第6話
「試してみる気はないか?」
アシュレイ様の静かな問いが、ガラス張りの温室にこだまするようでした。
彼の黒曜石の瞳は、ただ真っ直ぐにわたくしを見ています。そこに宿るのは、扇動でも、無責任な期待でもない。ただ、わたくしという存在の可能性を、心の底から信じようとしてくれている、真摯な光でした。
(この力が、祝福……?)
その言葉が、胸の中で何度も反響します。
母様を悲しませ、父と兄に疎まれ、エドワード殿下に婚約を破棄される原因となった、この忌まわしい力。
わたくしの人生から、温もりと色彩を奪い去った元凶。
それを、この人は、祝福と呼ぶのか。
目の前には、アシュレイ様が触れて少しだけ萎れてしまった、か弱い苗があります。
彼が長年、民のためにと心血を注いできた、小さな希望の光。
わたくしが触れれば、きっとこの小さな光も、あの日の薔薇園のように、一瞬で黒い塵と化してしまう。
(怖い……)
心臓が、鳥籠の中の鳥のように、激しく胸を打ちます。
喉がからからに渇いて、指先が冷たくなっていく。
フラッシュバックする光景は、いつも同じ。絶望に染まった母様の瞳と、黒く崩れ落ちていく白い薔薇。
(でも……)
わたくしは、目の前に立つ人を見上げました。
『荒地の公爵』と恐れられながら、たった一人で、この凍える土地と、民の未来のために戦い続けている人。
彼の孤独と苦悩を、ほんの少しだけ、垣間見てしまったから。
彼の絶望が、わたくしの絶望と、あまりにも似ていたから。
もし、万が一。億が一でも。
この忌まわしい力が、この人の助けになるのなら。
「……もし、わたくしが、この苗を枯らしてしまったら……?」
震える声で尋ねるのが、精一杯でした。
アシュレイ様は、ほんのわずかだけ微笑みました。
「その時は、また二人で種を蒔こう。何度でもだ」
その言葉が、最後の引き金を引きました。
失敗を恐れるな、と彼は言ってくれている。たとえ枯らしてしまっても、君のせいではない、と。
ああ、この人は、なんて……。
わたくしは、ゆっくりと、自分の右手を見つめました。
いつも、世界からわたくしを隔ててきた、黒い革の手袋。
母様を失ってから、人前で外したことなど、一度もありませんでした。
けれど、今。
わたくしは、左手で、その手袋の指先を掴みました。
ごくり、と息を呑む。
震える指で、ゆっくりと、一枚の皮を剥がすように、手袋を引き抜いていく。
露わになった素肌は、長年、陽の光を浴びていないせいで、病的なほどに白く見えました。
手袋を完全に外し、冷たい空気に素肌が触れた瞬間、ぶわり、と体内から魔力が溢れ出しそうになるのを感じます。いつもと同じ、制御できない力の奔流。
ああ、やはりダメだ――!
そう思った、その時でした。
温室を満たしていた、アシュレイ様の魔力――生命力を吸収する静かな力が、わたくしの溢れ出す魔力に、まるで磁石のように引き寄せられ、絡みついていくのを感じたのです。
暴走しようとする奔流が、穏やかな川の流れへと、その勢いを和らげられていく。
これは、今まで一度も経験したことのない、不思議な感覚でした。
「……!」
アシュレイ様は、何も言いません。ただ、静かに、わたくしを見守ってくれています。
わたくしは、彼の信頼に応えたい一心で、覚悟を決めました。
震える右手の指先を、そっと、萎れた苗の葉へと近づけていく。
そして。
ほんのわずかに、指の腹が、葉のざらりとした表面に触れました。
目を、固く瞑る。
次に目を開けた時、きっとここには黒い灰しか残っていない。
そう、覚悟しました。
けれど。
一秒経っても、二秒経っても、想像していた力の爆発は起きませんでした。
代わりに、指先から伝わってきたのは、穏やかで、温かい、脈動のようなもの。
恐る恐る、瞼を上げる。
そして、目の前の光景に、わたくしは息を呑みました。
「あ……」
わたくしの指先から、淡い、春の陽光のような金色の光が、蛍のように溢れ出していました。
その光は、まるで壊れ物を包む絹のように、優しく苗を覆っています。
そして、光に照らされた苗は――萎れていた葉を、ゆっくりと、しかし力強く持ち上げ、見る見るうちに生き生きとした緑色を取り戻していったのです。
それだけではありません。
苗の先端から、小さな蕾が、きゅっと顔を出し、それがゆっくりと花開いていく。
純白の、愛らしい五枚の花弁を持つ、可憐な花。
暴走ではない。破壊でもない。
そこにあったのは、完璧なまでの『調和』と『再生』の奇跡でした。
「……やはり……そうだったのか……」
隣で、アシュレイ様が、感嘆と歓喜の入り混じった声で呟くのが聞こえました。
わたくしが、呆然と彼を見上げると、彼は今まで見たことのないような、輝く笑顔を浮かべていました。
「君の魔力は、確かに強大すぎる。だが、俺の『吸収』の魔力が満ちたこの場所では、その過剰な力が自然と抑制される。そして、植物にとって本当に必要な分だけの、純粋な生命力だけが注ぎ込まれる。俺の仮説は、正しかった……!」
そう、いうこと……。
わたくしの力が暴走していたのは、その力を抑えるものが、何もなかったから。
そして、彼の力が全てを枯らしていたのは、与えるものが、何もなかったから。
まるで、太陽と大地。雨と乾いた土。
わたくしたちは、二人で一つでなければ、成り立たない存在だった。
その事実が、すとん、と胸の奥に落ちてきた瞬間。
こらえていた感情の堰が、一気に決壊しました。
ぽろり、ぽろりと、熱い雫が後から後から溢れ出して、止まらない。
「……う、あ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
自分の力が、初めて、何かを壊さなかった。傷つけなかった。
それどころか、新しい命を、こんなにも美しい花を、咲かせることができた。
その事実が、嬉しくて、嬉しくて。
「よかった……枯らさなくて、よかった……!」
しゃがみこんで泣きじゃくるわたくしの肩を、大きな手が、そっと、優しく支えてくれました。
アシュレイ様でした。
「ありがとう、リゼット」
彼の声は、感謝と、そして深い安らぎに満ちていました。
「君は、やはり、俺の希望だ。……いや、君こそが、この不毛の地に春を告げる、たった一人の女神だ」
顔を上げると、涙で滲んだ視界の中に、心配そうにこちらを覗き込む、黒曜石の瞳がありました。
その瞳に映る自分の顔が、きっと、ひどいことになっているのは分かります。
けれど、今は、どうでもよかった。
長年、わたくしを縛り付けてきた『呪い』という名の鎖が、音を立てて砕け散った。
その解放感と、温かな喜びに、わたくしはただ、泣き続けることしかできなかったのです。




