第八話 招かれざる客
夕暮れ前。
ヘブンズ・ロッジ号は、街リュネイから離れた草原の縁で停車していた。
倉庫群の影も、露店の喧騒も届かない距離。
人の往来が途切れる場所だ。
「ここなら大丈夫そうだね。」
悠里がシートベルトを外しながら言う。
「ああ。今日はここで少し休もうか。」
周囲は緩やかな起伏の草原。
遠くに低い丘と、風に揺れる背の高い草。
穏やかな場所――のはずだった。
ロッジ号を降りて水筒を取り出した時だった。
微かに地面が震えた。
最初は気のせいかと思う程小さな揺れ。
だが、次の瞬間にははっきりと分かる。
規則的な振動。
「…悠里。」
「なに?」
「俺の後ろに来るんだ。」
理由を説明する前に彼女は察して動いた。
小さく息を呑みながら俺の背後に回る。
草原の一部が不自然に盛り上がる。
土が割れ、黒光りする外殻が姿を現した。
蟻型の魔物。
大型犬ほどのサイズ。
分厚い装甲に覆われた頭部と鎌のような前脚。
続けて左右からさらに五体。
合計六体。
無言のまま円を描くようにこちらを囲んでくる。
「…多いね。」
悠里の声は震えていなかった。
だが、指先が俺の服を掴んでいる。
「動かないで。」
短くそれだけ伝え、俺は一歩前に出た。
最初の一体が跳びかかってくる。
地面を抉るような踏み込み。
大型犬ほどの体躯が、弾丸のような速度で距離を詰める。
俺は半歩だけ前に出て、正面から拳を叩き込む。
ゴン、と鈍い衝撃。
岩を殴ったような感触が骨に返ってくる。
装甲が硬い。
だが、その反動を利用して体をひねり、肘を首元へ滑り込ませる。
甲殻の継ぎ目。
そこだけが僅かに柔らかい。
魔力を薄く纏わせて打ち抜いた。
甲殻がひび割れ、魔物が横倒しになる。
仲間がやられたと察したのか、残りが一斉に動いた。
左右から挟み込む様に突撃してくる。
俺は地面を蹴り、跳ぶ。
足元で二体が正面から激突する。
着地と同時に、倒れている個体の大顎を引き抜いた。
金属の軋んだような音。
即席の刃。
振り向きざまそれを逆手に持って、横薙ぎを一体の首の間に叩き込む。
嫌な感触と共に頭が外れた。
頭のない蟻の体が地面に転がる。
三体目が背後から俺に向かって突進。
草を巻き上げながら突き刺さるような角度。
俺は横に回り込み、腹部へ魔力を纏った蹴りを繰り出す。
重たい衝撃とともに切離されるアリの胴と腹。
四体目が悠里の方向へ回り込もうとする。
それだけは許さない。
地面に落ちていた甲殻片を拾い、投げる。
弾丸を越える速度で飛び、複眼の隙間に突き刺さって爆ぜた。
魔物が悲鳴のような振動音を発し動きを止める。
その瞬間すぐに距離を詰める。
魔力を込めた掌底。
当たると同時に内部に魔力を流し込む。
甲殻の内側から破裂する感触。
甲殻が割れて飛び散らないように注意する。
蟻が崩れ落ちる。
悠里が息を呑む音が聞こえた。
残り二体。
一体が正面から突進。
俺は受け止めるように両腕を交差させ、衝撃を殺しながら顎で喉元を抉る。
甲殻の割れる音。
最後の一体は、仲間が倒れるのを見て及び腰になっている。
次の瞬間には逃走。
だが、振り返った瞬間に距離を詰める。
跳躍し、上から後頭部へ拳を叩き込んだ。
地面が震え、魔物が伏す。
静寂。
風の音だけが戻る。
草原に紫色の血と甲殻の破片が散らばっていた。
俺は深く息を吐き、血の付いた手を拭って振り返る。
悠里はその場に立ったまま、目を逸らさずこちらを見ていた。
「…終わったよ。」
そう言った瞬間だった。
悠里が走ってきた。
さっきまで震えていた足で、転びそうになりながら、一直線に。
「お兄ちゃん…!」
胸にぶつかるように飛び込んできて、両腕で強く抱きつく。
服を掴む手が必死で指先が白くなるほどだった。
「…っ。」
俺は一瞬だけ驚いて、それから何も言わずに抱き返した。
背中に腕を回し、頭を軽く胸に引き寄せる。
悠里の額が鎖骨のあたりに当たる。
小さな体が小刻みに震えていた。
「…怖かった…。」
声が掠れている。
「…お兄ちゃんが倒れちゃうんじゃないかって…。」
俺は何も言わず、悠里の髪に指を通した。
ゆっくり。
何度も。
「見てよ…ちゃんと…。」
悠里は顔を上げずに続ける。
「血が出たらどうしようとか…やられちゃったらどうしようとか…。」
指がさらに強く服を掴む。
離されるんじゃないかとでも言うように。
俺は静かに息を吸った。
そして、安心させるために少し戯けて言う。
「大丈夫だよ。俺は悠里のいる世界に戻るために魔王を倒した勇者だ。」
悠里の肩がぴくっと跳ねた。
「あんな奴らに負けはしないよ。」
頭に顎を乗せる。
体温を伝えるように、ぎゅっと抱き締める。
「俺はここにいる。今度は悠里の前から消えたりしない。」
その瞬間。
悠里の堪えていたものが溢れたようだ。
「…うぅ…。」
小さな嗚咽。
胸元に顔を埋めて、声を殺して泣く。
俺は動かない。
ただ抱きしめる。
己の逃げ道を作らない。
守るように。
「…お兄ちゃん…。」
「ん?」
「…離れないで。」
すぐに応えた。
「離れない。」
迷う間もなく。
「どこにも行かない。」
悠里はさらに強く抱きついた。
ほとんど体を預ける形で。
俺はその重さを受け止め、背中を撫で続ける。
草原の風が吹く中で、二人だけの時間が流れていく。
しばらくして、悠里が小さく言った。
「…ねえ。」
「どうした?」
「…今日、一緒に寝ていい?」
俺は一瞬だけ考えたが、すぐに答えた。
「ああ。いいよ。」
悠里はようやく少し笑った。
安心しきった顔で。
そのまま胸に頬を押し付ける。
俺は空を見上げ、小さく息を吐いた。
――守る。
愛しい妹のためなら、何度でも何とでも戦える。




