第4話
「その手袋は、君が望んで着けているのか?」
静かなホールに響いた公爵様の問いは、まるで穏やかな水面に落ちた一滴の雫のように、わたくしの心に波紋を広げました。
誰もが『呪い』の象徴として忌み嫌った、この黒い手袋。
それを外せと命じる者はいても、わたくしの意思を尋ねる者など、今まで誰一人としていませんでした。
「……これは……」
わたくしは、どう答えるべきか分からず、言葉に詰まります。
望んでいるか、と問われれば、答えは否。
こんなもの、本当はすぐにでも外してしまいたい。素手で花に触れ、木々のざらついた幹を感じ、温かい人の手に触れてみたい。
けれど。
(できない……わたくしがこれを外せば、また、何かを壊してしまう)
母様の悲しそうな瞳が、脳裏をよぎる。
あの日の、黒く枯れていく薔薇園の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れないのです。
「……わたくしが、望んでおります。これが、わたくしですので」
絞り出したのは、か細く、そして嘘偽りのない本心でした。
呪われた力を持つリゼット・フォン・ヴァインベルクとは、この手袋と共にある存在。これを外したわたくしは、ただの『緑の魔女』でしかありません。
わたくしの答えを聞いた公爵様は、黒曜石の瞳をわずかに細めました。
失望されたでしょうか。それとも、やはり不気味がられたでしょうか。
けれど、彼の口から出たのは、予想とは全く違う言葉でした。
「そうか。……なら、今はいい」
彼はそれ以上何も問わず、まるで何事もなかったかのように、柔らかく微笑みました。
「長旅で疲れただろう。まずは部屋へ案内させる。夕食の準備ができたら、改めて呼びに行かせよう」
そのあまりにあっさりとした反応に、わたくしは逆に拍子抜けしてしまいました。
まるで、道端の石につまずいたのを気遣うような、そんな自然さ。
わたくしの心の最も深い場所に突き刺さった棘に、彼はほんの少し触れただけで、すぐに手を離してしまったのです。
「リゼット様、こちらへどうぞ」
控えていた初老の侍女――白髪を綺麗に結い上げた、穏やかな目元の女性――が、優雅に一礼してわたくしを促します。
わたくしは公爵様にもう一度深く頭を下げ、侍女の後ろについて歩き始めました。
去り際にちらりと振り返ると、公爵様は再び暖炉の炎に視線を戻していました。その横顔は、何かを深く考えているようで、けれどどこか寂しげにも見えました。
長い廊下を歩きながら、侍女が自己紹介をしてくれます。
「わたくし、マーサと申します。これからリゼット様のお世話をさせていただきますので、何なりとお申し付けください」
「……よろしく、お願いします、マーサ」
案内されたのは、東の塔の一室でした。
扉を開けた瞬間、わたくしは小さく息を呑みます。
そこは、驚くほど居心地のよさそうな部屋でした。
質素だったヴァインベルク家の自室とは比べ物にならないほど、広く、そして温かい。
中央には柔らかな絨毯が敷かれ、窓辺には座り心地の良さそうな肘掛け椅子が置かれています。そして、壁際には小さな暖炉があって、ぱちぱちと優しい音を立てて炎が揺れていました。
部屋全体が、まるで陽だまりのように、ほんのりと温かいのです。
「まあ……暖炉が」
「公爵様からの言いつけでございます。『北の地は冷えるゆえ、一番陽当たりの良い、暖炉のある部屋を』と」
その言葉に、あの手紙の一文が蘇ります。
わたくしのことなど、何もご存じないはずなのに。なぜ、これほどまでに……。
部屋のテーブルの上には、もう一つ、見覚えのあるものが置かれていました。
湯気の立つティーカップと、小さなポット。そこから漂ってくるのは、カモミールと蜂蜜の、甘く優しい香り。
わたくしが、母様と一緒によく飲んでいた、大好きなハーブティーでした。
「これも、公爵様が? なぜ、わたくしの好きなものを……」
思わず呟くと、マーサはくすりと微笑みました。
「先日のお手紙に、お返事がなかったのでございますよ。ですから公爵様は、『考えられる限りの温かい飲み物を用意しておけ。きっと、その中に一つくらいは彼女の好きなものがあるだろう』と、料理長に」
その言葉に、胸の奥がきゅう、と締め付けられるような感覚がしました。
返事など、できなかったのです。したくても、その術がなかった。
それなのに、公爵様はそれを責めるでもなく、ただ、わたくしのために最善を尽くそうとしてくれた。
「さあ、お召し物もこちらにご用意が。長旅でお疲れでしょうから、まずはゆっくりとお寛ぎください」
マーサがクローゼットを開けると、そこには、父が持たせた地味なドレスではなく、柔らかで着心地の良さそうな室内着や、上品なデザインのドレスが何着もかけられていました。
何もかもが、ヴァインベルク家で与えられたものとは違いました。
あちらは、わたくしという存在を消すためのもの。
こちらは、わたくしという人間が、快適に過ごすためのもの。
マーサが部屋を出ていき、一人になった途端、こらえていた涙が、ぽろり、と頬を伝わりました。
悲しいのではありません。悔しいのでもない。
ただ、生まれて初めて向けられた、見返りを求めない純粋な優しさに、どう反応していいのか分からなかったのです。
ポケットの中のブレスレットを握りしめる。母様がくれた温もりとは違うけれど、これもまた、確かな温かさでした。
夕食の時刻になり、再びマーサが呼びに来てくれました。
案内された食堂は、晩餐会が開けるような大食堂ではなく、こぢんまりとした、家族的な雰囲気の部屋でした。
テーブルには、既にアシュレイ様が座っています。
「待っていた。体は休まっただろうか」
「はい、公爵様。温かいお部屋と、美味しいお茶を、ありがとうございました」
わたくしは深く頭を下げ、彼の向かいの席に着きました。
テーブルに並べられた料理は、見た目も鮮やかな、心のこもったものばかりでした。
北の地で採れたという香りの良いキノコのスープ。じっくりと煮込まれた鹿肉のシチュー。焼きたての黒パン。
どれも、滋味深く、冷えた体に染み渡るような美味しさでした。
食事の間、アシュレイ様はわたくしの『呪い』については一切触れませんでした。
代わりに、北の地の冬の厳しさや、城での暮らしについて、穏やかに話してくれます。
そして、スープを飲み終えた頃、彼はふと、あの手紙と同じ問いを、もう一度口にしたのです。
「リゼット嬢。差し支えなければ、君の好きなものを教えてくれないだろうか。食べ物でも、色でも、音楽でも、何でもいい」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、わたくしはスプーンを握りしめました。
好きなもの。
(カモミールのハーブティー。春の陽だまりの色。母様が弾いてくれた、竪琴の優しい音色……)
心の中には、たくさんの『好き』が浮かびます。けれど、それを口にすることを、長年自分に禁じてきました。
そんな資格は、わたくしにはない、と。
「……申し訳、ございません。わたくし、そのようなもの、ございませんから」
俯いて答えるのが、精一杯でした。
アシュレイ様は、またしても、わたくしを責めませんでした。
ただ、少しだけ寂しそうに微笑んで、こう言ったのです。
「そうか。……なら、これから一緒に見つけていこう。君が『好き』だと思えるものを、この城で、この土地で」
その言葉は、まるで魔法のようでした。
『ない』と答えたわたくしを否定せず、未来の可能性を示してくれる。
この人は、本当に『荒地の公爵』なのでしょうか。わたくしが知るどんな貴族よりも、ずっと、ずっと優しい心を持っているように思えました。
食事が終わり、部屋に戻ろうとするわたくしを、アシュレイ様が引き止めました。
「少し、付き合ってもらえないだろうか。君に、見せたいものがあるんだ」
彼はそう言うと、食堂の暖炉の脇にある、一枚のタペストリーをめくりました。
すると、そこには、古びた木製の小さな扉が隠されていました。
「これは……?」
アシュレイ様は、悪戯っぽく片方の口角を上げて、わたくしを見ます。
「俺の、秘密の場所だ。君にだけ、特別に教えてあげよう」
そう言って、彼はその扉に手をかけ、ゆっくりと開いたのでした。
扉の向こうからは、ひんやりとした空気と共に、微かな土の匂いが流れてきました。




