第5話
アシュレイ様が開いた古びた木の扉の向こうには、地下へと続く石造りの螺旋階段が、静かな闇の中へと伸びていました。
ひんやりとした空気が、スカートの裾を優しく撫でる。それは、黴臭い地下室の空気ではなく、雨上がりの森の奥深くのような、湿り気を帯びた清浄な土の匂いでした。
「怖がることはない。ついてきて」
アシュレイ様は、壁に備え付けられていた魔石のランプに灯りをともすと、先に立って階段を下りていきます。その落ち着いた声と、頼もしい背中に導かれ、わたくしは恐る恐る、その後に続きました。
カタ、カタ、とわたくしたちの足音だけが響く。
どれくらい下りたでしょうか。階段の終わりが見えてきた頃、目の前に、柔らかな光を放つ大きな扉が現れました。
「着いた」
アシュレイ様がその扉を押すと、ぎい、と重い音を立てて開きます。
そして、扉の向こうに広がっていた光景に、わたくしは言葉を失いました。
「……まあ……!」
そこは、信じられないほど広大な、ガラス張りの空間でした。
高いアーチ状の天井には、太陽光によく似た光を放つ魔石がいくつも埋め込まれ、まるで曇り空の日の陽だまりのように、空間全体を柔らかく照らしています。
ガラスの壁の向こうは、固い岩盤に囲まれており、ここが城の地下深くに作られた特別な場所であることが分かりました。
地下の、巨大な温室。
しかし、その光景は、わたくしが知るどの温室とも違っていました。
整然と区切られた花壇には、豊かな黒土が満たされています。けれど、そのほとんどは空っぽのまま。色とりどりの花が咲き乱れているわけでも、青々とした葉が茂っているわけでもないのです。
ただ、広大な空間の隅の方に、ほんの数区画だけ、か細く、頼りなげな緑の芽が、一生懸命に土から顔を出しているのが見えました。
「ここは……?」
「俺の庭であり、研究室であり……そして、俺の絶望の象徴でもある場所だ」
自嘲するような響きを含んだアシュレイ様の言葉に、わたくしは彼の横顔を見上げました。
魔石の光に照らされたその表情は、先ほど食堂で話していた時よりもずっと硬く、深い苦悩の色をたたえているように見えました。
彼は、空っぽの土が広がる花壇へと歩き出します。
「人々は俺を『荒地の公爵』と呼び、俺の魔力が土地を不毛にすると言う。……それは、間違いではない」
彼はそこで言葉を切り、一つの小さな苗が植えられた区画の前で膝をつきました。
「俺の魔力は、生命力を吸収する性質を持つ。特に植物との相性が最悪でな。俺がただそばにいるだけで、大地は力を失い、草木は枯れていく」
それは、わたくしが聞かされていた噂通りの内容でした。
けれど、彼の口から直接語られると、その言葉の重みは全く違って感じられます。
「この温室は、俺の魔力を遮断する特殊な鉱石を練り込んだガラスで囲い、天井の魔石で生命力を補うことで、かろうじて植物が育つ環境を維持している。この城で唯一、緑が存在できる場所だ」
アシュレイ様は、まるで壊れ物に触れるかのように、そのひょろりとした苗の葉を、指先でそっと撫でました。手袋越しではない、彼の素肌の指先が。
その瞬間、苗の葉先が、ほんのわずかに萎れて色を失ったのを、わたくしは見逃しませんでした。
「……!」
「見ただろう? これが、俺の呪いだ」
彼は静かに言います。
「この環境でも、俺の影響を完全に消すことはできない。育てられるのは、極端に生命力の強い薬草の類だけ。それも、成長は遅く、いつ枯れてもおかしくないほどにひ弱だ」
アシュレイ様は立ち上がり、わたくしに向き直りました。
その黒曜石の瞳には、諦めと、それでも捨てきれない僅かな希望が入り混じった、複雑な光が揺らめいていました。
「この北の地は、厳しい。怪我をしても、病になっても、効き目の良い薬草は育たない。王都から取り寄せるには時間も金もかかる。俺は、この地の領主として、民のために、せめて薬の一端でも自給できるよう、何年もここで研究を続けている。……だが、結果はこの有様だ」
衝撃でした。
戦の英雄、灰色の魔術師、荒地の公爵。
人々が彼を呼ぶ、恐ろしく、そしてどこか非人間的な呼び名。
その全てが、今、目の前で崩れ落ちていきました。
わたくしの目の前にいるのは、ただ、自分の民を思い、己の無力さに苦悩する、一人の誠実な青年の姿でした。
そして、わたくしは気づいてしまったのです。
彼の悩みと、わたくしの呪いが、まるで鍵と鍵穴のように、正反対の形をしていることに。
彼は、生命力を『奪う』。
わたくしは、生命力を『与えすぎる』。
もし。
もし、わたくしの力があれば。
この、今にも枯れてしまいそうな小さな命を、救うことができるのではないか……?
その考えが頭をよぎった瞬間、ぞわり、と背筋に悪寒が走りました。
ダメ、だめです。
わたくしが触れれば、このか弱い苗など、一瞬で力の奔流に飲み込まれて、黒い塵になってしまう。
母様の、あの美しい薔薇園のように。
また、わたくしは、大切なものを壊してしまう。
恐怖で、無意識に手袋をつけた手をぎゅっと握りしめる。
その時でした。
「君の力を、私は『呪い』だとは思わない」
アシュレイ様の、静かで、けれど確信に満ちた声が、温室の澄んだ空気に響きました。
わたくしが顔を上げると、彼は真っ直ぐに、わたくしの目を見ていました。
「それは、使い方を知らないだけの、強大な『祝福』かもしれない、と私は考えている」
「……祝福、ですって……?」
信じられない、という響きが、声に含まれてしまったかもしれません。
この力が、祝福? この、何もかもを破壊するだけの力が?
「リゼット嬢。君をここに迎えたのは、王家の命令だけが理由ではない。私は、君のその力に賭けてみたくなったんだ」
彼は、先ほど触れて少し萎れてしまった苗を指さしました。
その葉は、痛々しく垂れ下がっています。
「試してみる気はないか?」
優しい、問いかけでした。
それは、夜会でエドワード殿下が叫んだ、見せしめのための命令とは全く違う。
わたくしの力を必要としてくれる、信頼に満ちた提案。
わたくしは、ゆっくりと、自分の黒い手袋に覆われた手を見つめました。
この向こう側にある、忌まわしい力。
けれど、もし、この力が、目の前で苦しんでいるこの人を、彼の民を救うための『祝福』だとしたら?
恐怖と、そして、生まれて初めて胸に宿った小さな、小さな希望の芽。
その二つの感情の間で、わたくしの心は、激しく揺れ動いていました。




