、深く、国王陛下が臣下に頭を下げる。
側妃殿下も、もはやこうなっては咎を免れる術なしと、項垂れ涙を流していた。
王太子による軽率な婚約者の変更とはそれほどのものだと、命をもって教育を施すように。
それにしても、自分の産んだ息子に毒を飲まされる母親とはどんな気持ちかしら。
難しい顔でしばらく黙っていた父と母が、わたくしと視線を合わせ、一度静かに頷いた。
「かしこまりました。王家が法を守るならば、臣下も法を守りましょう。たとえそれが娘の命を差し出すことであっても。元より王家に嫁がせると決めた時点で、敵は増え、親子どちらが早く死ぬとしても、死に顔に会えぬものと覚悟はしておりましたゆえ」
そう、それが高位貴族の誇りというもの。
王族の婚約者になれば命が短くなることくらい、覚悟の上。
生家が権勢を強める前にどうにか邪魔しようと、結婚式のパレード中に殺される可能性だって、最初から考えている。
まさかそれが、婚約者の手で殺されるとは思ってなかったけどね。
陛下は、唖然としていた王太子とアール子爵令嬢を一瞥し、今度はアール子爵夫妻へ視線をやった。
夫妻は自分たちの娘がとんでもないことをやらかしたのだと気づき、先刻から血の気が引いて、椅子に座っているのに今にも倒れそうである。
「王家は侯爵令嬢の命を奪わねばならん。その責任を取り、王太子は廃し、生母にも毒杯を与えることとなった。であれば、あの娘を育てたそなたらにも、何の咎もないというわけには行かぬ」
「お、仰せの通りにございます」
「十年来の婚約者であった侯爵令嬢を押しのけ、王太子を誘惑する、そんな娘を育てた罰として、アール子爵夫妻にも毒杯を与える」
「……かしこまりましてございます」
お情けを、と言いたいところだろうが、事態はすでに側妃殿下の死までを確定させてしまっている。なのに自分たちだけ助かろうなどと、言おうものならこの場で斬首の可能性すらある。
それよりは、大人しく毒杯を賜る名誉を選んだのだろう。下位といえど貴族の誇りはあるようね。
「次に、アール子爵令嬢」
「は、はい!」
「そなたにも当然、罰を与えねばならぬ。王太子は法に記載のある通り、自分の手で母を処さねばならぬ。であれば当然そなたへの罰は、自分の手で毒杯を用意し、自分の手で両親にそれを飲ませてもらおう」
「そ、そんな……っ」
「なに、侯爵令嬢を殺して自分たちだけ幸せになろうという図太さだ。自分の両親を殺すくらい、何でもなかろう? その程度の覚悟もなく、婚約者のいる王族を誘惑したわけではあるまい?」
「そんな、わたし、そんなつもりじゃ……ただジョジーと結ばれたかっただけで、侯爵令嬢に死んでほしいだなんて一言も言ってません!」
「口ではなんとでも言える、というように、その逆もまた然り。口に出しておらずとも、そなたの行動の全てが侯爵令嬢への殺意に満ちておったのだ。罰を受け入れよ」
「だって、だってそんな、王室の婚姻法なんて、わたし知らなかったんです!」
「法を知らねば無罪になるのか? ではロクに法を知らぬ平民がお前を刃物で刺したとして、それは無罪放免で良いか? そうではなかろう」
「……っ」
幼子でも分かる簡単な法律論でアール子爵令嬢の悪あがきを封じ、王が右手を挙げる。
後ろに控えていた侍従たちが、ティーセットと、簡易な薬練りセットをアール子爵令嬢の前に用意する。
「クレヴァリー侯爵令嬢が指示してそなたに用意させた花、そこな紫の花は、毒草よ。それを刻み、高温の湯をかければ、毒が溶け出す。そなたは今からその毒草を刻み、両親に飲ませるがよい。そうして親殺しとなったそなたであれば、母殺しの廃太子となったジョザイアと結ばれるに相応しいであろうよ」
「あ……ぁあ……どうか――どうかお許しを……!」
「ならん。大聖堂に誓いを納めた以上、今更婚約の無効も効かぬ。そなたは親を殺し、ジョザイアと結ばれる以外に生きる道はないのだ!」
「ひっ……」
陛下の気迫に恐れをなし、もはや呼吸もままならないアール子爵令嬢。
その程度の覚悟しかないなら、最初から王族を狙わなければいいのに。
これだから大した知識も覚悟もない下級貴族は困るのよね。
* * *
その後の顛末を記そう。
まず、これを書いている『私』の名は、レオナルド・シェリンガム――察しの良い方はお気付きだろう、元レオノーラ・クレヴァリー侯爵息女である。
シェリンガムというのは、クレヴァリー家がたくさん持っている従属爵位の一つで、領地の中でも国境に近い町の名だ。
そこを治める代官をシェリンガム男爵と呼ぶ。要するに田舎代官だ。
つまり貴族ではあるが、よほどのことが無ければ王都に参じなくてよい立場。ワケアリの人間が名を変えるにはちょうど良い地位だ。
さらに念には念を入れて、名を男性名に変えておいた。
個名も家名も変われば、そうそうバレることはない。
もちろん全て、父であるクレヴァリー侯爵と、義父になり損ねた陛下の全面協力の下である。
さて、王太子による婚約解消の結果、王により直接手を下されて亡き者になるはずであったレオノーラがどうして生きているのだ、という話になる。
答えは明快。『勿体ないから』だ。
王太子妃教育まで済み、王妃教育の開始まで幾許もない――つまり王家の内部事情まで知ってしまった令嬢を、うかつに他家に嫁がせるわけにはいかない。
しかし他の王子だって、年齢相応に婚約者が居る。それだってもう、数年過ごした仲だったりするのだ。今更婚約者を差し替えることなど出来ようはずもない。
婚約者の居ない王子となると、十二歳も下の子が一人。さすがにそこには嫁げない。
なにより、各王子に見合った年齢で令嬢たちを産ませている有力貴族の反発が厄介だ。
そんな状況であったため、王家としては本来、レオノーラを殺すしかなかった。しかし、である。
王家の教育に耐えた人材を、みすみす死なせるのか?
それって優秀な文官じゃん? 勿体なくね?
教育済みの人手、いつだって欲しいんだけど?
そんな切実な裏事情により、本当に王が手をかけるには至らなかった。
とは言え法律上の処分があるため、『レオノーラ』は戸籍上、死亡することになる。そして代わりの名が必要になった。
クレヴァリー侯爵の末の弟(つまりレオノーラの叔父)が若くして亡くなっているので、その辺りを弄ることにした。
要約するとこうだ。
叔父が本家に伝え損ねたまま遺した子がいた。
市井で暮らしていたのを、数年前に発見した。
最近まで屋敷に隠して、貴族教育を施し育てていた。
ようやく一人前になったので人前に出せる。
そこで、叔父が持っていた従属爵位も与えた。
一代限りで回収するので、結婚しても子供には爵位が引き継がれない。
――という体で、貴族名鑑にこっそり追加されたのが『レオナルド・シェリンガム』、つまり私である。
一代限り云々は、爵位目当てで結婚したがる裕福な平民のお嬢さんに言い寄られても困るからだ。
地位こそ田舎代官だが、実際にそちらの仕事をすることはほとんど無い。
何しろこれまでも隣町の代官に兼任してもらって納税を済ませてきたような、慎ましい宿場町なのだ。
そんな町の納税書類など、妃教育の傍らで済ませてきた書類と比べれば片手間以下――小指一本くらいの手間でしかない。
では代わりにどんな仕事をしているかと言えば、王都で、陛下の執務室付きの文官をやっている。
最初こそ、十年間通った王宮なのでバレるんじゃないかと思っていたが、これが案外バレないのだ。
王宮内で誰かに挨拶する時も、シェリンガム男爵レオナルドですと名乗ったところで、全ての領地を覚えている者などまずいない。
誰しもが適当に『あぁ、どこかの田舎男爵なんだろうな』としか思わない。
王都近郊で名を聞かぬ男爵家当主が働いてることに違和感を覚える勘の良い人間であっても、全ての家の従属爵位を覚えている者は絶無だ。
せいぜいが『どこかの小伯爵が家を継ぐまで持たされる従属爵位なんだろうな』くらいにしか思わないらしく、王宮で勤めて数年、疑問に思われたことはない。
あと、よく考えたらレオノーラは王子宮で教育を受けたり執務を手伝っていた。
つまり、あの話し合いの日に訪れるまで、未成年のレオノーラが陛下の執務室がある王宮中央部に行く用事はない。当然、レオノーラの顔をよく知る者は居なかった。
であれば、レオナルドと同一人物だと気付くわけもない。実に考えられた配置なのだろう。
正妃殿下は「教育をしたのは私なのに、陛下ずるいわ」と拗ねたらしいが、さすがに男性名と男装で王妃宮には入れませんのでご海容いただきたい。
さて、ではあの日死ぬはずだった『私』が生きているのだから、他の人間の処分はどうなったかと言えば。
まずアール子爵令嬢は、泣いて過呼吸を起こし、親に毒杯を作るどころではなかった。
それを、ずっと黙っていたアール子爵夫人が引っ叩き、反対の頬を打ち、正気に返るまで叩き続け、ようやく彼女は紫の毒茶を淹れた。
その間に夫人の提案で、アール子爵夫妻は椅子に座ったまま縄を打たれた。
自分でカップから飲むのではなく、娘の手で、毒を親の口に流し込めと、そう要求した。
それが、こんな醜く考え浅く情けない娘を育ててしまった親の責任だと、その最期の教育だと、頑として譲らなかった。
のちに彼女が「お父様とお母様が勝手に毒を飲んだ」と、自分の心を楽にすることが決して出来ないように。
しっかりと、自分のせいで、自分の手で親を毒殺したのだと、それを忘れさせぬために。
王より賜ったせめてもの慈悲である毒杯の自決の誉れさえ捨て置き、愚かな娘へしっかりと親殺しをさせたのだった。
あとで聞いてみれば、子爵夫人は元々国境を守る武門の娘だそうで、その覚悟もむべなるかなと思わせる、立派な人だった。
そんな立派な母からでも愚かな娘が育つのだから、子育てとはままならないものなのだろう。
そして次に、ジョザイア殿下による、側妃殿下の処刑だ。
まだ椅子から縄も解かれず、運び出されていない、死んだばかりの子爵夫妻を目の前に、同じように息子の手で毒茶を流し込まれて死ぬか。
それともせめて自分で飲み干すか――つまり、子爵夫妻よりも自分を甘やかすか。
迷ったあげくに側妃殿下が選んだ答えは、まず護身用の鉄扇で自分の利き手の骨を砕くことだった。
何度も、何度も、右手に、右腕に、余すところなく振り下ろし。
そうして、脂汗ひとつ浮かべず、かつて陛下が愛してやまなかったその美しい微笑みをもって、息子に命じた。
「ジョザイア。お母様、怪我をしてしまったから、お茶を飲ませてくれる? 反対の手では零してしまうもの」
一切の妥協なく、厳格に、母殺しを実行させた。
己が罪のため、親殺しの咎を新たに背負ったジョザイア殿下と聖女ヘレナは、即座に婚姻誓約書にもサインさせられ、陛下がその場で受理した。
「これから余が手を下すクレヴァリー侯爵令嬢を含め、四人の命の上にお前たちの婚姻は成った。決して離婚は許さぬ。また、安易な死に逃げることも許さぬ。王家の影の監視の下、護国結界に魔力を供給する奴隷と同じ労役を課す。起きて悔やみ、眠って恥じ、死ぬまでその身は償いのためだけにあると心得よ。――連れて行け」
侍従たちが生きている二人を、騎士たちが亡き三人を、それぞれ運び出す。
そうしてほんのひと時、室内が陛下と、私と、侯爵夫妻だけになったとき、陛下が「提案がある」と口にし――あとは先に書いた通りだ。
側妃殿下は、子育てこそ失敗したが、仕事はできる方だった。
その戦力が抜けるのは王宮としても痛手でしょうねとクレヴァリー侯爵も苦笑して、王家の提案による戸籍の書き換えを了承したのだった。
クレヴァリー侯爵家としてはおおよそ、ハッピーエンドに落ち着いたと言えるのではないかと思う。
私個人としても――仮に聖女ヘレナが現れなかった場合を考えると。
側妃腹であることをねちねちと劣等感に抱えたままの、どこか考えの足りない割に、軽率な行動力だけはある王太子を、ゆくゆくは王を、一生支えていかねばならなかったかと思うと……正直この結末で文句はないな、と思っている。
ほどなく『王太子により婚約解消された侯爵令嬢は、秘密を漏らさぬため王の手打ちの名誉を賜った』と社交界中に知れ渡り、最も幼い王子殿下の婚約者争いは一気に下火になった。
婚約者時代には浮気されれば口封じで手打ちになる危険性があり、結婚してからも、産んだ王子王女の行いが悪ければ毒杯を賜ることになる、それが王家に嫁ぐことなのだと。
そんな気楽に狙っていい地位じゃないぞと、広く知らしめた事件となった。
――だが、人は愚かなので。
数十年もすればまた忘れて、そんな愚か者が出るかもしれない。
そのため、私レオナルド・シェリンガムは、未来の王子教育・王子妃教育の教材の一つとして、今回の記録を残すものとする。
是非とも、轍を踏まぬよう、賢く誠実に育ってほしいものである。
了
人を押し退けて幸せになるつもりなら、人殺しになる覚悟くらいあって当然だよね、という話。
ましてや立場のある人間なら、ね。




