第六話 不穏の気配
昼前。
ヘブンズ・ロッジ号の周囲には相変わらず穏やかな風が吹いていた。
草原はゆっくりと揺れ、空は高い。
昨日と何一つ変わらない、平和な景色だ。
「ねえお兄ちゃん。」
ロッジ号の外、洗濯物を干しながら悠里が言った。
「今日の風、ちょっと変じゃない?」
「変?」
「うん。なんか…重たい?みたいな。」
曖昧な表現だったが悠里は真剣だった。
俺は洗濯バサミをつけてる手を止め、周囲を見回す。
悠里が言う通り、風は吹いている。
だが――音が少ない。
草は揺れるのに擦れる音がしない。
鳥の影はあるのに羽音や鳴き声が聞こえない。
「気のせいじゃないと思うよ。」
俺はそう答え、何気なくロッジ号の方を見る。
運転席の窓に、表示された赤い光が見えた。
「悠里。」
「なに?」
「先に中に戻っててくれないかい?」
理由は言わなかった。
悠里も聞き返さなかった。
「うん。」
素直に頷き、ロッジ号の中へ戻っていく。
ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
間違いない。
俺は洗濯物を干し終えたふりをして歩き出す。
静かな空間に不自然な音と気配。
それが俺を追いかけるように動いてくる。
つけられている。
人の気配と魔力だ。
「…王国か。」
声に出さず息だけで呟く。
足音を殺し、丘の向こうへ回り込む。
草原の起伏を利用して視界から姿を消す。
待ち構えて数秒後。
「…消えた?」
若い男の声。
訓練は受けているようだが、実戦経験は浅いといったところか。
「確かにここだったはずだ。」
もう一人。
こちらは慎重だが、どちらにせよ不用心過ぎる。
俺はすでに背後に立っていた。
石を一つ軽く放る。
狙いは足元。
バチン、と乾いた音と衝撃。
魔力を込めていない、牽制のためだけの投擲。
それだけでも驚かせるには充分だったようだ。
「っ!?」
男がよろけ、草に倒れる。
「――誰だ!」
返事はしない。
代わりに低い声で告げる。
「これ以上俺達に関わるな。」
二人は息を呑んだ。
姿を見せていないのに、距離と位置を完全に把握されているのが分かったのだろう。
それだけで十分だった。
「帰れ。」
「で、ですが――」
「次は驚かすだけじゃない。」
短く、それだけ。
沈黙。
数秒後、二人が後退して離れていく。
足取りは速い。
追わないし、殺さない。
線を引いただけだ。
俺は彼らが去っていった方向に一度だけ視線を巡らせ踵を返した。
ロッジ号に戻ると悠里がキッチンに立っていた。
「…お兄ちゃん?」
「どうした?」
「今、外…静かすぎなかった?」
鋭い。
「もう大丈夫だよ。」
そう言って頭を軽く撫でる。
悠里は気持ち良さそうに軽く目を閉じる。
「ほんと?」
「ああ。」
嘘じゃない。
俺がいる限り悠里の安全は守り続ける。
悠里は少しだけ安心したように息を吐き、何事もなかったかのように棚にあるマグカップを手に取った。
《外部異常:解消》
ロッジ号の表示が一行だけ浮かぶ。
評価も感想もなく、ただの記録。
「それでさ。」
悠里が何気なく言う。
「お昼、どうする?」
「悠里は何が食べたい?」
「じゃあ、サンドイッチがいいな。」
「了解。」
世界は動いている。
王国も、観測者も。
それでも今は――
悠里と二人きりの幸せな時間を全力で守る。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
聖ステラ王国・臨時作戦指揮所。
「…報告します。」
若い諜報員が俯いたまま声を絞り出した。
「対象への接触に失敗しました。」
「理由は?」
問われ、男は一瞬言葉に詰まる。
「…接触のため距離を詰める前に位置を完全に把握され、追い返されてしまいました。」
「索敵魔法の発動は確認できたか?」
「反応なしです。結界も感知出来ませんでした。」
室内の空気がわずかに張り詰める。
「では、なぜ“見つかった”?」
「…申し訳ありません。分かりません。」
正直な答えだった。
魔力反応は薄いため索敵や探知といった魔法ではない。
神性の痕跡もない。
それなのに――
「こちらの存在を、最初から知っているようでした。」
沈黙。
机を指で叩く音が一つ。
「つまりだ。」
低い声が結論を出す。
「現状は勇者でも、神の使徒でもない。」
「…はい。」
「だが、人間離れした“なにか”を持つ存在だ。我々は“人間の範疇で理解できる”という前提で動いていた。それ自体が間違いだった可能性が高い。」
書類に赤い線が引かれる。
【危険度:再評価の必要あり】
【直接接触:失敗】
【監視:直接接触を避け、長距離手段を用いる】
書類を書き終えた男が筆を置き、若い諜報員に声を掛ける。
「君はあの状況でなぜ殺されなかったと思う?」
「…分かりません。」
「そうか、次は別の方法を使う。」
そう告げられた瞬間、若い諜報員の背筋を冷たいものが走る。
失敗した彼はその失敗ごと“処理”された。
だが――
“想定外”は、消えていない。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヘブンズ・ロッジ号はいつもより早く動き出した。
「ねえお兄ちゃん。」
助手席で悠里が地図を覗き込みながら言う。
「今日はどこ行くの?」
「少し場所を変えようと思ってる。」
理由は言わなかった。
正確には言う必要がなかった。
昨日の“静かすぎる違和感”は、もう一度起きる気がしていた。
《移動先候補を提示します》
ロッジ号の表示が淡々と浮かぶ。
《人口密度:低》
《魔力濃度:安定》
《補給可能地点:有》
「…随分と気が利くな。」
《効率的判断です。》
その言い方がほんの少しだけ前と違う気がした。
気のせいだろう、そう思って深く考えなかった。
相変わらず感情を感じない機械的な合理的選択。
悠里は窓の外を見ながらぽつりと呟く。
「なんていうかさ。」
「うん?」
「旅してる、って感じだね。」
その言葉に、俺は少しだけ頬が緩んだ。
「そうだね。」
そう、旅だ。
逃避じゃない。
放逐でもない。
自分で何処に向かうか選んで進む移動。
ヘブンズ・ロッジ号は静かに走り出す。
その先で何が待っているのか――
どんな出会いがあって、何があるのか。
まだ誰も知らない。
ただ一つ。
王国は俺たちの“存在”を見失っただろう。
そして次に見つけた時、その時は別の対応になっていることだろう。




