第二十六話 とある森の湖畔にて
森の奥は静かで人の足が踏み入らない場所特有の濃い匂いがする。
湿った土と苔、古い木の皮の香り。
上を見上げれば枝葉が空を覆い、光が細い柱となって落ちてくる。
余計なものがないこういう場所は嫌いじゃない。
「わぁぁ…!」
その静寂を破る者が一人。
セブンズ・ロッジ号のドアを開けた瞬間、悠里が駆け出した。
「お兄ちゃん見て!すごいきれいな湖!」
「悠里、走ると危ないよ。転んでしまうかもしれない。」
「転ばないもん!」
言いながら、岸ぎりぎりでぴたりと止まりつま先立ちで湖の中を覗き込んでいる。
無駄に身体能力が高い。
湖は確かに綺麗だった。
水は澄み、風は穏やかで魔力の流れも安定している。
訓練するにはちょうどいい。
隣でアリアが目を閉じる。
「結界を展開しますね。」
空気が一瞬張り詰めた。
透明な膜が湖畔を包む。
外界から干渉は遮断された。
万が一、悠里がやらかしても被害は限定されるし、悠里の膨大な魔力を覆い隠す事も出来るだろう。
たぶん。
「今日はほんとに修行するの?」
悠里が振り返る。
「ピクニックじゃないの?」
「違う。」「違います。」
俺とアリアの声が重なった。
悠里は少し考えるような素振りをしてから笑う。
「じゃあ遠足!」
「そうでもないね。」
訂正しておく。
とにかく本題だ。
アリア曰く、悠里は“世界の楔”に選ばれているらしい。
それがどういう意味を持つか、俺は完全には理解していない。
だが少なくとも――普通ではない。
悠里の魔力は桁違いだ。
問題は、それを本人がまったく自覚していないこと。
「まずは魔力を少量、指先に集めてみてください。」
アリアは丁寧に説明する。
「蝋燭の火くらいですよ。」
「わかった!」
悠里は素直に頷く。
そして。
「魔力ってどうやって使うの?」
「はい?」
「やっぱりか。」
考えれば当然だ。
俺達兄弟がいた場所に魔法なんてなかった。
俺も召喚されてから教えられたのだから、来て間もない悠里が使い方を知っている訳がない。
「そ、そうでしたか。では魔力の使い方から説明しますね。」
そこから聖女様によるありがたい魔力の使い方講座が始まった。
そしてしばらくして。
「では、改めて魔力を集めてみて下さい。蝋燭の炎のイメージですよ。」
「はい!先生!」
元気な返事と共に悠里が魔力を動かした瞬間。
空気が震えた。
低い衝撃とともに湖面が中央から押し下げられる。
水が大きく凹み、波紋が岸へ走る。
森の鳥が飛び立つ。
前髪が少し焦げた。
「…蝋燭程と言いましたよね?」
「え?めちゃくちゃ小さくしたよ?」
本気で言っている。
嘘ではないのが厄介だ。
悠里にとっての少しは通常とは基準が違う。
アリアが静かに補足する。
「出力は抑えられているみたいです。ただ…」
「ただ?」
「気にしなくていいよ。」
理解させるのは後回しにしよう。
「次は火属性。掌サイズ」
「はーい」
軽い返事。
出現させたのは直径三メートルの程の火球だった。
「大きい!」
自分で驚くな。
俺は踏み込み、拳を叩き込む。
火球は霧散し、熱が消える。
湖面に赤い残光が揺れた。
「森を燃やす気かい?」
「綺麗だったのに。」
「安全第一だよ。」
悠里は頬を膨らませる。
この顔に弱い自覚はある。
だが譲る訳にはいかない。
二度目。
「ぎゅーって小さく?」
「そうだ。」
今度は掌サイズに収まった。
炎は安定していて、揺らぎも少ない。
…本当に覚えるのが早い。
理論を理解しているわけじゃなく、ただ感覚で合わせている。
「できた!」
誇らしげだ。
「うん、及第点だね。」
「やった!」
褒めるとすぐ調子に乗る。
火が少し大きくなった。
「維持するんだ。」
「はーい。」
素直だ。
そこからは半ば確認作業だった。
火、水、風、土、雷、氷、光、闇。
全ての属性が発動する。
しかも安定している。
普通は属性適性が偏る。
だが悠里にはそれがない。
全てが高水準で使えるようだ。
「全部一緒にやったらどうなるの?」
「それは止めた方が良い。」
言う前に始めた。
八色の光が掌に灯る。
小さいが、今までとは密度が違う。
湖面が凪ぐ、風が止まる、森が静まる。
世界が止まった様に感じる。
…まずい。
これはおふざけで出していい出力じゃない。
俺は歩み寄る。
「悠里。消すんだ。」
「もうちょっとだけ!」
声を一段落とす。
「悠里。」
すぐに察してくれた。
「はーい。」
発されていた光が消える。
世界が息を吹き返す。
アリアが小さく息を吐いた。
俺も内心では同じだ。
◇ ◇ ◇
夕日が傾き、湖面が橙に染まる。
悠里は岸辺に座り足を揺らしている。
「魔法って楽しいね。」
「遊びじゃないよ。」
「でも楽しいよ?」
そうだろうな。
悠里にとっては全部楽しい事なのだろう。
なんたって物語の中でしか使えない魔法が使えたのだ。
楽しくて仕方ないだろう。
危機感の自覚も、自分の置かれた現状に何か感じている様子はない。
だが――
「お兄ちゃんがいるし大丈夫でしょ?」
迷いのない目でそんな事を言う。
全幅の信頼。
疑ってすらない。
俺は短く答える。
「当然だ。」
守る。
それだけは絶対に揺らがない。
悠里は最後に小さな金色の光を浮かべた。
「お兄ちゃん色。」
「悠里は器用だね。」
湖面に金が映る。
揺れる光は穏やかだ。
世界の楔。
そんな大層な肩書きは悠里には似合わない。
ただの妹でいい。
こんな事を言ったらアリアに怒られてしまうかもしれないが、各国の思惑や神の狙いなんて俺達にとってはどうだっていいんだ。
今はただ、愛しい妹とヘブンズ・ロッジ号で世界を掛ける。




