第五話 失敗した勇者召喚とキャンピングカー
朝、と呼ぶには少し曖昧な時間。
ヘブンズ・ロッジ号の中は相変わらず穏やかだった。
エンジン音はなく、揺れもない。
外が異世界であることを忘れさせるくらい、ここは“いつも通り”だった。
しかし、そんないつも通りにはなかった声が一つ。
「…お兄ちゃん。」
キッチンカウンターに肘をつきながら、悠里がぼんやり言った。
「朝ごはん、パンでいい?」
「ありがとう。いいよ。焼きすぎないようにね。」
「はーい。」
トースターにパンを入れるその背中は、昨日までと変わらない。
泣き腫らしたような目も、震える声もない。
我が妹ながら順応が早すぎる。
それが安心したからなのか、無理をしているのか。
なんとも判断がつかないから、俺は何も言わなかった。
一緒にいられる。
それだけで十分だと悠里が言った。
俺も同じ気持ちだ。
――だが。
俺は窓の外から目を離していなかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
聖ステラ王国・王都中央神殿
非公開文書・第三閲覧室
【勇者召喚儀式に関する事後報告】
・実施日時:第七月・第三週
・実施場所:地方都市旧礼拝堂(未使用施設)
・結果:失敗
・原因:魔力収束不良による儀式崩壊
・被害:術師数名軽傷、魔法陣破損
・召喚対象:不明(未確定)
※なお、現場には未知の極めて高濃度魔力反応あり。
※勇者反応とは一致せず。
※敵対存在か否かは現時点で判断不能。
結論:
本件は事故として処理し、外部への情報流出を防ぐ。
同時に、当該魔力反応の追跡および分析を継続する。
報告書を読み終えた男は、静かに紙を閉じた。
「…事故、か。」
便利な言葉だ。
都合の悪い出来事は、すべてそこに押し込められる。
だが魔力の痕跡は消えていない。
消せなかった。
「勇者ではない。だが、勇者以上…。まさかな。」
呟きは誰にも届かず、書類だけが次の部署へ回された。
書類の束は何事もなかったかのように棚へ収められる。
だが一人だけページの端に残った数値から目を離せずにいる者がいた。
その違和感はまだ言葉にはならない。
◇ ◇ ◇
ヘブンズ・ロッジ号のコックピットで、警告音が一度だけ鳴り、目の前に赤い文字で文章が浮かび上がった。
《外部監視行動を検知》
《対象:複数》
《推定所属:聖ステラ王国》
《脅威度:低〜中》
短く、しかし明確な警告文。
俺は無意識にハンドルに手を置いた。
また警告音と共に突如文章が浮かび上がった。
これは条件の合った最適解を提示されているようだ。
「何だ?」
《現在ルートを変更》
《不可視化処理、展開》
《居住者の安全を最優先》
今までに無かった現象。
俺は即座に文章を確認する。
直接的な敵意はない。
だが、確実にこちらへ警告を向けている。
「お兄ちゃん?」
後部から悠里の声。
「何かあった?」
「いや。念のためにね。」
曖昧に答え、俺は進路を数度切り替えた。
街道から外れ、丘を越え魔力の薄いルートへ。
ヘブンズ・ロッジ号は文句ひとつ言わず従う。
…本当に、よく出来たキャンピングカーだ。
ヘブンズ・ロッジ号は脅威を遠ざけることも出来る。
だが、俺の胸に残るもやもやまではどうにも出来ないらしい。
「少なくとも、神の気まぐれじゃない。」
《補足》
文字が浮かぶ。
《居住者の生命維持を最優先》
《加えて、精神状態の急激な変動を抑制する行動を推奨》
《現在の所有者は、居住者Bの安定度を向上させる傾向を確認》
「…ずいぶんとおしゃべりになったね。」
…変数、か。
俺の行動が悠里の存在で変わっている。
それをこの車は“事実”として処理しているらしい。
なんとも機械的じゃないか。
ただの観測と判断。
それでも――少しだけ妙な気分にはなる。
なるほど。
俺は鼻で笑った。
「やっぱりか。」
神は“渡した”だけだったらしい。
あとは知らん顔して観測している――それがあいつの流儀なのだろう。
いつの間にか運転席に来ていた悠里が不安そうに俺を見る。
「…神様は、助けてくれないの?」
「期待は出来ないね。」
即答した。
「見てるだけさ。良くも悪くも。」
《当車両は、神性存在の意向とは無関係です》
その表示を見て、俺は小さく息を吐いた。
「今までこんなことは無かっただろう?どうして急に?」
《所有主である湊様の願いを叶えるためです。》
《そのためには意思の疎通が必要と判断しました。》
本当に優秀な奴のようだ。
何処の誰かは知らないが、どれにせよ――
「条件交渉くらいはするが、譲歩はしない。」
何があっても悠里を守る。
それだけは最初から決まっている。
◇ ◇ ◇
しばらくして。
「ねえ、お兄ちゃん。」
悠里がソファに座り、俺の腕に抱き着きながら言った。
「…さっきから、ちょっとだけ顔怖い。」
「そうかい?」
「うん。ほんのちょっとだけ。」
悠里の指が俺の頬をつつく。
俺は一瞬だけ考えてから苦笑した。
「じゃあ、後で甘いものでも出そうか。」
「ほんと?」
「ああ。」
悠里は少し安心したように微笑む。
それを見て俺もようやく肩の力が抜けたような気がした。
世界がどう動こうが、観測者が何を考えようが。
悠里は今ここにいる。
「…一緒にいるって言ったんだから。」
悠里がぽつりと言った。
「置いてかないでね。」
「ああ。」
俺は迷わず即答する。
「置いてかない。」
守る、という言葉は使わなかった。
代わりに傍に居続けようと思った。
その約束だけは神にだって、国にだって、何者にも譲る気はなかった。




