第三十五話 巨大な海魔獣
海面が、持ち上がる。
それは明らかに波ではなかった。
海そのものが呼吸しているかのようにゆっくりと、そして確実に膨れ上がっていく。
港にいた誰もが言葉を失っていた。
「…でかすぎるだろ。」
ウェインが小さな声で呟く。
その声には先程までの余裕は感じられなかった。
悠里が俺の服を掴む。
「お兄ちゃん…あれ、さっきのより大きいよね?」
「うん。比べ物にならないね。」
どこかワクワクしている様な声色。
程無くしてそれは姿を現した。
海を割るようにして現れたのは巨大な影の正体。
無数の触手。
太く、長く、ぬらりとした質感のそれが海面から何本も持ち上がる。
その中心。
ゆっくりと持ち上がる本体。
岩のように分厚い外殻、その隙間から覗く濁った光を放つ目。
「…クラーケン系か。」
ウェインが吐き捨てるように言う。
だが、すぐに首を振った。
「いや、違うな…あんなでかいの見たことねぇ。」
触手の一本がゆっくりと港へ伸びる。
そして、振り下ろされた。
天地を揺るがす轟音。
石畳が砕け、建物の壁が崩れた。
「きゃああああ!!」
町に悲鳴が響く。
港の混乱はさっきとは比較にならない。
完全な災害だ。
「ウェイン!」
俺は咄嗟に動きながら声をかける。
しかし、彼女もすでに動いていた。
「分かってる!」
地面を蹴る。
一瞬で加速し、崩れた建物の前へ滑り込む。
彼女は下敷きになりかけていた男を引きずり出し、そのまま後方へ投げた。
「下がれ!ここは戦場だ!」
その声はよく通る。
現実的で、的確な判断。
現場の人間の動きだった。
その間にも、触手が次々と振り下ろされる。
二本、三本、四本。
まるで港全体を潰すように。
「アリア。」
「はい!」
俺が短く呼ぶと、アリアはすぐに理解した。
両手を前に出す。
淡い光が広がる。
「防御結界を張りました。」
半透明の結界が港の一部を覆った。
次の瞬間、触手が叩きつけられる。
大きな衝撃。
だが結界は持ちこたえた。
「完全防御は無理そうです、範囲を絞ります!」
「十分だよ。」
俺は頷く。
悠里が横で目を輝かせている。
「すごい…ボス戦みたい。」
「まあ、そんな感じだね。」
とはいえ、放置すれば被害が広がる。
俺は軽く息を吐いた。
「じゃあ、少し本気でやろうか。」
その時だった。
ウェインが叫ぶ。
「気をつけろ!」
振り向く。
巨大な影が俺達の真上まで迫っていた。
悠里を抱き寄せ横に跳ぶ。
さっきまで俺達の居た所に触手が落ちてくる。
海中から一際太い触手が突き上がる。
「アリア、悠里をよろしく。」
「はい。お任せ下さい。」
「お兄ちゃん行ってらっしゃい!」
「ああ。」
悠里をアリアの結界に避難させ、俺はその場で踏み込む。
結界に対して振り下ろしてきた触手に対して拳を突き出した。
衝突、鈍い音。
だが今回は、さっきと違う。
「…硬いな。」
弾き返す事には成功したが、触手はわずかに凹んだだけだった。
俺は拳を引き、わずかに目を細めた。
そのままうねり巻き付いてこようとする。
「お兄ちゃん!」
悠里の声。
触手に再び拳を振るおうとした、だがその前に銀の閃光が走った。
ウェインだ。
「遅いんだよ!」
双剣が連続で振るわれる。
斬撃。
斬撃。
斬撃。
同じ箇所を正確に何度も刻む。
僅かな鱗の隙間の肉の継ぎ目。
そこだけを狙っている。
「こいつでどうだ!」
最後の一撃。
深く食い込み、触手が大きく跳ねた。
「効いてるっぽいな。」
ウェインが息を吐く。
「ただ硬いだけじゃねぇ。構造に弱点がある。」
俺は少し笑う。
「流石だね。」
「褒めてる場合か!」
触れた感触に違和感。
ただ硬いわけじゃない。
内部に流れ、魔力の流動。
それが外殻を強化している。
「表面を叩いても意味がない。」
ウェインが一瞬だけこちらを見る。
「何か分かったのか?」
「ああ。」
俺は軽く地面を蹴る。
今度は正面じゃない。
触手の側面へ回り込む。
うねり、こちらを掴もうとする動き。
だが遅い。
この程度、いくらでも対処できる。
迫る触手を紙一重で躱しながら手を伸ばす。
「ここだ。」
拳ではなく指先で触れ、魔力を流し込む。
外殻に沿って流れていた力の流れ。
そこに逆流を無理矢理起こす。
一瞬の歪み。
「ウェイン!」
俺が叫ぶ。
「今だ、そこを斬れ!」
ウェインが迷わず動く。
踏み込み、加速。
双剣が閃く。
さっきまで弾かれていた刃が今度は、簡単に通った。
深く、確実に。
触手が大きく痙攣する。
「通った…!?」
ウェインの目が見開かれる。
俺は軽く息を吐いた。
「やっぱりな。」
ただの硬さじゃない。
守られているだけだ。
なら無理矢理にでも剥がせばいい。
触手が暴れるが、動きが乱れている。
「アリア!」
「はい!」
「同じ位置、見えるかい?」
「把握しました。」
アリアの指先に光が集まる。
精密な魔法。
一点に絞られた魔力の射線。
撃ち抜く。
俺が崩した“流れ”に、正確に叩き込まれる。
直撃し衝撃が走る。
触手が明らかに弱った。
悠里が声を上げる。
「すごい!効いてる!」
俺は笑う。
「ほら、これならただ大きいだけだ。」
だがその言葉の裏で、俺は確信していた。
これは偶然じゃない。
この海魔獣。
明確に操作されている。
おそらく船を襲った魔族と同じ魔族。
となると船をあんな状態にしたのもこの海魔獣でほぼ間違いないだろう。
「…面倒だな。」
だがその言葉の直後、海面がさらに大きく膨れた。
本体が動く。
ゆっくりと港へ近づいてくる。
その巨体が見えるにつれて誰もが理解した。
「…街が、壊れさる。」
ウェインの呟き。
その通りだ。
触手だけじゃない。
本隊が来れば港そのものが終わる。
アリアが言う。
「魔力の反応があの魔獣の中心に集中しています。」
「つまり?」
「本体に核になっているなにかがあります。」
なるほど。
分かりやすい。
俺は改めて海を見る。
巨大な影。
その少し奥。
わずかに感じる違和感。
「…いるね。」
「何がだ?」
ウェインが聞いてくる。
俺は笑って答える。
「操ってる奴さ。」
その瞬間。
触手の動きが止まる。
そして、海の奥から声がした。
低く、濁ったしわがれた声。
『——見つけたぞ。』
空気が凍る。
「…しゃべった。」
ウェインの表情が固まる。
「魔族…!」
驚愕に染まるウェインの表情。
俺はゆっくりと拳を握った。
「どうやら、向こうから来てくれたみたいだね。」
巨大な海魔獣。
その奥に隠れた存在。
港町セレンの戦いはただの防衛戦では終わりそうにない。
本当の敵が姿を現そうとしていた。




