第9話
エドワード殿下たちが嵐のように去ってから、グレイロック城には束の間の、しかしどこか張り詰めたような穏やかな日々が戻りました。
わたくしとアシュレイ様は、以前にも増して固い絆で結ばれたことを実感していました。
彼はわたくしの隣で、わたくしは彼の隣で。互いを支え、守り合う。その確信が、何よりの力となりました。
けれど、二人とも理解していました。
これは、終わりではない。むしろ、本当の戦いの始まりに過ぎないのだ、と。
「王都からの全ての街道に、検問を強化させろ。不審な者を見つけ次第、報告するように」
アシュレイ様は、領地の守りを固め、来るべき次の一手に備えていました。
わたくしもまた、温室で薬草を育てる傍ら、万が一の事態に備え、保存の利く軟膏や滋養剤の調合を進めていました。この手で掴んだ幸せな日常を、今度こそ、わたくし自身の手で守り抜くために。
しかし、次なる敵は、剣や槍を持って城門を叩きには来ませんでした。
それは、もっと狡猾で、もっとたちの悪い、目に見えない毒矢となって、静かに、しかし確実に、この北の地に放たれたのです。
最初に異変を知らせてきたのは、南の関所を預かる兵士でした。
「最近、王都から来る行商人たちの間で、妙な噂が囁かれていると……その……」
報告をためらう兵士を促し、内容を聞き出したアシュレイ様の顔が、みるみるうちに険しいものになっていきました。
『北の女神は、まやかしだ』
『その正体は、触れたものを狂わせる呪われた緑の魔女』
『公爵はその魔女に誑かされ、王家に反旗を翻す準備をしている』
あまりにも悪意に満ちた、根も葉もない流言飛語。
しかし、噂はそれだけでは終わりませんでした。
『魔女の呪いは、やがて土地そのものを蝕み、最後には草木一本育たない死の大地へと変えてしまうだろう』
その一文は、この不毛の地で、ようやく小さな希望の芽を育て始めた領民たちの心に、最も深く突き刺さる、呪いの言葉でした。
そして、その噂に、致命的なまでの『神聖さ』という権威を与えたのが、聖女ソフィア様でした。
彼女は、王都の大神殿の祭壇から、涙ながらに『神のお告げ』があったと宣言したのです。
「神は嘆いておられます……! 北の地で、偽りの女神が大地を穢し、神の御業を弄んでいる、と。その穢れのせいで、王都の恵み深き大地までが、その力を失い始めているのです……!」
王都の凶作の責任を、全てわたくしになすりつける、あまりにも卑劣な責任転嫁。
『聖女のお告げ』は絶対です。それを疑うことは、神を疑うことと同義。
領民たちの間に、じわじわと動揺と不信が広がっていくのを感じました。
城下町を歩けば、以前は親しげに「女神様」と声をかけてくれた人々が、今は遠巻きに、不安そうな、あるいは何かを値踏みするような目で、こちらを窺っているのが分かりました。
鍛冶屋の主人のように、娘を救われた恩から、変わらずわたくしを信じてくれる人もいます。
けれど、人の心とは、弱いもの。
一度植え付けられた疑念の種は、日々の不安を養分にして、あっという間に根を張ってしまうのです。
「リゼット、気にするな。真実は、我々が知っている」
アシュレイ様は、わたくしの手を固く握り、何度もそう言ってくれました。
けれど、わたくしには分かっていました。彼もまた、領主として、民の心が離れていくことに、深い痛みを感じていることを。
そして、恐れていた最悪の事態は、ある朝、現実のものとなりました。
城に血相を変えた農夫が駆け込んできたのです。
「こ、公爵様! 大変です! 西の畑が……西の畑の作物が、一夜にして枯れちまっただ!」
わたくしとアシュレイ様が現場に駆けつけると、そこには、信じられない光景が広がっていました。
数日前まで、青々とした葉を茂らせていた麦の畑が、広範囲にわたって、まるで全ての生命力を吸い尽くされたかのように、茶色く変色し、萎びていたのです。
「……なんて、こと……」
その光景は、あの日の悪夢を、あまりにも鮮明に蘇らせました。
母様の薔薇園。黒く変色し、崩れ落ちていく花々。
周囲に集まっていた領民たちが、わたくしを見てひそひそと囁き合っているのが聞こえます。
「やっぱり、噂は本当だったんだ……」
「魔女の呪いが、とうとう始まったんだ……」
「俺たちの土地も、こうなっちまうのか……?」
違う。違うのです。わたくしは、何もしていない。
そう叫びたいのに、喉が張り付いたように声が出ない。
過去のトラウマと、人々の疑いの視線が、見えない鎖となって、わたくしの体を縛り付けていました。
「これは、リゼットのせいではない!」
アシュレイ様が、領民たちに向かって鋭く言い放ちました。
「何者かが、我々と、そして君たち領民を陥れるために仕組んだ罠だ! 決して惑わされるな!」
彼の領主としての威厳に満ちた声に、領民たちは一瞬たじろぎます。
アシュレイ様は枯れた麦の根元の土を手に取り、その匂いを嗅ぎ、顔を顰めました。
「……かすかに、薬品の匂いがする。これは自然に枯れたのではない。何者かが、水源に毒を流した可能性が高い」
毒……!
その言葉に、わたくしははっとしました。
ソフィア様とエドワード殿下の、あの憎しみに満ちた瞳を思い出す。
力で奪えないと知るや、こんな卑劣な手段で、わたくしたちから全てを奪おうとしている。
わたくしは、自分の不甲斐なさに、唇を強く噛み締めました。
ただ怯え、立ち尽くしているだけだった自分。
アシュレイ様に守られてばかりで、何もできていない。
このままでは、また、大切なものを全て失ってしまう。あの日のように。
(……いいえ)
わたくしは、ゆっくりと顔を上げました。
震える足に、力を込めて、一歩、前へ出る。
(もう、失うのは、たくさんです)
アシュレイ様の隣に立ち、領民たちの不安そうな顔を、一人一人、真っ直ぐに見つめました。
そして、深く、息を吸い込む。
「皆様、どうか、お聞きください」
凛、とした声が、自分でも驚くほど、はっきりと響きました。
「わたくしの力が、皆様に不安を与えていることは、存じております。ですが、断じて、この大地を枯らすような呪いではございません」
わたくしは、懐から、小さな革袋を取り出しました。中に入っているのは、温室で育て、特別に生命力を込めておいた、麦の種です。
「わたくしは、逃げも隠れもいたしません。この手で、必ずや、この大地を蘇らせてみせます。そして、皆様の信頼を、取り戻してみせます」
わたくしは、その場に膝をつくと、枯れた麦を取り除き、乾いた土を掘り起こしました。
そして、そのくぼみに、一粒の種を、そっと置く。
「どうか、見ていてください。わたくしとアシュレイ様が、この土地で紡いでいく、本当の『春』の物語を」
わたくしは、黒い手袋を外し、白い素肌の掌を、種が眠る大地に、そっと、置いたのでした。
物語は、終わらせない。
ここからが、わたくしたちの本当の戦いなのだから。




