走れシノブ
オマージュ的なノリですが、ここまでひどくなったことをお詫び申し上げます。
シノブは激怒した。必ず自分の自転車の鍵を取った奴を許さないと。
シノブは吹奏楽部部員である。担当楽器はテューバ。重い楽器だから筋肉がついちゃって・・・
と部活の事を訊かれるとこう答えるものだった。
彼には、人の物を盗むということが、全く解らなかった。人の持つ物を奪うというのはひどく悲しい事だ、と教えられたわけでもなければ。盗みをやったらエンマ大王に舌を抜かれる、ばれた時の人間株価が下がる。なんて事を聞いたわけでもない。ただ、どんな理由があるにせよ、人の物を盗むという事は、絶対にしてはならぬ。そういうふうに、彼に刻み込まれてあるのだ。
その日シノブは、朝早くから部活の本番のめに、1.5里ほど離れた大きなホールに来ていた。他の学校の生徒と雑談をしたり、演奏を聴くなどと、楽しく時間を過ごした。
午後、自分たちの本番が近づき、心地よい緊張に包まれ、額に汗を浮かべた。本番が終わり演奏を聴き終え、学校に帰ろうとしていた矢先のことであった。シノブは、自転車の鍵がないことに気づいた。あわてるシノブ。が、一瞬にして自転車を停めた時急いでいたので、鍵を付けっぱなしにしていたのを思い出した。けれども自転車には鍵が付いていないのにも気付いた。
おかしい。確かに自転車を止めたときには、鍵はあったのだ。なのに今は無い。決して鍵を失くしたわけではないのだ。差したままにしていたのだから。シノブは分けもわからず、ただ口をポカンと開けたまま、ぼうっと自転車の鍵穴を見つめているだけだった。
他に異変がないか辺りを見渡したら、仲間がいないのに気付いた。みんな学校へと、向かってしまったのだ。シノブは焦った。自分も急いで仲間に追いつかなくては、と。シノブは焦りを隠しつつ小走りした。動揺しているせいか、傍から見るとトイレを我慢している様に見える。向かった先は、トイレでなくホールの案内所だった。
案内所で、
「すまんが、誰か鍵を知らないか」
大声で尋ねた。
「はい?」
一人の老爺が出て言った。
「だから鍵を知らないかと訊いているのだ!」
「残念だけど、今日の落し物は無いね。あきらめな」
老爺があっけなく言う。
「だまれ!そんなはずはない。きっと私の鍵を盗んだ誰かが、自分のした悪事に気付き、鍵をここに届けにきたはずだ!」
「だからそんなもんは無いって」
「いいやある!」
「ないのは無いんだ。帰れよ!」
「いや、帰らん!」
「無理言うなって!」
「無理ではない。本当にあるはずなのだ、命を賭けてもいい」
「命賭けんなよ、もったいないだろ。だけど本当に無いんだよ。帰れ!」
「いや、帰らん。というより帰れないのだ・・・」
「知らん。もう帰れ」
「うるさい、この分からずや!」
シノブは興奮した。興奮を抑えきれず、つい「くそジジィ」と洩らした。人生で初めての「くそジジィ」である。
結局、老爺からはなにも得られず、ただ怒り興奮し、顔を赤らめただけだった。
さてどうしたものかと、赤いそれを平手打ちしながら学校へと走った。
けれどもその時、自分の胸ポケットに光る鍵の存在をシノブは気づいていなかった。
自転車を停めた時、いつもズボンのポケットに入れてなくすので、今日は胸ポケットに入れておこうと決めていたのだ。シノブはアホだった。
その後シノブは、一人だけ汗だくで学校に着き、鍵だけ泥棒の悪態を皆に言い聞かせる。
そして、家に帰り着替えをしようとシャツを脱ぎ、金属の落ちる音を聞き赤面するだろう。