第十八話 聖女アリア
馬車を引く馬が限界を迎えているのは分かっていた。
それでも止まる訳にはいかなかった。
砦が落ちれば、無辜の民が危険に晒される。
聖女と祀り上げられている私が間に合わなかったという理由で、そんな事などあってはならない。
けれど――
無常にも馬が倒れ馬車が止まり、回復のために外に出て地に足をつけた瞬間。
視界の端に見覚えのある黒髪が映った。
「…湊さん?」
喉が震えた。
生きていた。
魔王との最終決戦の後、姿を消した彼が。
胸の奥に溜め込んでいた後悔も、届かないと思っていた祈りも、全てが一瞬でほどけそうになる。
「久しぶりだね。」
変わらない声。
あの頃と同じ、落ち着いた優しげな口調。
…どうして、そんな顔で笑えるのですか。
私は何度も貴方の死を想像してしまったのに。
込み上げるものを押し殺し、英雄に礼を尽くす。
「…はい。ご無事で、本当に…よかった。」
それは聖女としてではなく、ただの私自身の言葉だった。
――そして。
「妹の悠里だ。」
紹介された少女を見た瞬間。
私の中で世界が震えたような感覚に襲われる。
音ではない。
光でもない。
祈りの間で神託を受ける時と同じ、けれどそれ以上の衝撃――圧倒的な“存在”。
彼女の内側で、莫大な魔力が静かに眠っている。
いや、眠っているというより封じられている。
押さえ込まれているかのように。
私の視界が一瞬だけ揺らいだ。
(勇者召喚…?)
それは間違いないだろう。
けれど、彼女はおそらく世界の均衡を正す存在。
それが、目の前の少女。
勇者の妹、世界の楔。
なぜこのような少女がこんな重荷を背負わされているのか…。
本人に自覚は無いのでしょう。
軽くお互いに挨拶をして警戒を解こうとした。
けれど、彼女は湊さんの袖を握って少し後ろに隠れている。
ただそれだけで安心するようで、どこか幸せそうな様子。
湊さんが彼女を見て微笑む。
チクリと胸が痛んだ。
――砦の方角で衝撃音と煙が上がる。
それは私を現実に引き戻した。
「悠里さんについて私が分かる事をお教えします。あと、後ろ盾が必要でしたらお力になれます。ですからお力を貸していただけませんか?」
聖教国のシンボルの刻まれたブローチを差し出しながら彼に助力を乞う。
この行為が意味することを彼は知らないかもしれない。
けれど、今の”本当に守るべき者”を見つけた彼に助力を願うならこれぐらいはしなければならないでしょう。
護衛兼御者の付き人が制止する声が聞こえたが、それで止まれる状況ではない。
本来ならばすぐに神殿へ報告すべき事です。
前任の勇者と新たな勇者の発見。
それは国家の重要案件。
ですが。
今この場で優先すべきは砦の防衛と今まさに戦っている兵士達の命。
そして――無辜の民を守ること。
それが聖女に選ばれた私の使命…。
◇ ◇ ◇
彼が駆る摩訶不思議な鉄の箱に運ばれて砦に到着した時、既に砦は半壊し多くの兵士が倒れ伏していた。
赤い肌の魔族の幹部。
粗暴な様子で、知性を感じる事の出来ない立ち居振る舞い。
私は目線だけで彼と意思疎通をすると結界を展開し、負傷者のもとへ向かう。
だが、視線は無意識に彼へ向いてしまう。
湊さん…。
向けられた拳を彼は受け止める。
地面が沈む程の威力。
それでも表情一つ変わらない。
「遅い。」
その一言を放ったかと思うと、気付いたら戦いは終わっていた。
あまりにも圧倒的だった。
以前よりも迷いや容赦がない攻撃。
正に暴力の嵐といった戦い方。
魔族が崩れ落ちる頃、私はようやく息を吐いた。
安堵と同時に別の感情が湧き上がる。
この人はきっと”本当に守るべき者”を守るためなら世界を敵に回してもいい覚悟が出来ている。
そう確信出来てしまった。
…そして。
私は羨ましいと思ってしまった。
◇ ◇ ◇
砦を救ったその日の夜。
いつもの様に神に祈りを捧げる。
神は魔王の討伐後ずっと沈黙している。
だが私は予感している。
勇者が現れた以上いずれ神殿も気付き、神も何かしらの動きを見せる事でしょう。
聖女である私が報告しなくても、いずれ別の形で発覚するのは時間の問題。
勇者は戦場に立たされる存在。
過去は魔王討伐の象徴、民の希望。
だった。
今では国の権力の象徴、他国を牽制するための最終兵器。
…そして消耗品。
悠里さんは、まだ子供です。
多少兄との距離感が近いが普通の少女。
報告すれば、彼女は多数の刺客に襲われるでしょう。
報告しなければ、私は聖女としての責任を問われてしまうかもしれない。
目を閉じる。
答えはまだ出ない。
けれど一つだけ、これだけは確かなことがあります。
もし神殿が動くのなら。
もし国が彼女を彼から奪おうとするのなら。
その時は――
私が、盾になりましょう。
たとえ聖女の座を失っても。
たとえ神に背くことになっても。
これは異国の地に呼ばれ、その身を賭して魔王討伐を成し遂げた英雄へのせめてものお礼。
そして。
ほんの少しだけ、胸の奥に隠した本音。
…湊さんの隣に、もう一度立ちたい。
月明かりの下、手を組み私は再度祈る。
どうか。
この穏やかな時間が、少しでも長く続きますように。
たとえこの願いが叶わないものだとしても。




