第十五話 静かな街道
朝の光がヘブンズ・ロッジ号の窓から差し込んできた。
俺が目を覚ますと胸元に重みがある。
視線を落とせば悠里が俺の腕を抱えたまま眠っていた。
寝息は規則正しく、長い髪が俺のシャツに広がっている。
まるで高名な絵画から飛び出してきたかのような美しさ。
俺は起こさないようにそっと指を伸ばして悠里の髪を撫でた。
小さく身じろぎしてさらに寄ってくる。
無意識下でも可愛らしい。
「…ほんと、待たせてしまったな。」
小さく呟きながら愛しい妹の寝顔を眺める。
今俺達は王都を離れ、再び旅に出ていた。
窓の外には草原が広がり、風が穏やかに流れていた。
平和そのものだ。
少なくとも見える範囲では。
胸の中で目を覚ました悠里がゆっくりと体を起こす。
「おはよう、お兄ちゃん。」
「おはよう、悠里。よく眠れたかい?」
「うん…。」
眠気眼でそう言いながらいつものように俺の袖を掴んでくる。
俺は自然に片手で頭を撫でた。
今日も、いつも通り。
――そう思っていた。
その時、悠里の指先がほんの一瞬だけ強く俺の服を握った。
◇ ◇ ◇
街道を進むにつれて私は胸の奥がざわつくのを感じていた。
理由は分からない。
ただ、何となくで確証はなかった。
鳥の声がしないから?
風の匂いが薄い気がする?
景色は変わらないのに世界の輪郭だけが少し歪んでいるような、なにかがおかしい気がする。
「…お兄ちゃん。」
無意識に呼んでいた。
お兄ちゃんがちらりとこちらを見る。
「どうしたんだい?」
「んーん。なんでもない…。」
そう答えたけれど本当は違う。
なんでもなくはない。
胸の奥がじわじわと冷えていくような感覚。
私の中でナニかが勝手に揺れている。
自分の中にあるナニかが外の“何か”に反応している感覚がある。
私はそっとお兄ちゃんの袖を掴んだ。
離れないように。
離れてしまわないように。
お兄ちゃんは何も言わず優しく頭を撫でてくれた。
その温もりに少しだけ安心する。
けれど、嫌な予感は消えなかった。
◇ ◇ ◇
陽が落ちて夜。
その存在は暗い空に溶けていた。
雲でも霧でもない。
影そのものが高空から地上を見下ろしている。
草原を進む鋼鉄の箱。
その中に二つの光。
ひとつは安定した鈍く深い白。
もうひとつは――幼く、だが深く澄んだ金色。
「…見つけた。」
声は音にならず、空間に染み込む様に溶けていく。
強力な勇者。
そして――“核”。
(人間の形をしているが、あれは人間だとは思えない。)
魔族の感覚器官が告げていた。
あれは世界の楔。
触れれば壊れ、放置すればいずれ脅威へと育つ。
影はゆっくりと輪郭を揺らす。
接触にはまだ早い、今接触すれば大きなしっぺ返しに合うのは自明の理。
だが、放置するわけには行かない。
まずは観測か?
まずは測定か?
いやまずは――“護っている側”の深さを。
鋼鉄の箱の内部。
眠る少女とその隣で目を閉じる男。
男の魔力は異常だった。
英雄級。
勇者級。
――否。
下手したらそれですら足りないかもしれない。
影は無意識に恐れ、ほんの僅かだけ距離を取った。
「これは…少し厄介。」
そして闇は散り、何事もなかったように夜空へ溶けていった。
◇ ◇ ◇
その頃。
悠里は浅い眠りの中にいた。
暗い海の底を歩いているような感覚。
音はなく、色も曖昧でただ遠くから誰かの視線だけが降ってくる。
怖い、というより――嫌だった。
胸の奥に冷たい指を差し込まれる感覚。
「…お兄ちゃん…。」
無意識に湊を呼ぶ。
そうすると闇の中に小さな灯りがともった。
温かくて、どこか懐かしい光。
その光に触れた瞬間、世界がふっと遠ざかる感覚に襲われる。
悠里はぎゅっと何かを掴んだ。
現実側で湊の服を。
そして小さく息を整える。
夢の中の影はそこで霧散していった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ロッジ号の中で悠里は俺の腕を枕にして眠っていた。
小さな寝息。
暖かな体温。
俺はその髪を指で梳きながら、今日感じた違和感を反芻していた。
魔物の不自然な動き。
街道に残っていた魔力の残滓。
空間の淀んだ歪み。
間違いないだろう。
魔族が動き始めている。
しかも今回は露骨じゃない。
入念に準備をしているようだ。
探るように。
触れないように遠くから。
勇者を――悠里を。
俺も探っているみたいだがその程度では測りきれないだろう。
俺は眠る悠里の頬を優しく撫でる。
起こさないように、そっと。
「大丈夫だ。」
小さく呟く。
悠里には聞こえない声で。
十中八九魔王軍の残党だろう。
こちらに手を出す気なら全部俺が片付ける。
奴等の事情など関係ない。
この子が笑って過ごせるならそれでいいからだ。
前の戦争よりも慎重な分もっと面倒な匂いがする。
けれど。
関係ない。
悠里に手を出すなら神でも魔王でもまとめて叩き潰すだけだ。
そんな俺の意思が伝わったのか、遠くの山の向こうで暗い空に黒い光が一瞬だけ瞬いた。
どうやら覗き見していた者は離れて行ったらしい。
遠くで虫が鳴き、草が擦れる音だけが残った。
どことなく懐かしい静けさ。
この感覚を嵐の前の静けさと言うのだろう。
眠る悠里の指が俺の服をぎゅっと掴んだ。
あぁ、本当に可愛い妹だ。




